第38話 その声で、さよならと言って

 東京にもうすぐ着くというアナウンスに私はそっと外を見る。島から出たことがない私にとっては、これが初めての外の世界。コンクリートで固められた街並みと、沢山の人の姿が見えた。

 クラクラする……。こんなにたくさんの人がいる中で、本当に碧生さんに会うことができるんだろうか。出来たとしても、話をすることなんて……。


「ううん、やるんだ」


 弱気になりそうな気持を振り払うと、私は司にもらったメモを見る。スマホで場所を確認すると、ここからそう離れていない場所に北斗の家はあるようだった。

 私は知らない道のりを一人で歩いた。同じ日本とは思えないほど、島とここは違っていた。でも、見るもの全てが新鮮で、そして怖い。聞いたことがないような音を出しながら走る車も、歩道を歩く沢山の人の姿も、そしてその中を縫うようにして走る自転車も。全てが怖かった。


「……あ」


 しばらく歩くと、人通りの少ない住宅街へと入った。さっきまでの喧騒が嘘のように静まり返ったその場所に、碧生さんの家はあった。

 表札を確認すると「大村」と書かれていたから間違いない。

 深呼吸を一つして、チャイムに手を伸ばす。……けれど、押すのを躊躇ってしまう。

 そもそも、いたとしてなんて言うつもり? 会いたくて来たんです? なんのために? これじゃあまるで……。


「ストーカーみたい……」


 自分の口から出た言葉に、思わず苦笑する。本当にストーカーみたいだ。どうして気付かなかったんだろう。それにもし楓香さんがいたら……。それこそ本当にストーカーとして通報されてしまうかもしれない。

 やめとこう……。ここまで来たけど、冷静になってみれば会えるわけないのだ。たまたま偶然そのあたりを歩いている碧生さんと会えでもしない限り……。

 溜息をついて、私は碧生さんの家に背を向けた。そして、歩き出そうとしたその時、道の向こうから歩いてくる人影が見えた。あれは……。


「碧生さん……」


 そして、碧生さんの隣には、楓香さんの姿があった。仲良さそうに、寄り添って歩く、二人の姿……。


「っ……」


 そうだ、そうだよ。私はそもそも何を期待してきたんだろう。もしかしたら碧生さんが北斗の記憶を取り戻していて、私のことを待っていてくれるとでも思ってた? そんなこと、あるわけないのに。

 現実はほら、この通り。碧生さんの隣には、幸せそうな楓香さんの姿があるだけじゃない。あの場所は、もう私のものじゃない。楓香さんの場所。

 もう、帰ろう。島に、そして司の元に。

 北斗はもういなかったとそう伝えて、それで……これからのことを話そう。今の正直な気持ちを話して、それでも司が待っていてくれるというのなら……いつか私は司のことを好きになりたい。

 心から好きになって、北斗のことを忘れて、司と幸せになりたい。

 それがきっと、一番いい――。


 私は気付かれないように立ち去ると、港へと向かった。船の時間までにはまだまだあるけれど、それでも行きたい場所なんてなかった。……それに、そこ以外どこへ行っていいのかもわからなかったから。

 潮の匂いがしてきて、あと少しで港につくと思った時、誰かに呼ばれた気がした。でも、この街で私のことを知っている人なんているわけない。いたとしても……その人が私を呼びとめることなんて有り得ない。

 私は気のせいだと思って、再び歩き始めた。でも……。


「明莉さん!」


 すぐそばで聞こえたかと思うと、私は誰かに……ううん、聞き覚えのあるその声の主に、腕を掴まれた。

 そんなわけない、そんなことあるはずがない。

 そう思いながら、私は恐る恐る後ろを振り向いた。そこには……走ってきたのか、少し息を切らせた碧生さんの姿があった。


「どう、して……」

「さっき、あなたの姿を見た気がして……それで……」

「それで、追いかけて来てくれたんですか?」

「見間違いじゃなくて、よかった」


 碧生さんは笑いながらそう言うと、額から垂れる汗を拭った。そんなに、汗をかくほど走って来てくれただなんて……。


「どうしてここに? 観光ですか? もし時間があるならどこか案内でも――」

「……人を、探しに来たんです」

「人を……?」

「はい」

「……その人とは、会えましたか?」


 私は「会えませんでした」と小さく首を振って、それから精一杯の強がりを笑顔にこめて碧生さんに言った。


「もういいんです」

「いいんですか……?」

「はい。きっと、私はここに来て納得したかっただけなんだと思います。あの人はもういないんだと。そうじゃないと、いつまで経っても忘れることができないから。……でも、これでスッキリしました」

「え……?」


 私の言葉に碧生さんは「どういうことですか?」と尋ねた。


「結婚を待ってくれている相手がいるんです」

「司さん、ですね」

「はい。……ずっとそばで支えてくれていたのに、私は彼に甘えっぱなしで……。だから、帰ったら謝ろうと思います。それで、未来の話をしようと思います」

「そう、ですか……」


 碧生さんは目を伏せると、何かを言おうと口を開いて……やめた。

 いつの間にか時計の針は乗船開始の時間になっていた。


「それじゃあ、私はこれで……」

「あ……はい」


 その場に碧生さんを残して、私は歩き出した。このまま立ち去ればいい。そして、もう二度と碧生さんとは、北斗とは会わない。それでいいんだ。それで……。


「――最後に、一つだけ」

「え?」

「一つだけ、お願いがあるんです」


 頭では分かっているはずなのに、気が付くと私はそう口走っていた。

 そんな私に碧生さんは嫌な顔一つせず「いいですよ」と頷いた。


「なんですか?」

「……さよなら、明莉。って……そう言ってくれませんか」

「僕が……ですか?」

「はい。……ダメですか?」

「いえ……」


 悲しい顔で微笑むと、碧生さんは私のそばに来て、手を取った。


「さよなら、明莉。……幸せになって」

「あり、がとう……ございます」


 粗方の搭乗が終わったようで、係の人が他に乗る人がいないか確認をしている。私はそちらに向かって歩き始める。

 もう振り返らない。

 溢れ出る涙を必死に拭うと、私は駆け出した。


「っ……!」

「え……?」


 そんな私の腕を、引き寄せるようにして、碧生さんが掴んだ。


「あ、の……」

「あれ……? 僕、どうしたんだろう……」

「腕……離して……」

「でも、どうしてかはわからないけれど……このまま行かせちゃいけない気がしたんです。このまま離れちゃいけない気が……」


 最後の確認をする声が聞こえる。

 これを逃せば、明日の朝まで船はない。


「船が……」

「っ……」


 でも、これが最後なら……もう少しだけ、一緒にいたい。

 碧生さんが、そう望んでくれるのなら、なおさら……。


 遠くの方で、私の住む島に向かって、船が出港する音が聞こえた。

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