やはり僕には火星での暮らしが合っているらしい

津月あおい

やはり僕には火星での暮らしが合っているらしい

 僕は、たくさんたくさんたくさんたくさん勉強して、火星に住めるようになった。



 ○



 西暦2050年。

 ドローンの進化と「重力可変装置」なるものが開発されたおかげで、人類は気軽に大気圏を突破できるようになった。

 それまでは地球の重力から逃れるために、莫大なエネルギーが必要だった。ものすごく長い時間と、ものすごくたくさんのお金も。ロケットを操作するのにも何十人もの専門スタッフが必要で、離着陸させるのもかなりの困難を要した。


 それが今では、円盤型の宇宙船で誰でも宇宙へ行けるようになっている。



 ○



 僕は割り当てられた部屋の窓から、火星の黒い空を眺めていた。

 (この地区全体を覆うドームや、この部屋の窓に使われている透明な建材には、あらゆる宇宙線を跳ね返す機能が備わっている)


 太陽が出ているけれど、地球と違って火星は大気が薄いために昼間は真っ黒な空なのだ。

 その代わり、日の出と日没だけは青い空になる。


 僕は地球では夜型人間だったので、これはとてもいいと思った。

 もともと夜の静けさと、日の出日没のブルーモーメントが大好きだったのだ。


 ここでは昼間でも、外に出る人間はいない。

 鳥も虫もいない。

 いるのは人間と、わずかな微生物だけだ。


 ここはとても静かだった。


 やはり僕には火星での暮らしが合っているらしい。



 ○



 地球で付き合っていた女性は、僕が火星に行くと言うと付いては行けないと言った。

 それは単に彼女が僕よりも勉強ができなかったからではない。


 彼女はなんだかんだいって、騒々しいあの地球を離れることができなかったのだ。


 動物が好きだった。祭りが好きだった。春も夏も秋も冬も好きだった。歌が好きだった。いろんな食べ物が好きだった。山が好きだった。海が好きだった。観光名所が好きだった。学校が好きだった。働くのも好きだった。車や電車など、乗り物も好きだった。

 そしてなにより、太陽と、風と雲と、あの青空が大好きだった。


 僕とは正反対だった。

 だからこそ惹かれたのだけれど。


 でも、やっぱりわたしは行かない、行けない。そう言って僕たちはさよならをした。



 ○



 日に三度、決まった時間に部屋に食事が置かれる。

 完全栄養食であるブロック型のクッキーと、サプリメント。そして合成肉と水。


 火星に来てから、僕はみるみるうちに健康的な体型へと生まれ変わっていた。

 それまでは少しメタボというか太り気味だったのに。

 それが適切な健康管理をされるうちに劇的に改善している。嬉しいと同時に、消え去ってしまった腹の肉に一抹の寂しさを覚えた。


 食べ物の味は日によって様々だ。

 クッキーもサプリメントも合成肉も、マズイということはない。望めば自分の好きな味にしてもらえる。地球にいたときに飛行機の機内食を食べたことがあったが、あれよりははるかに美味しかった。

(飛行機は気圧の調整をする関係で機内が乾燥気味になるため、味覚が鈍ることがある。火星も地球より気圧が低いため同じ条件下だ)



 ○



 僕は日がな一日何をしているかというと、だいたいパソコンで小説を書いている。

 長い長い恋愛小説だ。

 火星と地球とに分かたれてしまった恋人たちの物語。


 それはすでに、終わってしまった自分たちの恋愛を延命させるような行為だったのかもしれない。

 未練たらたらだ。

 でも、僕は不思議と満たされていた。


 この物語の中ではすべてが順調だった。願ったことは何でも叶い、トラブルはめったに起こらない。

 まるでずっと素晴らしい夢を見ているようだった。


 火星に移住した人の中には、僕のように一日中なにかしらの創作活動をしている人がいる。絵を描いたり、編み物をしたり、筋トレをずっと続けている人もいるとか。(それはそれで筋肉を作りあげる創作活動だ)


