第71話 主人公の葛藤

「このまま、僕とこの街を出ないかい?」


「え?」


 それは唐突な提案だった。

 辺りから音という音が消え、私の前にはトトルバさんしか見えなくなった。

 意味は分かる。逃げてきた状況を考えて、その提案が出てくるのが不思議な事ではないことも、パンクした頭で理解できた。

 でも、投げかけられた提案に、私は答えを持たなかった。


「僕は一度過ちを犯した。エリーシャのことは本当に後悔している。キャメロンのボタンを押したあの時からずっと、自ら犯した罪の檻に閉じ込められたままなんだ。だから、この提案には僕の懺悔というエゴも含まれている。それは認める。でもそれ以上に。リリィさん。君となら、またやっていける気がするんだ! 僕はもう、過ちを繰り返さない」

「え? え?」

「君も一緒だ。あの男から記憶を奪われる恐怖に苛まれながら、これからも旅を続けていけるのかい? 朝起きて、昨日の記憶が正しいのかもわからない現実。今憶えている記憶が、明日には忘れているかもしれない恐怖。君はそれをもう知ってしまった。このままあの男と一緒に旅ができるのかい?」

「で、でも……」

「僕たちはもう、運命共同体だ」


 私の顔の前に、綺麗な手が差し出された。

 運命、そして決断の時。今まで童話の中で、幾度となく見て来た場面だ。

 葛藤を乗り越え、最善を選択する場面。これまで思い出を奪い取ってきた人たちも、こんな気持ちに直面したんだと、どこか遠い世界にいる自分が思った。

 人生を左右する選択。


 私は……、首を振った。


「ううん。ダメ。これはダメだと思う」

「駄目?」

「うん。私も、トトルバさんも、ヴェルトも。今はみんな熱くなり過ぎている。周りが見えてないよ。前しか見えていない。トトルバさんの話を疑ってはいないけれど、私はまだ、ヴェルトの話を直接聞いてない。今はね、黙って部屋を出てきちゃったの、少しだけ悪かったって、思ってるんだ」


 ヴェルトが私のことをどう思っているかなんて聞いた事ない。考えたことすらなかった。私はそんな不確かな状態で、今という脆い現実を楽しんでいた。

 それは危険だと、トトルバさんは教えてくれた。

 なら、やっぱり確認するべきなんだ。

 私は、これまでの思い出を信じているから。信じたいから。


「……それは、読者の望む答えじゃないよ」


 口から漏れ出したような呟きと同時に、トトルバさんの頭がカクンと落ちた。

 前髪が視線を隠して、その表情が窺えない。前髪の向こうにあるはずの口は、勢いを失って、けれど言葉を紡ぐ。


「訂正だ……。訂正しよう……。『うん、私もトトルバさんと旅に出たい。新しい冒険が待っている!』。こうだな。こうしよう。――全く手のかかる主人公だ。僕の思う通りに締めくくってくれなくちゃ、台無しじゃないか……」

「だ、台無しって?」

「……」

「トトルバさん……? ――ひっ!」


 覗き込もうと見上げた顔のすぐ横に、トトルバさんの腕が突き立てられた。


「僕の作って来た物語のクライマックスにふさわしくないって言ってるんだよっ!」


 汚い言葉遣いに、荒い言い方。

 極限まで見開かれた瞳は、まったく笑っていなかった。


「いやー。うまくいかないよね。現実って奴はさ。今度こそいい思い出だけを詰めた原石にしたかったのにさ。これじゃ、また最後だけ書き直してもらわなきゃならないじゃん。加筆が必要だと責務の減刑が少ないんだよね」

「何を、言っているの……?」

「せっかくいい原石を見つけたと思ったのにさ。あと一歩のところで、思い通りにならない。――君さ、童話好きなんだろ? だったら、ここから始まる展開を想像できないわけないじゃん? どうしてそうしないわけ?」

「展開? トトルバさん。急にどうしちゃったの? 何がしたいの? 怖いよ……」

「何? 何って、そりゃあ」


 トトルバさんは片手で前が身をかき上げて言う。


「童話の原石を、作っているんだよ」

「作って、いる……!?」


 ぶわりと腕に鳥肌が立った。嫌悪感が生まれる。


「あれぇ? リリィさんたちだってやって来たんだろ? 童話を盛り上げるための小細工。人生に葛藤させて、どっちを選んでも不幸になる様な状況を作り出して、相手に選択を委ねる。それが深ければ深いほど、読み手は感情移入できるって寸法じゃん? だからさ、今回の原石さんには、目いっぱい悩めるシチュエーションを提供してあげたってのにさ」

