第69話 オオカミ

 例の廃墟同然の安宿の石垣に身を隠し、顔だけ突き出して中の様子を窺う。

 建物の灯りは全て落とされていて、半分に欠けた月の光だけが頼りだ。首にいつもの重さがぶら下がっていないことも、心細い理由の一つだった。


「トトルバさーん」


 ボリュームを最大限絞って宿の入り口に向かって叫んでみた。反応は意外にもすぐにあった。

 蝶番が悲鳴を上げながら玄関が開くと、そこから捻じれたモミアゲ顔の男が顔を出した。


「リリィさん? どこだい?」

「ここ、ここ」


 同じように絞られたトトルバさんの声に私は手を振って返した。斜めに歪んでいたトトルバさんの眉が、安心したように持ち上がる。


「僕の部屋で話そう。こっちにおいでよ」


 手招きする手に誘われて、私はトトルバさんの宿へと入っていった。

 一歩歩くごとに廊下の板張りが悲鳴を上げる。自分で立てた音に驚いて、いちいち心臓が叫び上げた。廊下は薄暗く、かび臭い匂いが充満していて、掃除も行き届いていない。前を歩くトトルバさんの背中だけが、この異世界と現実を繋ぐ唯一の手掛かりのような気がした。


「ここだよ」


 階段を登った先の古びた扉の前で、トトルバさんは止まった。隙間風すら防げない扉。燭台に火はなく、あちこちに蜘蛛の巣が張っているけれど、気にしている様子はなかった。私があてがわれた一人部屋とは比べ物にならないほど汚く貧相だ。


「ね、ねぇ。どうしてトトルバさんは、こんなところに泊まっているの?」

「こんなところ? あぁ、殺風景ってことかな?」

「殺風景って言うか……」

「ま、僕の生活なんて、どうでもいいじゃん。重要なのは、お客さんに喜んでもらうことだからね。これ、童話とおんなじ」


 そう笑って、私を中に通してくれた。


「ごめん、お茶もなくてね。緊急の用だったから、お構いする準備もできない」

「いえ、全然いいですっ」


 この惨状でお茶が出て来るなんて、いくら私でも期待していない。それに、私は呑気にお茶を飲みにここに来たわけじゃない。


「トトルバさん。さっき言ってた詳しい話って……」

「そうだね。その話をしよう」


 トトルバさんはテーブルの上の蝋燭に小さな火を灯しベッドに腰かけ、私に小さな椅子を譲ってくれた。頼りなく揺らめく炎によってできた自分の影が、別の生き物のように闇夜に踊る。


「落ち着いて聞くんだよ。ヴェルトさんは、……彼はオオカミだ」


 まっすぐに伸びる真剣なまなざしが、私を捉えて離さない。


「オオカミ?」

「『紅の小屋のヤギ』って童話、もちろん知ってるだろ? ヤギを騙して食べようとするあのオオカミ。狡猾で残忍、けれど、その牙は周到に隠している」


 もちろん知っている。『紅の小屋のヤギ』は、母親が子供にする有名なお伽噺の一つだ。童話の国で育った子供なら、それが例え童話好きの王女じゃなくても、あらすじぐらいは知っている。

 お腹を空かせたオオカミが、ヤギの子供たちを食べてしまおうとする話だ。子ヤギを襲うのは簡単だ。鋭い爪と牙で引き裂いてしまえばいい。けれどオオカミはそうはしない。その家族を丸ごと頂こうと、病弱な老婆を装って、小ヤギたちに世話をさせ、そして一匹、一匹と丸のみにしていった。息子たちが帰って来ないことに気付いた母ヤギが、様子を見に行くと、老婆の姿はすでになく、代わりにお腹が山のように膨れ上がったオオカミが一匹寝転んでいた。

 残忍で狡猾。そんな人間を比喩するときによく持ち出される動物がオオカミだった。


「オオカミって。確かにヴェルトは頭いいけど……」

「頭がいい人ほど信用しちゃあいけないよ、リリィさん。凡人では考えもつかないことを、平気な顔して考えている。身近な人に笑顔を向ける傍ら、ずっと虎視眈々と爪を研いでいるなんてよくある話さ」

「で、でも……」

「僕も別に頭が切れる方じゃない。でもね、同じ道を歩んだものとして、彼の微妙な行動が何を示すかが分かる」

「微妙な仕草?」

「例えば、鼻の頭をかく仕草」


 トトルバさんは私の目を見て、真摯に語る。


「人は嘘を吐くときどうしても意識してしまう。意識すると普段より余計に血液が必要になる。ほら、ドキドキするっていうだろ? あれは心臓が脳へと血液を送ろうと頑張ってるんだ。で、その途中にある鼻は、血液の通り道。必然、血流が上がって、人はその違和感から鼻がかゆくなる」


 私はこれまでを思い返した。

 ヴェルトが私と話すとき、鼻をかいていることがあっただろうか?

