第二話

 

 初夏が終わり、本格的な夏を迎える。

 既にうだるような暑さが街を襲っている。

 太陽からの熱とアスファルトからの照り返し、住居やビルから排出されるエアコンの排出熱などが行き交う人々に襲い掛かり、誰もが参っている。


 日々を忙しく過ごしている犬養の部屋は、先日掃除したにも関わらずまた前のような汚部屋に戻っていた。

 ゴミ袋が部屋の各所にうず高く積み上がり、食べた食器も放置しっぱなしでシンクが汚れた食器だらけになっている。

 勿論、そのような有様だから小蠅も次々と湧いている。

 今日がゴミの日だっただろうか、せめてゴミ袋は出しておかないと。

 

 あの女がゴミを漁りに来てからというもの、ゴミの出し方には神経質になってしまった。

 自分の宛名と住所が入っている郵送物はシュレッダーにかけてわからないように処理してから捨てている。

 あれ以来見かける事もないから、気にしすぎと言われればそれまでなのだが。

 時折、ゴミ袋の中身が散乱しているという事を管理人から聞いている。

 カラスや猫は入ってこれないはずなのに。

 薄気味悪い。


 犬養はゴミ袋を集積所に積み上げ、その後シャワーを浴びて会社に向かった。

 電車に乗る時間も早めたり遅らせたり、或いはわざわざ乗る路線を変えたりもしている。

 それでも背後に視線を感じるのは気のせいだろうか?

 どうにも気持ち悪さが拭えない。

 あの女のせいだ。いつまであいつの影におびえなければならないのか。

 おかげで仕事にも影響が出てしまっている。

 こないだはうっかり取引先とのアポイントをすっぽかしてしまった。

 珍しい事もあるものだねと苦笑交じりで許してもらったものの、当然上司や先輩には叱られてしまう。

 とはいえ、今まで仕事漬けだっただけに彼らも多少は同情的だった。


「少し疲れているんだろう」

「たまには長めの休みでも取ったらどうだ。温泉にでも行ってゆっくり疲れを抜いてうまい飯でも食って来いよ」


 ストーカー被害の事は会社には言っていない犬養だが、彼らも薄々犬養が何かのトラブルを抱えているのは気づいていた。

 実際その頃の犬養は焦燥気味だったし、抱き着かれてからというもの消臭剤を手離せなくなっていたのだ。

 

 犬養は思い立ち、社長室のドアを叩く。


「相談があるんです」

「何、支社に出向したいって?」


 結局この地を離れる事に決めた。

 あの女の影が付きまとう限り、人生が好転する見込みはない。

 社長からは相当止められたが、意思が固いと見て力なく首を振った。


「仕方ないな。それなりのポストは用意しておくから心置きなく行ってこい」


 これでようやく、忌々しい女から逃れられる。

 そう思うと胸がすっきりする。

 引っ越しの準備も順調に進み、あれだけ散らかっていた部屋も今となっては段ボール箱数箱と布団のみとなっていた。

 生臭い魚顔の女の事を思い出さずに済むとなると実にせいせいする。

 実際あの女に付きまとわれていたせいで、彼女と別れる寸前まで行った。

 幸い、彼女は仕事を辞めてまで着いてきてくれる。

 いずれは彼女と籍を入れたい。式はどうしようか。

 そのような事を考えているうちに、犬養は眠りに落ちた。


 深夜。

 耳元で何かが飛んでいる音が聞こえる。

 蚊にしては妙に大きな音だ。

 無視して眠りたい所だが、あまりにも頭周辺を飛び回るものだからついに犬養は目を覚まして明かりを点ける。

 

