寄す処の景色
ヒナハタ フロウ
過去、現在、未来
待ち合わせには少し早い午前八時。
南魚沼の道の駅に車を停めた男は、遠く山容を下る
国道十七号線で車を走らせる男も、思わず車を停め同じ滝雲を見つめている。
その
彼方にそびえる滝雲は、高さを同じくする空を源流とするように、山を伝い永遠に流れ落ちるようだ。
手前に連なる山々を覆い、いつしか
畏れ、信仰にも似た想いで滝雲を見つめる二つの視線、その線が交わる場所に突如として神が舞い降りた。
半ば墜ちる寸前、羽を休める場所をようやく得た鳥のように。
畏れ、信仰を得ることで存在を保てる神々。
人の非を正してきた災厄は、やがて人の作った根拠により否定される。
我先にと欲へ向かう人々は、故郷を
時代と共に
二人の男が抱いた信仰のような想いを拠り所に、この神は存在を保つことが出来た。
社を失った神の中には人を恨み、畏れだけを求めて存在を保とうとした者も少なくない。
しかし、人から畏れだけを求める神は、やがて厄となり神で居られなくなる。
滝雲に舞い降りた神は、遠い昔に社を失っている。
人の願いを聞くことも、叶えることさえ忘れた神。
畏れの冷たさよりも、信仰の暖かさのほうが性に合っているようだ。
自然の織り成す絶景であったり、人の気持ちが動く場所を求めることで細々と信仰を集め存在している。
巣を持たぬ渡り鳥のように、長い旅を続けていた。
雲間から漏れ出す陽光に滝雲が照らされる。
この光景に視線を送る二人の男同様、多くの人々が滝雲を見つめる。
信仰のような視線を一身に浴びる神は、人には見えぬその存在を濃くしつつあった。
この場所にあと数時間も居座れば、十数日は神の存在も安泰だ。
二人の男は道の駅で合流し、どこかへ向かおうとしている。
普段は見過ごすような光景も、不思議とこの時ばかりは違った。
久しく下界に降りていない神は、この二人の男に
人には見えないその姿、相応(社を失う以前より、神としての年齢は千年を数える)に老人の姿へと身を変える。
すると、滝雲をまるでウォータースライダーのようにして滑り落ちていく。
感情の高まりなど、物事を
しかし、その容貌は滝雲を下り、二人の男に近づくにつれ老人から少年へと変貌していた。
国道十七号線を左折する。
二人の男と少年を乗せた車は、急勾配、カーブの多い山道を進む。
ハンドルを握る手は初めて通る道にとまどいつつ、助手席の慣れた道案内で車は快足を飛ばす。
長いトンネルを抜けると、平坦な道が続く。
大きな石碑、並ぶ地蔵を横切る時、前席の二人は一瞬頭を低くするような素振りを見せた。
申し合わせた様子もなく。
この車内は居心地が良くどこか懐かしい、少年は思った。
車窓の景色が流れる。
古い家屋の横に小川が流れ、水面は岩との浸食で泡立つかと思えば、時折鋭い光を反射させる。
段々に並ぶ水田には青さの残る稲穂が風に揺れている。
金色に染まる日を穏やかに待つように。
少年の眼前には、流れる景色全てに想いを向ける二人の男が居る。
社を失い、人の願いを長らく聞いていない少年は、人の言葉を忘れてしまった。
二人の男が発する複雑な音の中から、繰り返される音を聞き取った。
――ヨウサン、エイチャン――
聞く音よりも込められた想いを感じる少年は、その音が二人にとって大切な音であることを理解した。
車は十日町に入り、一軒の食堂前に停車する。
ここに辿り着くまでの道中、人の発する音を聞いているうちに、少年は次第にその音が人の言葉、会話になっていることが理解出来るようになっていた。
あるいは過去に聞いた言葉と共に。
先ほどの大切な音は二人の存在を指す名前。
今はヨウサンが切り盛りする食堂にエイチャンが招かれた、そんな状況だ。
三人テーブルに座る。
丁寧に配膳するのはヨウサンの妻で、準備を済ませると少年の前に座る。