 僕も日に一回はあのランニングマシンに乗らなければならない。

 部屋の隅に置かれた武骨な機械。

 地球でもテレビの通販番組などでお見かけする「あれ」だ。


 十五分ほどでいいらしいが、それすらもおっくうに感じる。

 僕は運動が大の苦手なのだ。



 ○



 彼女は、運動が好きだったな。

 シャワーを浴び終えた僕は、ベッドにあおむけになりながらそんなことを考えていた。


 今、彼女は何をしているのだろう。

 会社帰りに一駅分だけウォーキングをするのを、今でも続けているのだろうか。


 彼女は僕とは違ってスタイルも良く、いつもはつらつとして魅力的な女性だった。

 きっともう違う相手が彼女の隣に並んでいるのだろう。



 ○



 太陽はもうすっかり沈んでしまった。

 真っ黒な空は相変わらずだったが、今度はきらびやかな星々が現れている。


 ある程度予想していたこととはいえ、これは僕は好きになれなかった。

 夜が、明るすぎるのである。


 僕は窓際のスイッチを押して、窓の透明な建材を遮光モードにした。

 これで完全な闇が手に入った。


 地球の都会の空は、星がほとんど見られなかった。カーテンを閉めても外灯やネオンの明かりがまぶしくて、地上の明るさ具合に毎夜辟易していた。

 でも、夜が更けていくとそれも徐々に消えていって、僕の愛する本当の夜がやってきていた。


 少しだけ、その地球の夜が懐かしいと感じた。



 ○



 枕元のアラームが鳴って、朝が来た。

 僕は窓際のスイッチを押して窓の遮光モードをオフにする。するとちょうど青空が現れた。

 部屋に清潔な青い光が入ってくる。


 火星は「火の星」と書くのに、この瞬間だけは地球より青い星なんじゃないかと思ってしまう。

 この青い光に照らされると、僕は神の御前に立たされているような気分になるのだ。


 お前はこの地にふさわしい者であるのか、と。

 そう問われているようで。


 今までは大好きだった「ブルーモーメント」だったが、火星の「ブルーモーメント」は地球のとは違って徐々に僕の精神を蝕むようになっていた。



 ○



 彼女から電子メールが届いた。

 近況報告と、お気に入りの写真が一枚添付されていた。


 どこかの山頂のようだ。

 同行者はおらず、この写真も偶然一緒になった他の登山客に撮ってもらったという。


『ここは地球で一番高いところじゃないけど、いつものところよりはあなたに近いわね』


 なんて、憎いことが書いてあった。

 馬鹿。そんなことを言われたら、ホームシックになってしまうじゃないか。また君に会いたくなってしまうじゃないか。


 でも、やはり僕には火星での暮らしが合っているのだ。

 地球の方が大気が濃厚なのに、僕はあそこで窒息しそうになっていた。

 だからもう戻らない。二度と、戻ることはないんだ。



 ○



 エマージェンシー。エマージェンシー。

 けたたましくアラームが鳴り響き、赤いランプが点滅を繰り返している。


 どうやらここの第十テスト地区も限界がきたようだ。三か月は、一番もったほうか。

 いままで火星では、第一から第九までの地区がテスト地区として解放されてきた。しかし、どこもなんらかの不具合が出て重大事故が起きてしまっている。

 犠牲者は都度数百人単位で出ていた。


 それを承知で、僕はこの第十移住テストに応募したわけだが……。


「僕の火星ライフもここまでか」


 恋愛小説をつづっていたパソコンを開き、僕はゆっくりと最後の章を書きはじめた。


 願わくば、事故調査隊がこのパソコンを拾ってくれますように。

 そして、できたら彼女へこの物語が届きますように。


 それは身勝手でどうしようもない僕の、ささやかな願い。


 僕は地球では生きられない人間だった。もしあそこで生き続けていたら、きっと彼女と素晴らしい未来を築けていただろう。彼女は地球でしか生きられなかった。でももし、彼女もこちらに来られていたら……。