 犬養の目に入ったのは一匹の蠅だった。

 妙に太っていて、その為に羽音もより耳障りで不快極まる。

 蠅は部屋を一周して壁に止まった。

 眠りを妨げられていら立っている犬養はつい、買って置きっぱなしの小説本をぶん投げる。

 ばつん、という音がして本はずるずると床に落ちた。

 落ちた本を持ち上げてみると、その下で蠅が潰れて死んでいるのが確認できた。

 そういえばあの女にも蠅がいつもたかっていた事を思い出す。


「クソが」


 思い出して更に不快感が増大する。

 不快さを薄める為に、その夜はウイスキーの栓を開けた。


 翌日。

 腕が痒い。蚊にでも食われたかと思い、痒い箇所を確認する。


「なんだこれは?」


 左腕には赤い発疹のようなものが出来ていた。

 それがやたら大きいのだ。

 ニキビのようにも見える。潰してしまった方が治りが早いかもしれない。

 ぐっと右手でつねって芯を絞り出す。

 中々出てこない。

 痛いが、もっとつねらないと出てこないだろうか。

 更に力を籠めると、中にそこそこの固さがありながら弾力があるような手ごたえを得た。

 ニキビではない?

 不審に思いながらも、ぐっ、ぐっと力を込めていくといきなり中身がにゅるんと飛び出した。


 それは蛆だった。


 蛆は安らかな住処を失い、飛び出したテーブルの上を蠢いている。

 何時自分の体に蛆虫が寄生した?

 寄生虫がいつの間にか体に住み着いた事にもショックを受けたが、それよりも蛆の頭が妙に気になった。

 時折口を開けているのだが、それがやたら人間の歯に似ているのだ。

 

「うわあああっ!」


 犬養はすぐさま蛆を雑誌で潰し、捨てた。

 まだ体の痒みは収まらない。

 更に日が進むごとに穴が増えている。

 皮下を蠢く感覚は例えようがなく、時折蠢いている蛆の感触がある上に痒みの他にも痛みまで感じ始めた。

 穴を見つける度に捻りだしていた物の、蛆をかき集めては捨てるのを繰り返していたのだがどうにも蛆の発生はまだ続きそうだった。

 特に背中に発生した蛆は自分では取り出しようがなく、ついに諦めて犬養は病院に向かった。


「珍しいね、これはウマバエだよ」

「ウマバエ?」


 診療した医者は取り出した蛆を観察して言う。


「中南米やアフリカにはこの手の蠅が良く居るんだけど、君は海外に出張でもしたのかな?」

「いえ、私は海外旅行もした事はないんです」

「ふむ。それにしても君に寄生している蛆はちょっと多いね」


 ちょっと所ではないだろうと毒づくが、ぐっと胸の内でこらえる。


「麻酔して、一つ一つ取っていくしかないな。腕は自分で取ったの? 痛かっただろうによくやったね」

「あの、もうすぐ引っ越しするんですけども」

「蛆を背負ったまま引っ越し作業やるのかい? 流石に延期した方が良いと思うけどね」


 流石にそう言われると諦めざるを得ない。

 すぐさま手術(と言うには少し簡素だが)で麻酔を受けて、背中に発生した蛆を一つ一つ取り出してもらった。

 出て来た蛆はボウル一杯に溢れるくらいだったらしい。

 それだけ背中は穴だらけになり、消毒液がしみて痛かった。

 ひとまずはこれで安心と医者も言い、あとは抗生物質を飲んでいれば感染症は防げるはずだ。

 

 その夜。

 エアコンが不調なのか妙に暑く、寝苦しい。

 顔が痒い。顔を掻くと、滲出液が指に付着した。

まさか、と思い犬養は急いで起きぬけて洗面所の鏡で顔を確認する。

 ニキビのようなできものが出来ており、その穴から蛆が顔を覗かせていた。


「うおおおおおおおっ!!」


 叫んで顔の筋肉が動いたからか、多数の蛆が更に頭を出して蠢き始める。

 その蛆の歯は、どれもこれも人間のような歯並びをしていた。

 背中の蛆は普通の蛆だった筈なのに。

 捻りだしても顔の蛆は絶える事なく溢れ、いつの間にか顔中には無数の穴が開いているのがわかった。

 ぼとぼとと洗面所に落ちては溜まっていく蛆の山。

 その時、鏡に誰かが映っているのが見えた。

 背後に誰かが立っている。

 犬養よりも頭二つ分身長の高い、ワンピースを着た女。

 魚の腐ったような臭気が途端に鼻に付く。


「私の子供よ」

「お前、どうやって入り込んだ!?」

「貴方と一緒になるにはどうしたらいいかずっと考えてたの。私はいつも蠅と一緒に居たから、貴方にも同じ仲間になってもらえば一緒になってもらえると思ったの。どう、嬉しいでしょ」