綺麗に盛り付けられた料理を眺める少年は、いつかの記憶を重ねては暖かい気持ちを思い出す。
――どうぞ、お召し上がりください。
「頂きます」
お供え物を頂くことは出来なかったが、この朝食の光景がそのまま自身に当てはまるものであれば嬉しいと感じる。
同時に人と相容れぬ存在――神と人――が切なくも。
嬉しい、切ない。
滝雲を降りる前の神は、感情を忘れていたようだ。
人と触れ合うことで、自身を思い出し、蘇る記憶。
……。
少年はぼんやりとした表情を浮かべる。
腰掛けるテーブルは四人なのに、人の世で三人なのが寂しいのだ。
その後もエイチャンへのもてなしは続く。
ヨウサンの案内で
九月五日にして、ようやく訪れた夏休みを演出してくれるようだとエイチャンは嬉しそうだ。
エメラルドグリーンの清流が心地よい風を運ぶ。
綺麗に舗装された川沿いを歩くと、山をくり抜いた洞窟が見える。
少年は、自然に手を加える人の行いを快く思っていない。
人はいつしか身の丈以上の力を扱うようになり、自然の痛みに鈍感になったからだ。
草花が大地に力強く根を張っていること、木が簡単には倒れないこと、岩が途方もない年月そこに居るということ。
機械の手では、人はそれを感じることが出来ない。
その手を通し、心まで冷たくなってしまうような気さえする。
「あまり作られたものは好きではない」
食堂に残るヨウサンの妻が言っていた。
洞窟内、暗がりに紫色の照明が灯っている。
少年は、前を歩く二人にそっくりその言葉を投げかけた。
七百メートル以上進むと、半円でくり抜かれた洞窟の形が渓谷を縁取る見晴らし台に到着。
水鏡の床に清津峡が反射し、それは円で縁取られた景色となる。
”大地の芸術祭”という人の試み。
――作られたものは好きではない。
言葉を発した後に見た景色を、少年は素直に美しいと思った。
同時に自然と作られたもの――人工の調和が難しいことにも納得する。
水鏡は人が行き交う度に波立ち、映る景色を歪ませた。
ヨウサンは、人々がカメラのシャッターを切る場所を離れ、見晴らし台の前方から渓谷を眺めている。
エイチャンは、人混みを避けるように見晴らし台後方から人工の景色――アートを見つめている。
渓谷を前に、人は黒いシルエットとして存在するのみだった。
車は清津峡を離れ、緑豊かなリゾート地へ。
少年にとっては自然の真似事と思えた景色が続いていたが、広大な敷地は人の管理、整備が行き届いている。
先ほどのそれとは別の景色。
自然と人工の調和ともまた違う、共生の姿。
少年は思う。
長らく下界に降りていない間、人の世は少し変わったのかもしれない。
あるいは破壊を繰り返すことで、元に戻らないものがあることを学んだのだろうか。
観光地を回ることに疲れたのか、多少なりとも憑かれたことで疲れたのか。
何か上手いことを言ったような少年はくすりと笑う。
それを知る由もなく、ヨウサンとエイチャンは温泉に浸かっている。
ヨウサンがあまりに夢心地な表情を浮かべるので、数秒身体を借りるくらいならと温泉に浸かる少年。
気付けば十分ほどが経っていた。
エイチャンは既に温泉を出て、大きな椅子に埋もれるようにしながら身体を揺らしている。
その表情に好奇心を抱いたのだが、少年が身体を借りたのは数秒だった。
極楽と針山とは言い過ぎだが、それほどの差を感じたのだ。
神が人の身体を借りると、その感覚的なものに加え、その人自身の記憶、気持ちを知ることが出来る。
個々から得る断片的な記憶も、ヨウサン、エイチャンの記憶を重ねることでより鮮明になる。
――普段は見過ごすような光景も、不思議とあの時ばかりは違った――
ヨウサンとエイチャン。
二人が出会いを振り返る時、揃って同じことを口にした。
それは今日二人と出会った少年――神が、気まぐれのように憑いて来てしまった理由とも同じだった。
――どうしてだろう?
