第8章 それでもあなたに会いたくて

第37話 いつまでも私の心は曇り空

 碧生さんたちが島を去ってから三か月が経ち、太陽がギラギラと照りつける夏が訪れていた。

 けれど、私の心は相変わらず北斗を引きずったまま、いっこうに晴れることはなかった。

 あの日からずっと、北斗のことを考えている。碧生さんが最後に言ったあの言葉はいったいなんだったんだろう。

 もしかしたら、私のことを思いだしたんだろうか。でも、だとしたらどうして連絡をくれないの? 連絡がないということはやっぱり、あれは何かの気の迷いが言わせた言葉で、今も北斗としての記憶はないままなのだろうか……。

 何度も何度も答えの出ない問いをひたすらに考え続けていた。


「――七瀬!」

「は、はい!」

「この書類、間違ってる!」

「すみません……」


 私を呼ぶ声に慌てて課長の席に行くと、提出した書類を突き返された。ざっと目を通すとあちこちにチェックが入っているのが見える。またやってしまった……。項垂うなだれた私の頭上で、大きなため息が聞こえた。


「最近、心ここに非ずって感じで、ちょっと仕事が雑になってる。わかってるな?」

「はい……」

「仕事の時は、気持ちを切り替えろ。明日もたくさん予約入ってるんだ。お前がちゃんとしないで誰がするんだ」

「申し訳ありませんでした……」


 トボトボと自分の席へと戻る。課長の言う通りだ……。こんなんじゃあ社会人失格だ。 とにかく目の前の仕事だけでもきちんと終わらせてしまわないと。星空ツアーの予約だってたくさん入ってるんだから。

 北斗と過ごしたあの年に企画した星空ツアーは二年目となる去年も大盛況だった。雨の日に使うためのシアターも用意し、昨年度は前年同月比200%を達成した。連日のように予約は入り、民宿もホテルも期間中はほぼ満員。予約をお断りする日も増えていると聞いている。

 もう観光課をなくそうなんて、きっと誰も思っていない。それはとっても嬉しい。嬉しいはずなのに――。


「はぁ……」


 私はため息をつくと、再提出となった書類の修正作業を始めた。



 久しぶりに集中していたのか、気付けば終業時刻となっていた。そろそろ帰らなくちゃ……。

 そう思って立ち上がった私の肩を、誰かが叩いた。


「……帰るのか?」

「つ、かさ……」

「なんだよ、その反応」

「なんでもない。うん、今から帰るところ。司は?」

「俺も。……一緒に帰るか」

「うん……」


 あの日から、司は結婚について何も言わなくなった。そんな司の優しさに甘えて、私は前に進むことも戻ることもしないまま、できないまま、立ち止まり続けていた。このままじゃいけない、それはわかっている。でも……。きちんと話をするべきなのに、それから逃げ続けていた。北斗を忘れることからも、司から離れることからも……。


「……なあ、明莉」

「え?」

「明日から三連休だな」


 あと少しで家に着くというタイミングで、唐突に司は言った。どうしたというのだろうか。司の意図が分からず「そうだね」と曖昧に頷いた私に司はポケットからぐしゃぐちゃになった封筒を取り出した。


「だからさ、これ。やるよ」

「え……? 何……?」

「いいから、受け取れよ」


 半ば強引に手渡されたそれを開けると、そこには――乗船チケットが入っていた。

 そこには明日の日付で東京行きと印字されていた。


「どうして……?」


 思わず呟いた私に、司は微笑んだ。


「会って来いよ。北斗に」

「っ……」

「もういい加減、この中途半端なのやめにしよう」

「司……。で、でも……! 北斗は、もういないのに!」

「それはそれでいいんじゃないか。ちゃんともう北斗がいないことを確認して来いよ。……引っかかってるんだろ? 碧生さんの最後の言葉が」


 驚いた顔をする私に、司は「何年一緒にいると思ってるんだよ」と言って笑う。

 どこまで優しいんだろうか。この優しさに、本当に甘えてしまっていいんだろうか。司が優しくしてくれた分だけ、私は彼に返すことができるんだろうか……。


「……また変なこと考えてるな?」

「っ……」


 黙り込んでしまった私の鼻を指先でつまむと、司は笑う。子どもの頃から知っている、優しい笑顔で。


「お前は何も気にしなくていいんだよ。全部、俺がしたくてしていることなんだから。北斗がいなくなって悲しんでいるお前を慰めたくて結婚しようって言ったのも、今こうやってお前の背中を押して碧生さんに、北斗に会いに行けって言ってるのも全部全部俺がそうしたいって思ってるからしていることなんだから」