 いや、こんな死と隣り合わせの生活に、僕はどっちみち彼女を連れてこられはしなかった。

 これは緩慢な自殺行為だ。

 それをわかっていたから彼女も、きっと……。



 ○



 目の前がかすむ。

 きっともう空調設備が上手く機能していない。

 けれど僕はまだ文字を画面に打ち続けていた。カタカタとタイプ音だけが響く。エマージェンシーの警報音はもうとっくに切れている。


 脱出したい奴は脱出すればいい。

 でもきっと、多くのやつはここを人生の墓場と決めているはずだ。

 地球に戻ったって生きられないのだ。だったらここで最後を迎える方が――。


 その時、部屋の扉がぷしゅっという空気音とともに開いた。

 白くてごつい宇宙服を着た人が外に立っている。救助隊……? 今回から救助隊が編成されたのだろうか。


 しかし、僕は一瞬で興味を失い、またパソコンに向かった。


「ちょっと、なにやってんのよソラ! 早く、あたしと逃げるわよ!」


 聞き覚えのある声に、すぐに振り返った。

 まさか。

 宇宙服の、ヘルメット部分を凝視する。遮光モードが切られていて、さっきよりもはっきりと顔が見えていた。別れた、元カノだった。

 ふわふわの茶色い髪の毛がヘルメットの中に押しこめられていて、火星の空のような黒い瞳が僕を見ている。


「トモ……。どうしてここに」

「いいから、早く!」


 僕は宇宙服を着たトモに手を引かれ、割り当てられていた部屋を出た。一瞬パソコンを持っていこうかと思ったが、それどころではなかった。

 トモは長い廊下を突き進むと、突き当りにあるドアをこじ開けた。

 その先は屋外だ。


 酸化鉄に覆われた赤い地面がどこまでも広がっていた。

 そして目の前には、円盤型の宇宙船が停まっている。


「まさか……これに乗って来たのか?」

「そうよ。話は後。とにかく乗って! あ、息は止めててよ!」


 ドーム内とはいえ、空調設備が壊れている今、建物から宇宙船までの距離は息を止めて走らなければならなかった。

 船に乗り込むとすぐにドアが閉まり、室内の明かりが点く。


「なんで……助けに来たんだよ……」


 動揺しながらそう聞くと、トモは苦笑いを浮かべた。


「ああ、ニュースでやってたのよ。第十テスト地区ももうもたない、ってね。だからみすみす見過ごせなくってやってきたの」

「まったく……アクティブにもほどがあるよ」

「でもおかげで間に合ったでしょ」


 くったくなく笑うトモに、僕は複雑な思いを抱いた。


「僕は……あそこで死ぬつもりだったんだ。それなのに……」

「はいはい、そんなことだろうと思った。でも、じゃあなんであたしと一緒に逃げてくれたの?」

「……」

「まだ、死にたくなかったからじゃないの?」


 僕は、首を振った。


「違うよ。君が来たからだ」

「え?」

「君に、もう一度会ってしまったからだ。あそこで君の手をとらなかったら、もう二度と会えないって思ってしまった。だから……」

「ソラ……」


 トモはそう言ったまま言葉を詰まらせた。

 僕は言い表せなかった感情を吐き捨てる。


「なんで……だよ。なんで今頃来たんだ。なんで! 火星に行きたくないって言ってたのに。こんな、いまさらこんなことされても……僕は地球では生きられないんだ! なんで放っておいてくれなかったんだよ!」

「だって、しょうがないじゃない」


 トモは力なくそう言うと宇宙服のヘルメット部分を外した。零れ落ちた髪を、首を振ることで四方に広げる。

 僕は地球に居た頃、その仕草がとても好きだった。


「あたしだって、ここになんて来たくなかったわよ。言ったでしょ、わたしは地球の方がずっといいんだって。でも……あなたがいないなら、ソラがいないんなら……地球だって全然つまらなくなっちゃったのよ」