少年は答えの分からない疑問に戸惑う。
達観した神であれば疑問という感情など有り得ないのだが……。
――いけないっ!
答えだけ持ち合わせているのが神、疑問を持った時点で神で無くなってしまうことに気付いた少年。
その身は
人々の言い争う声が聞こえる。
その声は一つ、また一つと消えていく。
――この地を離れることを、お許しください。
空虚な社はやがて水の底へと没する。
神木は呼吸することも出来ず、それでも朽ちた身はその場所に留まる。
生前に張った根が生きている。
生物の住処として、最期の役割を全うするようにその場所を離れない。
射す光に導かれるように、社を形作るものが召されるように浮遊する。
見上げる空が、ゆらゆらと揺れながら遠ざかっていく。
自身が沈んでいくのか、光がもう届かなくなるのか。
光が円状となり、その光が点になるまで見送る神は暗闇へと消えていく。
――暗闇――
男が暗闇の中を歩いている。
やがて現れた案内表示板に正しいルートを確認しつつ、前後左右見渡しても変わらぬ景色。
樹林帯の中を進む足取りは重い。
空を覆う木々は閉鎖的で、登山道はまるで洞窟の中のようだ。
暗闇から
ザックに掛かる熊鈴は低調なペースに鳴りを潜め、効果が得られるかは疑問だ。
手巻きラジオのハンドルを回しながら、ラジオ放送の周波数を探る。
明快でリズムの良いトークに安心したと思えば、突然入るノイズに恐怖する。
こんな思いをしながらどうして山を登るのか。
”そこに山があるからだ”が指す頂に挑戦する意味合いも無ければ、人生を重ねるような哲学的な意味合いもない。
窮屈な日常を飛び出したいだけなのだ。
木々の合間に点が見える。
進むうちに、点は円状の光に。
まるで洞窟の出口、辿り着いた岩場の直上は穴が空いたようにポッカリと空だけを映している。
男は空を目指すように岩場を登る。
――光――
どうやらこの男、社を持たぬ神を呼び寄せたようだ。
暗闇の樹林帯で抱いた畏れは、深く沈んだ神の暗闇と通じる。
男が岩場で登る先の光、それは神にとって水底から見上げる空がゆらゆらと近づいてくるように。
光の先、這い出た場所。
そこは森林限界との境目のように眼下には樹林帯を望み、一気に視界が開ける場所だった。
見上げる山肌が陽光で赤茶に染まっている。
山肌とのコントラストも見事な青い空の彼方、白く月が浮かんでいる。
立ち尽くす男は信仰にも似た想いを抱き、それを拠り所に存在を取り戻した神は、大岩にごろんと寝転がるのであった。
男の足取りは重力を失ったように軽やかになる。
神が力を与えたわけではない。
赤茶の大地に降り立つ宇宙飛行士のような気持ち、窮屈な日常を飛び出し冒険が始まる感覚。
現れる鎖場に心躍らせ、パステルカラーの高山植物に慣れないカメラを向けている。
ラクダの背では、目指す谷川岳山頂の二峰――二つ耳(猫耳のように見えるトマの耳、オキの耳)が遠く感じたのだが、鞍部を進むに連れ迫る雄大さ。
男は思う。
山容が動物の形で呼ばれるのは、自然が宿す形を言い表せない人間の限界であると。
石、岩が堆積した斜面、ガレ場に差し掛かると、前方に登山者の姿。
丁寧に岩場をかき分け、ペースは一定のリズムを刻んでいる。
ガレ場を登り慣れていない男であるが、熟練した登山者の背中が急登の道筋を教えてくれる。
力任せに登る男は、息を上げながら登山者に近づき、ついにその背中を捉えた。
「こんにちは」
ほぼ同時に言葉が出る。
初対面での挨拶、恵まれた天候への感謝に始まり当たり障りない会話。
