マゴット
綿貫むじな
第一話
その女はいつも電車で見かけた。
長身で、周囲の人間よりも頭二つ分は大きい。
猫背でなにより、魚顔だった。
初夏にして既に昼の気温は三十度超えが当たり前で、誰もが薄着である。
女は白いワンピースを着ていた。
本人は似合っていると思っているのだろうが、長身に加えて手が長すぎて猿のようでもあり、丈とまるであっていない。
女は一介のサラリーマンである、犬養翔の視界に入るように立っていた。
その女を見かける度に彼はいつも顔をしかめる。
顔と体の作りが問題ではない。匂いだ。
魚の内臓や骨と言った生ごみをポリバケツに入れ、夏の日差しの中に一日中放置したらどうなるかを想像したことはあるだろうか。
どこからともなく魚の生臭い匂いにつられて蠅がやってきて、卵を産み付ける。
それが一晩で孵り、ポリバケツの中はうぞうぞと蛆虫が蠢く地獄絵図となる。
バケツの周囲には更に新たな蠅たちが飛び回り、ポリバケツを掃除するにもまずは水で追い払わない事にはどうしようもなくなる。
女が発する匂いはそのような生ごみ臭であった為、周囲の人間は顔をしかめるでは済まなかった。ハンカチで鼻と口を押さえたり、堪えきれなかった人は本当に吐いてしまっている。満員電車だというのに女の周囲には空きスペースが出来ている。
女の前髪はぺったりと額に張り付き、明らかに洗髪していない。
顔にも薄気味悪い笑みを張り付けていた。
周囲の人間よりも頭二つ大きい背丈で周囲を見回し、今日も犬養の事を見つけてより笑みを浮かべて彼をずっと見ている。
彼がそれに気づかないはずもなく、見られていても視線を外している。下手に視線を合わせていると相思相愛だと勘違いされそうだから。
本当に気持ち悪い女だ。
匂い以外の目立った実害は無いにせよ、平日は必ず犬養の乗る路線で遭遇する。
明らかにいつ電車に乗ってくるかを調べ上げている。
いや、たまたまそうかもしれないと無理やり犬養は思い込んだ。
朝の貴重な時間に気色悪い女について考えている暇はない。
駅に着き、犬養は人の流れに沿って電車を降りる。
女は一緒には降りてこず、そのまま犬養の後ろ姿を見送っていた。
降りた客は口々に「すげえ臭い女だった」とか「吐きそうになった」などと言っている。どうやらあの女は右足を壊死したホームレスなどと同じように、一種の名物と化しているらしい。
「朝から最悪な気分にいつもさせられる。どうにか逮捕されないものかね」
犬養は独り言ち、会社に向かった。
仕事は楽しく、やりがいのあるものだ。
犬養は大学を卒業後、様々な会社に応募して最終的には大手企業の内定を蹴ってとあるベンチャー企業へ就職を決めた。
規模はそれほど大きくはないものの、最近は地方に支社をいくつか持つくらいには急成長を遂げている。
社員の誰もがやる気に満ちており、そう言う場所で働くのが大好きだと気づいた犬養はより仕事にのめり込んでいた。
今日も気づけば終電が近づく時間帯になっており、泊まり込もうとしていた矢先に社長直々に呼び止められる。
「お前もしかしてまた会社に泊まる気じゃないだろうな?」
「ええ、そうですが」
「いい加減にしろ。何週間も泊まり込んで、周囲から大丈夫かと言われてるんだぞ」
「成果は上げているでしょう?」
「加減しろって言ってるんだよ! これじゃウチがブラック企業とか言われるだろうが! そうでなくても最近は残業時間の規制やらなにやらでうるさいんだ。帰れ」
「はあ、そうですか」
渋々と言った風に犬養は帰り支度をして会社を後にする。
社長はその背中を見てため息を吐いた。
社長自身もハードワークは進んでやる(創業者なのだからそれは勿論なのだが)タイプだが、それ以上に働く社員の姿は頼もしいが、それはそれとして突如壊れられたりしても困るのだ。やる気に満ちているのは良いが、息抜きも大事だ。
犬養にはまだそれはわからなかった。
終電の列車は大抵酔っ払った人や疲れ果てた人で一杯だ。