「どうやってこのマンションに入り込んだんだよ!」


 悲鳴のような声を上げた犬養に、つまらなそうに言う女。


「それは簡単。マンションはオートロックだけどここに住んでる人の後を一緒につければいいし、あとは空き部屋に入ればいいだけだもの」


 空き部屋に鍵も無しでどうやって入るつもりなんだ……?

 犬養の混乱した頭に疑問符が浮かぶが、はっと思い出した。

 この女の腕力と頭が異常である事に。

 

「同族。これで同族。仲間。ずっと一緒」


 にちゃあと言う音と共に女は口を歪めた。

 瞬間、犬養は持っているライターを着火し、顔中を焼き始めた。

 人間の焦げる匂い。

 当然火傷するに決まっているが、そのおかげで蛆では次々と顔から飛び出していく。


「何してるの……? せっかく私と同じになれたっていうのに何しているの!」

「うるせえ!」


 ちょうど洗面所に置いていた、床屋が使うような剃刀を女の首に振るった。

 女は切り口から血を噴出し、ぎょろりと魚のような目で犬養を一度睨みつけた後、そのままばたりとうつぶせに倒れ込んだ。

 女の体からは無数の蠅と蛆が飛び出してくる。どうも腹にそれらを突っ込んでいた袋か何かがあったらしく、口が破けたか何かしたらしい。

 わんわんと洗面所中に飛び交う蠅の大群と、足元を蠢く蛆の山。

 この女の事だから、部屋に撒き散らすつもりだったのだろう。

 仲間だからと。

 その蠅と蛆は女の体をあっという間に覆ったかと思えば、その上で蠢いている。

 死体に反応して食っているのか。蠅と蛆はスカベンジャーとしての役割があるにしても、間近で死体に取りついているのを見るのはやはり気持ち悪い。

 

 ともかく怪物めいた奴とはいえ人を殺めてしまったのだ。

 犬養は警察と救急に連絡しようと携帯電話を取り出した。

 

 鏡の中の女の体が動いたような気がする。

 振り向いて死体を確認するが、蠅と蛆が蠢いていてよくわからない。

 番号を押して通話ボタンを押そうとした。

 ずるり、という音が聞こえた。

 どうにも気のせいとは思えなくてまた振り向くと、女の死体が立っている。

 体全体を蛆と蠅に操られているかのように、足取りははるかに遅いながらも、ひきずりながらずるり、ずるりと近づいてくる。


「ショウ、君。しょおおおおおおくんんんんんんんんんn」

「ひぃっ」


 犬養は洗面所から腰を抜かして這いずりながら逃げ出した。

 首を斬っただけでは殺せなかった?

 どうすればいいんだ?

 リビングにある物を見回した。雑誌、トレーニング用のダンベル、ボールペン……。

 どれも化け物を倒せそうなものは見当たらない。


 その時、テーブルの上に転がっているものを見つけて手に取った。

 これなら完全に殺せるんじゃないか。

 ずるりずるりという音を立てながら、わんわんという羽音を鳴らしながら近づいてくる怪物に、犬養は手に取った物の蓋を開けて液体を掛けた。

 次いで、ライターを取り出して火を点けて投げつける。

 着火した死体は勢いよく燃え出し、流石の死体も悶え踊って倒れ込んだ。


「ああがあああああああああああっ」

「ライターオイルに火をぶっかければ、そりゃよく燃えるよな」


 虫は当然ながら火に弱い。

 取りついていた蛆と蠅は死体から離れたが、当然虫たちにも火は点いており、それらが部屋中に飛び散った為に至る箇所に飛び火し始めた。

 マンション中には火が広がっていき、真夜中の火災は街を騒然とさせる結果となった。

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