山行で繰り返される光景は、別れの言葉と共に終わり、二人はすぐに各々の山行に戻るのだろう。
直後、大岩に寝転がる神は身を起こす。
二人は共に山を登り出したのだ。
夜明け前から同じルートを登ってきた者同士、気持ちも同じくしているのだろう。
互いを確認した時点で二人三脚の山行になり、言葉を交わせば出会う前から一緒に登ってきた岳友だと思うのだ。
もちろんそこには幾重にも偶然が重なる。
その日、その場所で、といった時空間的なことはもちろん、天気が悪ければ暗闇の洞窟の先に見えた光も見えず、男は引き返したかもしれない。
そうなれば神もこの場に存在することは出来なかったし、例え男が山行を継続したところで、日常を飛び出す気持ちになれたかは疑問だ。
登山者との出会いは挨拶を交わすだけのすれ違いに終わったであろう。
父子ほどの年の差のある男二人、神に憑いて来られていることなど知る由も無く山頂に到達する。
眼下の谷間から吹き上がる風は、緑の
同時に霧を運ぶ風は景色を曇らせている。
たとえ景色が曇ろうとも、気持ちを晴れさせてくれるのが谷川岳に違いない。
二人の男は両手でハイタッチをしている。
今日の景色、出会いに感謝する。
社を失った神は、一時の拠り所とはいえあまりの居心地の良さに二人の隣で長居する。
人の信仰のような想いを拠り所――
――普段は見過ごすような光景も、不思議とあの時ばかりは違った――
――それは縁――
白く煙る身は再び神――少年の姿を取り戻す。
先ほどまでは温泉にいたはずなのだが、今は茅葺き屋根の観音堂と山門の間、ヨウサン、エイチャン、少年の三人は神宮寺の境内にいた。
人が死ぬ間際に見るという走馬燈のように、存在が消えそうな神にも同じようなことが起こるのだろうか。
社を失った神がお寺に舞い降りるとはずいぶん神も安くなったようだが、この場所は自然と調和が取れている。
茂る杉の木立ち、敷石を覆う苔の美しさは宗派などの垣根を簡単に飛び越える。
二人の信仰心のような想いだけでなく、疑問の答えを見つけたからこそ神――少年は再びその姿を現せたことに他ならないし、ふと憑いて来た疑問の中に内包された”懐かしさ”の答えも見つけていた。
眼前のヨウサン、エイチャンこそが、谷川岳で出会った二人だったのだ。
山門の大わらじの前で旅の記念にと肩を組む二人の姿。
いつまでも健脚であろうとする、山を目指す岳友にピッタリの場所。
十秒のタイマーがセットされたカメラのファインダーを覗く少年は、二人が最高の笑顔になった八秒目でカメラのシャッターを切っていた。
車窓の景色が流れる。
空が薄紫色に染まり、市街地はキラキラとまばらな光を放ち、囲む山々は黒いシルエットを映し出している。
清津峡で観た自然と人工の織り成すものが、より規模を大きくするように。
大地の芸術祭という人々の取り組みは、案外意図していない所にも現れるのかもしれない。
「お元気で」
再会を誓う言葉と共に、肩を叩き合い別れを惜しむ二人。
――体調を崩し、しばらく一緒に登山が出来ないヨウサンを励ましたい。
――七月十八日の理不尽な悲劇、心を痛めたエイチャンを元気付けたい。
幾度かの山行、便りを経て、互いを想う心が二人の再会を生んだ。
社を持たず、人の信仰を求めて行く宛も無く漂う神――少年は、人知れず三人で谷川岳以来の再会が出来た縁というものがどれほどに尊いものであるか、神と人がこうして繋がっていられる久しい気持ちを思い出す。
――また会う日まで――
言葉を交わさずとも、二人からは同じ想いが聞こえてくる。
この心友同士の想い――願いを受け、それを叶えるのは神の成すこと。