座席で寝ていたり、つり革を握って立ったままの状態で寝ているのは良い方で、何かストレスを抱えて喚いていたりゲロを吐いていたりする人が居たりする。
犬養のように仕事が終わった後でも気力に満ちている人は少ない。
今日も出来れば会社に泊まり込みたかったが、社長に帰れと言われてしまっては帰らざるを得ない。
働きすぎは体に毒だと言われても、それで死ぬなら本望だ。
過労死しては会社に迷惑が掛かると言われてからは流石に自重しようと思ったが、それでも気づけば働きすぎている。
体を壊せば仕事は出来ないんだぞ、と社長に言われた事を思い出し、ため息を吐いた。
だが部屋に帰った所で飯を食べて、風呂に入って寝るだけだ。
会社に仮眠室があるんなら、そこで寝かせてくれてもいいだろうに。
その時、魚の腐ったような匂いが漂ってきた。
疲れた体にはしんどい匂いで、乗客の数人が既に吐き出して酸っぱい匂いが更に追加され、犬養の乗っている車両は地獄の様相を呈する。
匂いの漂ってくる方向を見ると、あの女が立っている。
朝と違い犬養を見てはおらず、窓の外を焦点の合わない目で見ていた。
気づいていないなら幸いだ。
犬養も女の視線から逸れるようにそっと距離を取り、別車両に移る。
あの女、死んでくれないかな。
それか自分が引っ越すか。
会社の近くに自分が引っ越すのも悪くはない。通勤の煩わしさを感じずに済む。しかし会社付近となると家賃が高い物件ばかりのがネックだ。
電車に乗って十分程度の場所に住んでいるとはいえ、満員電車に揉まれると体力、気力共に消耗するのが悩み所だが、どうすべきか犬養はまだ答えは出せなかった。
女は犬養が降りる駅までこちらに気づかなかった。
胸をホッとなでおろし、駅に降りると女も同じ駅で降りている事に気づいた。
気づかれないように女の背後を追い、改札を出るまで見届けた後に彼も駅を出る。
「まさか同じ駅を使っているとはな……」
同じ地区に住んでいるのなら、どこか店で遭遇してもおかしくはない。
しかし女が居る場所は常にあの生臭さが漂っている。店で遭遇しないのは出禁にでもなっているからかもしれない。どうやって暮らしているんだという疑問は出るが、そんな物なんとでもなりそうな気もする。
こうやって思考リソースをあれに割くのも勿体ない。
とっとと帰るべきだと思考から振り払い、犬養は家に帰るべく歩を進めた。
彼は自宅マンションの一室へと戻り、シャワーを浴びてベッドに潜った。
あの生臭い匂いが鼻に付いて仕方がない。
部屋にまでこびりついている気がする。
眠れず、仕方なく一旦起きぬけて消臭スプレーを使い、自分の鼻には生理食塩水を使って鼻うがいをした。
元々は花粉症で鼻を洗う為に買っていたものだが、まさか匂いで困って使う日がくるとは夢にも思っていなかった。
ベッドに戻り、また目を瞑る。
結局寝付けず、彼はそのまま朝までまんじりと寝返りを打ちながら夜を明かしてしまった。目を瞑ってしばらくすると、あの生臭い女の笑みがフラッシュバックしてどうにも気持ち悪い。
このまま眠れないようなら睡眠薬の処方もしてもらわねば。
そのまま女の姿を見る事のない日々が続いた。
犬養はいつの間にか生臭い女の事など忘れ、仕事に更に邁進していた。
そんなある日、忙しくて掃除など全くしていなかったために部屋には埃が溜まり、コンビニ弁当やインスタント食品でうず高く積みあがったゴミの山もあって男の一人暮らしにしても汚くなりすぎていた。
流石にこれはヤバい。
珍しく休みを取って部屋を一日かけて掃除した結果、なんとか人を呼べる程度には回復出来た。が、その為にゴミ袋が何袋も出来上がってしまった。
これを朝に全部出すのは流石にしんどいものがある。
「仕方ない、夜のうちに出すか」
とはいえ、それなりの家賃を出すマンションだ。
一階にゴミ集積所があり、そこにゴミを出せばいいだけなのでカラスに荒らされて文句を言われる心配もない。
犬養は往復しながらゴミ袋を出して、部屋がきれいになったのに満足して眠った。
翌日の朝。