 思い出せない。普段見慣れ過ぎていて、その一つ一つの行動にいちいち意識を向けていなかった。鼻をかいていた気もするし、していなかった気もする。


「じゃあ、次。ヴェルトさんは君に優しくなかったかい? 特に最近だ。体調を気遣ってくれたり、身を挺して守ってくれたり。そう言うことがなかったかな?」


 フェアリージャンキーに襲われたとき、教典の国のチンピラに襲われたとき、ヴェルトは私を守ってくれた。辛くて涙を流した時は、そっと手を差し伸べてくれたし、くじけそうになったときは叱咤してくれた。たまに意地悪な時もあるけど、それももう慣れた。


「優しい……。ヴェルトは、いつも優しかったよ……」

「なるほどね。そういうキャラクターを演じていたのか」

「キャラク、ター……?」


 トトルバさんは胸の前で腕を組んだ。深く息を吐きだして、ゆっくりと瞳を閉じる。


「君の『思い出』の主人公は、もちろん君だよね。じゃあ、主人公の次に大事なのは誰か? それは旅を支えた脇役だ。キャメロンを使った童話の原石では、それは間違いなく責務を課された者になる。ヴェルトさんはね、リリィさんという童話を盛り上げるために、『いい人』を演じているんだ」

「演じている……」


 童話を盛り上げる名脇役。面白い童話には絶対不可欠の存在。物語を盛り上げ、かき混ぜ、主人公を翻弄する。助けもするし、貶めもする。主人公の考えとは違った行動をするからこそ、童話は深く面白くなる。

 ヴェルトには脇役である自覚があって、なおかつ、童話を引き立てるためにヴェルトという人間を演じていると、トトルバさんは言っている……。


「どうかな? 思い当たる節があるんじゃないかな?」

「……わからない」


 絞り出した声は、驚いたことに震えていた。


「でも、そうなのかもしれない……」


 震えた声で、小さく呟いた。

 今までヴェルトを疑ったことはなかった。私はこの旅が楽しいし、ヴェルトも同じように楽しいと思っていると思っていた。もちろん、ヴェルトにとっては思い出を切り出す辛く険しい旅だけれど、それを補うほどの楽しいを、私たちは日々共有していると思っていた。

 でももしかしたら、そう感じていたのは私だけだったのかもしれない。

 ヴェルトの笑顔はずっと偽りで、お父様に向けていた外向きの笑顔と、私に向ける安心させるような笑顔。その裏にとんでもなく腹黒い悪魔のような顔が隠れているのかもしれない……。


「嫌だよ……」


 想像して胸が苦しくなった。


「私、嫌だよ……。ヴェルトは、強くて優しいのに、どうしてそんなことをするの……」

「人間誰しも弱い部分がある。僕にもあったし、リリィさんにもある。ヴェルトさんにもあるのは当たり前だ。――リリィさんがいないところでね、ヴェルトさんは僕に妻の、エリーシャの話を聞いてきた。不自然なほどしつこくね」

「え?」

「どんな状況で奪い取ったのか? どんな思い出があったのか? そして、その思い出でどれだけ減刑されたのか……。――僕が五カ月と答えたら、とても嬉しそうに笑ったよ。背筋に悪寒が走ったのはその時さ」


 トトルバさんはその時のヴェルトの様子を鮮明に語ってくれた。けれど私は、軽快に弾むトトルバさんの声を聞きたくなくて、途中で両手で耳を塞いでしまった。


「うっ……。うぐぅ……。ぐす……」

「ごめんよごめんっ。泣かせるつもりじゃなかったんだっ」

「い、いえっ! トトルバさんの、せいじゃ、ないよ……」


 自分の感情が分からなくなる。

 悲しくて泣いているのか、悔しくて泣いているのか。裏切られた怒りもあるし、それに気づけなかった自分の甘さもある。自分の存在がとてもちっぽけでつまらないものに思えてきて、どうしようもなかった。

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