そうすれば心友にはなれずとも、神友にはなれる気がする。
長らく人の願いを聞くことも、叶えることも無かった少年の冗談みたいな決意。
少年の顔に笑みはない。
心友二人の再会という当たり前のような未来は、このままでは訪れない。
神が叶えない限り。
ヨウサンと別れたエイチャンは、来た道を戻るように車を走らせている。
国道十七号線、おそらく今朝ヨウサンが滝雲を見ていたであろう場所からは、黒い山容を捉えるだけだった。
湯沢インターチェンジから関越道に乗り東京方面へ。
車線規制のコーンが置かれ片側一車線での高速走行、時折大型トラックと併走する関越トンネルはストレスが溜まる。
出口を迎えほっとしたのも束の間、車内をも照らすような明るさとは対照的に辺りは暗闇となり、ヘッドライトの映す景色が単調に流れる。
中央分離帯を挟み、下り車線の車列がぼんやり近づいてくると思えば、突然ルームミラーが光を反射する。
ハイビームを照射しながら、追い越し車線を一瞬で走り去るSUV。
エイチャンは冷や汗をかくと同時、ハンドルを強く握りしめる。
平日の帰宅ラッシュを過ぎた時間帯。
上下線共に車通りが少なく、辺りはより暗闇に包まれる。
ヘッドライトの映す景色は相変わらず単調で、深い闇は徐々に視界を狭めていく。
保つスピードは路面の継ぎ目を通過する度、微弱な振動を一定のリズムで刻んでいる。
……ゴトン……ゴトン……ゴトン……。
一定のリズムは近づく足音のように。
暗闇は通じやすい。
こういう時に闇から現れ、人を引き込もうとするのが睡魔だ。
少年が助手席から眺めるエイチャンの姿は、先ほどから徐々に霞み始めている。
睡魔がエイチャンの存在を消そうとしているのだ。
ヨウサンとの再会を阻む瞬間が近づいている。
赤城インターチェンジを前に緩やかな下りが続いているが、エイチャンはアクセルを踏んだままだ。
速度が上がる。
ハンドルを持つ手には力が無く、ただ添えるように置かれている。
行く手にはカーブが控える。
エイチャンの頭がガクッと落ちる。
この瞬間を回避するために憑いて来た少年。
少年はエイチャンの身を借り、迫る危機を回避しようとするが取り憑く睡魔が身を譲らない。
少年――神をも退ける睡魔、それはエイチャン自身が持つ負の要素、ストレス、疲れだけでない。
高速道路上、上下線で起きた不幸の記憶、渋滞の起こりやすい区間特有の歪み、暗闇の畏れ。
睡魔という、一見エイチャンの中から出ただけの存在は、周りの負の要素、畏れを拠り所とし、存在を失った闇に漂う神と共に厄となり、エイチャンに災いを引き起こそうとしている。
この厄さえ取り除ければ、エイチャンの身体を借りることも、エイチャンが自身の力で目覚め、迫る危機を回避することも可能であろう。
だが、少年が選べる選択肢は後者だけだった。
睡魔と結びついた厄、仮にも昔は神であった存在、取り除くには相応の力が必要だ。
厄は畏れを拠り所にしている。その畏れに対抗出来得る力は信仰なのだ。
持ち得る信仰の力を全て使うことで、この厄をエイチャンの身から取り除くことが出来る。
それは同時に、信仰の力を失う少年を意味する。
少年は、目を閉じ迷い無く詠唱し始める。
その身が再び白く煙る。
温泉では自身が消えゆく前触れと思っていたが、今ならそれだけでないことだと分かる。
――この煙る姿、懐かしい。
祭事、人々が威勢良く温泉の湯を掛け合い湯気が立つ光景。
人々が見上げる社の屋根は、オカッパ頭のように大きく立派な茅葺き屋根。