いつものようにスーツを着て出勤しようとマンション一階に降りた所、腐臭を嗅ぎ取る。
嫌な予感しかしない。
それはゴミ集積所から漂ってくる。
ゴミのなんとも言えない匂いとは違う、明らかな生臭い匂い。
見ないで出勤すれば良いものを、なぜか匂いに引き寄せられるようについ確認しに行ってしまった。
ゴミ集積所はマンションに住んでいる人間なら内部から入れるが、外からは掛けてある鍵を外さねば入ってこれない。その鍵もゴミ収集の人間が訪れてから管理人が外す手はずになっている。
見れば、外からの鍵は強引にねじ切って外されている。
鍵は確かにそれほど頑丈な物ではないにせよ、それでも金属で出来ているのだから人間ではとてもねじ切れはしない。
開きっぱなしの扉の先では、女が犬養の出したゴミを漁っていた。
何故それが犬養にわかったのか。
女は犬養への宛名が書かれていた封筒を握っていたのだ。
丁度その時、ゴミ袋から封筒を抜き取って気持ち悪い笑みを浮かべていた。
衝動的に彼は叫ぶ。
「お前、何をやっている」
女はすぐに犬養の方へ首を向けた。笑みを張り付けたまま。
首を傾げて犬養へと近づき、見下ろして更に口の端を歪める。
近づくほどに匂いが酷くなり、吐きそうになる。
「やっとやっとやっと近づけた貴方に貴方に貴方に」
女は犬養に抱き着いた。それは相撲取りが使う技の鯖折りのようにも見える。
鼻を突き抜けて脳に刺さる刺激臭が彼を襲う。
「うげっ!」
目に染みるような匂いにたまらず吐き出した。
白いワンピースが汚れるのも構わずに、更に女は抱き着く力を強めてくる。
鍵をねじ切っただけに腕力はすさまじく、背骨が軋む音が聞こえてくる。
女の周囲には大きい蠅が二匹飛び交っていた。
ゴミ集積所はそれなりに清掃されているものの、やはりゴミを出す場所となればそういう生き物の住処になりやすい。特に最近は暑くなって虫が湧いてくるともなれば。
「こ、の、いい加減離れろ!」
犬養は渾身の力を振り絞り、女の腕を振り払って突き飛ばした。
女はゴミ袋の山に突っ込み、開いていたゴミ袋の中身をもろに被る。
ゴミまみれになった女は、笑みを崩さずに犬養にじとりと湿った視線を送っていた。
「恥ずかしがらなくても良いのに」
「何なんだよお前は」
とにかく気持ち悪い女だった。
二度と関わり合いになりたくない。
警察に連絡を取ろうとした時、管理人がちょうど騒ぎを聞きつけて既に警察を呼んでいた。犬養はスマートフォンで女の写真を撮っておいた。
警察はすぐに来て、女の事情聴取を始めた。
犬養は警察の事情聴取には自室で応じると言い、まずは部屋に戻る。
警官も女の匂いにむせて吐きかけている。
シャワーを浴びて匂いを取った後、改めて警官に話をする。
「ああ、あの女ですか」
「警察の方でもご存知なんですか?」
「この辺では有名ですよ。悪臭をまき散らすだとか、気持ち悪いだとかであの女が住んでいる周辺では苦情が出ていてね。それまでは何か犯罪的な行為をやっているわけではないんで、こっちとしても注意のしようが無かったんですが」
「でも今回はストーカーですよ」
「なので女には警告して近づかないように指導します」
「それだけ?」
「……見た所結構悪質なようなので、定期的に貴方の家周辺をパトロールするようにはしますが」
それを聞いてひとまずは胸をなでおろした犬養だったが、警察はどうにもストーカー行為に甘い気がしてならない。
もっとああいう人種は取り締まった方が良い。
ほっといているうちに、ストーカー被害者が最終的には追い込まれて殺される事件も発生している。いつ自分もそうなるかわかったものではない。
後日、警官がまたやってきた。
なんでも女に今度ストーカー行為を確認した場合、逮捕すると言ったらしい。
女を化け物と半分疑っていただけに、人間であることが意外だった。
それ以降、女の姿を見る事はやはり無かった。
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