「トモ……」

「ねえ、とりあえず移動しましょ。地球に戻りたくないんなら、しばらくこの宇宙船の中にいたっていいんだし」

「そんな、悪いよ……。ていうか、これいったいいくらで借りたんだ?」

「そんなこと気にしなくていい。てか、今はあなたの命の方が大事でしょ?」

「……」


 運転席に座るトモを見て、僕は今後のことを考えた。

 普通に考えれば、このまま地球に戻って、火星での入植事故ケアセンターに行くのが適切だろう。火星のテラフォーミング計画は世界が一丸となって進めているプロジェクトだ。当然、それの保障も各国が率先してやっている。


 でも……そうなると僕はもう火星には住めない。

 一度入植テストに参加した者は、二度と参加できない仕組みになっている。できるだけ平等に機会が与えられるようにとの配慮らしいが――僕にとってはもう絶望しかなかった。



 ○



 トモの運転する宇宙船は二日ほど火星の上空を漂っていた。

 地表ではすでに第十テスト地区の封鎖作業が進められている。


「あっけないもんだったな。ようやく安住の地を手に入れられたと思ったのに……」

「ソラ、火星での生活は充実していたの?」

「ああ、それはもう十分すぎるくらいにね」

「そう。あたしにはまったく共感できないわ。こんな何もない場所で……いったい何を楽しんでいたっていうの」

「君とのあり得ない恋物語を小説にしていた」

「は?」

「そのデータはもうあの部屋に置いてきてしまったけど……事実は小説より奇なり、だね」


 トモは僕の横に立って、同じように窓から地表を眺めた。


「ねえ、これからどうするの?」

「さあね。せっかく助けに来てくれたけれど、やはり僕には火星での暮らしが一番合っている。だから……僕をまた、あそこに置いて行ってくれないか?」

「嘘でしょ」

「嘘じゃない。僕は本気だ」


 僕はトモの真っ黒な瞳を見つめた。

 トモは信じられないといった表情をしながら、とても嫌そうに言った。


「そんなことしたら、今度こそ死んじゃうじゃない」

「もともとあそこで死ぬ予定だったんだ。ちょっと日にちがズレただけだよ。気にすることはない。君と二日だけでもまた再会できてよかった。もうこの宇宙船も燃料が少なくなってきてるだろ。そろそろ戻らないとダメだ」

「戻るって……あの地球に?」

「そう。君が大好きなあの星に、帰りなよ」

「……」


 トモは僕の体に腕をまわして抱きしめてきた。


「じゃあさ。わたしと一緒に、最後までこの宇宙船にいるのはどう? 火星の空の上をずっと飛んでいるの。ね? どうせ、この宇宙船は盗んできたようなものなんだし」

「え、盗んできた? それほんと?」

「レンタルだけど、帰れないんならほぼ一緒でしょ。だからもういいの」

「……」


 僕も、トモの体に腕をまわして強く体を密着させた。

 久しぶりにその唇を奪う。

 いろいろあって気が動転していたけれど、二日経ってようやくそんな気持ちになれてきた。


「本当に帰りなよ。君は……君には、あの青い地球の空が似合ってる」

「そんなこと言わないで。あなたがいなかったらもう好きになれないのよ、あそこも」

「僕には火星しかないんだよ。火星しか……」

「ソラ……」


 僕たちはそれ以上どうしようもできなくて、そのまま抱き合うしかなかった。

 窓の外には赤い火星の地面が見える。それがまるで赤い空のようで。窓いっぱいに赤い風景が広がった。もう見ることはないと思っていた朝焼けか夕焼けの色。


 僕はそれを、トモを一番近くに感じながら見上げていた。



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やはり僕には火星での暮らしが合っているらしい 津月あおい @tsuzuki_aoi

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