「でも……! 行けないよ! 明日は、三連休の初日で、星空ツアーの予約だって……」


 東京に行って、島まで帰ってこようとすると日帰りでは帰ってこられない。明日からの三連休は今年発の星空ツアーということもあってたくさんの予約が入っている。そんな中私がいないなんて、無責任にもほどがある。司の気持ちは嬉しいけれど、でもやっぱり行くことはできない。


「いつまでいい子でいるつもりなんだよ!」

「っ……つか、さ……?」

「全部我慢して自分だけ頑張ってそれで? その先に、お前にいったい何が残るんだよ!」


 私の言葉を遮るように司は首を振った。


「俺はさ、多分お前に幸せになってほしいんだ。たとえ……その相手が俺じゃなくても。明莉が悲しんでいる顔は見たくない。ただそれだけなんだ」

「司……」

「だから、俺のためにも……東京に行ってきてほしい。それにさ……今みたいな顔をしたまま隣にいられても、俺も辛いだけだよ。仕事の方は、俺がなんとかする」

「なんとかって……」

「だから、行け! 行ってくれ! 頼むから……」


 そう言う司の表情があまりにも辛そうで……私は何も言えないまま、頷くことしか出来なかった。

 そんな私に司は「ありがとな」と言うと、私の家には寄らずに帰って行った。

 私は……手の中のチケットを握りしめたまま、走り去る司の背中を見つめ続けていた。



***



 翌日、私は小さなカバンを持って家を出た。司には行くように言われたものの、本当は迷っていた。本当に行ってしまってもいいのかと。司の優しさに甘え過ぎではないかと。……突然言ったところで、碧生さんに会える保証もない。それなら、司を傷付けるような真似をせずここにいたほうがいいんじゃないかと……。それにやっぱり、仕事を放り出すわけには……。

 そんなことをずっと考えながら、重い足を引き摺ってそれでも港へとやってきた私の目に映ったのは――船の前に立つ、司の姿だった。


「どうし、て……」

「……寸前になって、やっぱり行かないとか言い出すんじゃないかと思ってな」

「う……」

「その顔は、図星だな」


 司は笑う。そして、一枚のメモを私に手渡した。

 そこには東京都から始まる住所が書いてあった。これはもしかして……。


「碧生さんの住所。大貫さんに聞いてきた。渋い顔をしてたけど……それでも、気をつけてって言ってたよ。それから、今日の分の星空ツアーは大貫さんの権限で俺が代行することになった。これで何の気兼ねなく行けるだろ?」

「あ……りが、とう……」


 司の気持ちが嬉しくて、泣きそうになる。必死に涙をこらえると、私は顔を上げた。


「っ……! 明莉!」


 けれど、メモを受け取ろうとした私の手を取ると、司は勢いよく引き寄せる。バランスを崩した私の身体は、そのまま司の腕の中におさまっていた。


「つか……さ?」

「……くな」

「え……?」

「っ……悪い! なんでもない!」


 何かを言った司の声が上手く聞き取ることが出来なくて、聞き返した私の身体を押し退けるようにして引き離すと、司は「気をつけてな」と言って笑う。

 そして私の背中を押すと、船の方へと押しやった。


「北斗によろしくな」

「司!」

「ちゃんと、帰って来いよ」


 私の手から取り上げたチケットを係の人に手渡すと、船の中へと私の身体を押し込めた。


「司!」


 名前を呼ぶ私の方を見ることなく司が手を振り、そして……船は出発した。

 私はその場に崩れ落ちてしまう。


 傷付けてしまって、ごめんなさい。優しさに、甘え続けてごめんなさい。

 それでも……北斗に会いたいと、そう思ってしまって、ごめんなさい……。


 うずくまる私を心配した乗務員さんに「大丈夫ですか?」と聞かれるまで、私はその場から動くことができなかった。

 私たちの想いとは裏腹に、船は動き続ける。


 そして――数時間後、船は東京へと到着した。

 北斗の、碧生さんのいる、東京へ――。

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