――浸かる温泉、ヨウサン、エイチャンが見上げた神宮寺の茅葺き屋根。失った社に通じる温もりが、あの時の拠り所の一つでもあったか。
目を見開く。
煙るように、光を放つように。
少年はその身を分かち、一方を弓矢に、その弓矢を持つ姿は少年から老人へと変貌している。
人の子ほどの大きさを保っていた神は拳ほどの大きさとなり、ダッシュボード中央で弓を構える老人の姿は歴戦の兵。
ありったけの信仰――力を矢に込めたこの老兵は、エイチャンの額に照準を合わせる。
――この地を離れることをお許しください。
突如、社を失った悲しみが老兵を襲う。
訪れる人の居なくなった社、荒れた境内に崩れた灯籠、朽ちた神木……全てダムの水底へ。
厄は消されまいと、老兵までも取り込もうとするように畏れの力を強くする。
光を放つ矢尻が震えている。
放とうとする矢の先端が光と闇を映している。
震えは畏れと信仰の狭間、社を失った神は紙一重で厄に成り得る。
闇の矢が放たれれば、厄と共にエイチャンをこの世から消してしまう。
だが、放てぬままでは同じこと。
矢尻が危険信号のような点滅を繰り返す。
カーブは目前にまで迫っている。
――また会う日まで――
老兵の耳に、口に出さずとも伝わる心友の言葉が聞こえた。
各々の日常を精一杯に生き、再会のその日にまた素晴らしい景色を見に行こうと。
――きっとまた会える。この身が消え、再び暗闇に包まれようとも。
老兵は確信した。
ヨウサン、エイチャンが再会を果たし見つめる素晴らしい景色の先、その想いを拠り所――寄す処――縁にして再び三人で会うことが出来ると。
その時は神友ではなく、想いを共有する心友として。
厄を前に、老兵は共に暗闇を漂う覚悟を決めた。
――何、時間はタップリとある。悲しみから畏れに向かう気持ちも分かるが、信仰の暖かさを教えてやろう。社を持たぬ者同士、まずは神友を目指して仲良くしようではないか。
老兵は思い切り弓を引く。
社に神として祭られてから失うまでの人々との記憶、数瞬の間に千年の記憶が蘇る。
――儂は幸せな神であった。
社は無く、信仰を失った神は消えゆく。
それでも縁があれば再び……。
放つ!
閃光に包まれる車内、光の矢がエイチャンの額を突き抜ける。
瞳を閉じた暗闇にも容易に届く光はエイチャンを呼び覚まし、額を突き抜けた光の矢が直接脳に危険を知らせる。
迫る眼前の危機を目で確認する前に、エイチャンの身体は動いていた。
ブレーキを踏み、ハンドルを素早く左に回し、湾曲した中央分離帯に身を引かれながらもカーブを曲がり切る。
”死の瞬間を回避する”など、神の業以外に不可能であることを知る人間はどれほどいるだろう。
人知れず作用する神の力は”九死に一生を得る”と人の言葉で片付けられてしまう。
それでも、ルームミラーに揺れる安全祈願のお守りにそっと触れ、感謝する人間も居るのだ。
見送るヘッドライトが遠ざかっていく。
光が円状となり、その光が点になるまで見送る老兵。
射抜かれた厄は既に暗闇へと消え、残された老兵――神もこれから同じ場所へ向かう。
力を失い、その身、姿をついに保てなくなる神。
白く煙る身が暗闇と同化する寸前、微笑む少年の顔が浮かぶ。
立ち上る湯気のようにゆらゆらと。
やがて、最後の時を迎える。
少年はありったけの力を込め、ヨウサン、エイチャンに向けて別れの言葉を告げるのだった。
「また会う日まで」
寄す処の景色 ヒナハタ フロウ @flow_hinahata
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