第70話 真夜中の逃避行

「ちょっと落ち着こうか。お茶はないけど、買い置きの甘いものぐらいならあったかな」


 トトルバさんは猫なで声でそう言って、席を立った。衝立ついたてで仕切られた向こうがどうやらキッチンらしい。私に気を使ってくれたのかもしれない。

 トトルバさんも優しいな。

 エリーシャさんが一生をかけて、そして一生を捨てて尽くそうと思ったのが少しだけわかる。

 私は袖口で涙をぬぐい、火照った目元を冷まそうと、窓を開けた。景色がいいとはとても言えないけれど、取り乱した私の心をそっと慰めてくれる穏やかな風が吹いていた。

 見上げた空には半月が浮かぶ。中途半端な明るさに、星たちの瞬きはここからでは見えない。

 ふと路地に視線を落とすと、黒い影が蠢いているのが見えた。


「ヴェルトだ……」


 長身の猫背は、街路の角に背中を預けて、こっそりと宿の様子を窺っている。

 私を追いかけてきたの? 部屋をこっそり抜け出してトトルバさんのところに来たのがバレた? それとも、ヴェルトの企みに私が気付いたってバレた!?


「トトルバさんっ! ヴェルトが!」

「ん? どうしたんだい?」


 キッチンに呼びかけると、トトルバさんは急いで戻って来て、私と並んで窓から怪しい人物を見下ろした。


「あちゃ。僕がリリィさんを呼びに行ったのがバレていたかな。大変だ! 向こうも気付いたかもしれない」

「ど、どど、どうしよう?」

「落ち着いて。まずはここから出よう。僕はあまり目が良くないけど、リリィさんなら見えるかな? ヴェルトさんはキャメロンを持っているかい?」


 目を凝らしてみる。角度を変えた拍子に、月明かりがヴェルトの胸元で反射した。


「持っている、と思う」

「ビンゴだね。こうしちゃいられない」


 トトルバさんは言い終わるや否や、部屋中を駆け回って、旅道具を一つの鞄にまとめた。それを背負って、窓のところに戻ってくる。


「こんなこともあろうかと荷物は最低限しか持ってないんだ。さぁ、あっちに梯子を用意してある。それで下に降りよう」


 木の板をロープでつなげただけの簡単な梯子。端を部屋のベッドに括りつけ、反対側を窓の外に投げ捨てる。


「で、でもっ。一方的に疑うのも悪いし……。まだ、裏切られたって決まったわけじゃ……」

「何を言っているんだい、リリィさん! これは童話じゃない。現実だ。事態はここまで来てしまった。向こうも必至だろうね。出会ったが最後、彼は間髪入れずにキャメロンのボタンを押すよ」


 激しい言葉。トトルバさんも焦っているのかもしれない。


「ごめんよ。忠告のつもりだったのに、巻き込んでしまった。さ、早く」


 私は窓の外に垂れる梯子を見つめる。ヴェルトがこちらに気付く様子はない。落ちても命に係わる高さではないとはいえ、追いつめられる状況と整理のつかない気持ちのせいで足が竦む。

 後ろ向きに恐る恐る踏み出すと、風に揺れて想像以上に怖い。

 私は目をつぶって、一段一段、梯子を下りる。ようやく足が地面に着いた時、言いようのない安心感に襲われた。


「トトルバさん、次、早く!」

「あぁ! 今行く!」


 部屋から何か重いものを引きずる音がして、ぴょこりと印象的なモミアゲ顔が姿を現した。トトルバさんは、器用に梯子を下りると、私の横に立つ。


「扉に戸棚を立てかけて来た。これで少しは時間が稼げる。行こう」


 差し出された手に、一瞬躊躇した。胸の前で両手を合わせて、ヴェルトがいるであろう石垣の向こうを見つめる。


 ……本当にこれでいいのかな。


 そんな思いが頭をかすめた時、ふいに手を握られた。

 トトルバさんの手。

 余裕も優しさもなくて、手首が痛んだ。


「行くよ!」

「あ、ちょっと……」


 強引に引っ張られ、私も駆け出した。

 宿の裏口の錠を開け、月明かりすら届かない路地に出る。煉瓦の道には苔が生えていて、昼間でも日が当たらない場所であることが窺い知れる。逃げるにはちょうどいい。丁度いいはずなのに、やっぱり私の心は落ち着かない。


「と、トトルバ、さんっ! どこ行くの!?」

「そうだね。まずは、ヴェルトさんを巻くことが先決だよ。大丈夫。地の利は僕にある」


 引っ張る手は緩むことはなく、走るペースは私の許容量を超えていた。


「待って、トトルバさんっ! 速いっ! そんな早く走れないよ。――わっ」


 危ないっ! そう思った時には既に遅かった。

 私は自分の足に躓いて盛大に転倒した。肘と膝といろんなところをぶつけて、じわりじわりと痛みが広がって来た。

 繋いでいた手が離れた。


「いたた……」

「リリィさん! 転んでる場合じゃないっ! ヴェルトさんが、すぐそこに!」

「でも、でもっ! 膝が痛くて、走れないよ!」


 山道で木の根っこに引っ掛けて転んだのとは違う。煉瓦は固く、私に大きな擦り傷を作った。身体を起こすと、あちこちから血が滲み始めた。

 トトルバさんはようやく状況を理解してくれて、ゆっくりとこちらに近づいてきた。

 狭い路地の途中。あと少しであの綺麗な大通りに出られた。そこまで出れれば、選択肢はたくさんあったと思う。コーギーさんの思い出を回収したバーのように、深夜営業のお店もある。匿ってもらうことも、治療を頼むこともできたかもしれない。


「リリィさん」


 トトルバさんは、私を抱き起して壁に背を預けて座らせてくれた。


「ごめんなさい。私……」

「……ここらが潮時かな」


 トトルバさんの声はとても冷静だった。さっきまでヴェルトから逃げようと熱くなっていた表情とは違う。


「私、ちょっと、もう、走れなくて。どこか隠れるところを……」

「リリィさん、提案がある」


 改まったように問う。膝を畳んでトトルバさんの顔が近くなった。




「このまま、僕とこの街を出ないかい?」

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