「こ、今回の原石さんって……」

「もー、察しが悪いねぇ」


 口元だけが吊り上がった笑顔が私を見下ろす。


「――君に決まってるじゃん」


 静寂が酷く耳に付いた。煉瓦の手触りも、月の灯りも全てが張りぼてに感じる。ここはとても無機質で、存在している本物は、私と、この目の前で私を見下ろすペテン師だけのようだった。

 一歩後ずさろうと手で探る。けれど、すぐそこには壁がある。不安はすぐに恐怖に変わった。


「う、嘘でしょ? どうして、私なんかの、記憶……。私とトトルバさんの間には思い出なんて……」

「作ったじゃん! 昨日からさ」


 もう片方の手を大袈裟に広げて空を仰ぐ。


「キャメロンの秘密を知っている同業者。互いの苦労を理解でき、二人の間には仲間意識が芽生えた。僕はとっておきの場所を君に案内し、君は僕に心を許した。そして、これまでずっと旅をしてきた人間に裏切られているかもしれないという恐怖と葛藤が生まれ、君は選択に迫られる……。思い出に時間なんて関係ないのさ。密度があればいい。そしてその密度を、僕は作り上げた」


 それで、十分だ。トトルバさんは言った。

 コーギーさんの思い出をヴェルトが奪い取ったのを見たあの時から、用意周到に整えてきた。いいレストランに連れていかれたのも、ひまわり畑に案内されたのも、私たちの泊まっていた宿が団体客でいっぱいになったも、あてがわれた老舗の宿が一人部屋しか取れなかったのも……。全部。全部! トトルバさんの筋書き通りだったというの……。


「ひ、酷いっ!」

「あぁ。また余計な感情を入れてしまった。いいかい、リリィさん。原石の中の君は、僕をひたすら信頼する人物の方がいい。その方が読者には伝わりやすいからね。余計なことを考えないでほしい」

「やめて! 私の記憶は私のものだよ!」

「……しらけるね。まぁいい。どうせ、半刻後には僕のことなんて忘れて、またあのいけ好かない男の下に戻るんだろう」


 トトルバさんは腰のポシェットから、黒光りする例の道具を取り出した。

 転んで擦りむいた傷はもう痛みを感じない。にもかかわらず、私は一歩も動けなかった。


「痛みはないらしいよ。エリーシャも無事だったしね」

「エリーシャさん? ……もしかして、奥さんにもっ!?」

「おっと。こりゃ、口が滑ったかな。ははは。詐欺師ってのは、口が回り過ぎていけないや」


 ひまわり畑で語ってくれた思い出。もしかしてあれも、トトルバさんによって曲げられた思い出なの? そんな悲しいことってないよ……。思い出を作られて、そうとは知らずに楽しんで、最高の瞬間に、奪い取られる。忘れてしまうから、そう言われても悔しさは拭いきれない。


「ひまわり畑でさ、蜂になりたいって言ったろ? それで確信した。君の感性は変わっている。変わっているからこそ、読者を惹きつける。きっといい童話になる」

「やだ……。やだよ……」

「ほら。動くなって。顔が窓に入りきらないと、失敗するんだからさ」


 私は最後の抵抗とばかりに頭を振って、迫るレンズから逃れようとする。が、それも拙い抵抗。首筋を掴まれ、呼吸が苦しくなった。


「あそこで僕について来るって言ってくれればさ、物語はもう少し先まで続いたんだよ? この街を出て、いくつかの冒険をして、思い出を作って、そしてもう少し綺麗なラストを飾れた」


 残念だねぇ。

 ねっとりとこびりつくトトルバさんの言葉が、私の耳にまとわりつく。

 意識が、朦朧としてきた。目を開けていられない。代わりに次から次へと涙があふれる。

 私はこの悔しさを忘れてしまう。それが、とても悔しい……。


「僕の責務の糧になってね」



 カシャリ。



 魔法の音が渇いた夜に響き渡った。

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