第36話 そして帰る、海の向こうへ
翌朝、目が覚めた私はシャワーを浴びようと洗面所に向かった。鏡の中には、泣き腫らした目に崩れた化粧、そして悲壮感に溢れた私がいた。
壁にかけた時計を見ると、あと二十分ほどで司が迎えに来る時間だった。慌ててシャワーを浴びて、化粧をすると、いつも通りの時間にチャイムは鳴った。
「おはよう」
「……おはよう」
あんなことがあったあとでも、司はこうやって当たり前のように私のことを迎えに来てくれる。
「ありがとう」
「何が?」
「ううん、なんでもない」
私たちは並んで歩き始める。
ここがきっと、私の生きる場所。
まだ少し胸は痛むけれど、きっといつか忘れられる。
きっと……。
その日、あと三十分でお昼休み、という頃――私を手招きする大貫さんの姿が見えた。
課長に断りを入れてそちらへ向かうと、小声で大貫さんは言った。
「もうすぐ、北斗君の乗る船が出るよ」
「え……?」
「……最後に、会って行かなくていいのかい?」
「っ……」
言葉に、詰まる。
もういいんです、忘れるって決めたんです、私には司がいるんです。
……心の中ではたくさんの答えが思い浮かぶのに、どれも口に出すことができない。
情けない。忘れるだのなんだの言ったって、結局名前を聞くだけでこんなにドキドキして苦しくなって、何も言えなくなってしまう。
「わた、私……」
「ん?」
でも、言わなくちゃ。
きちんと、断らなくちゃ。
じゃないと、また――司を傷付ける。
「私、もうい……」
「行きます!」
「つか、さ……?」
「何やってんだよ! ほら、さっさと行くぞ!」
「え、ちょっと……!」
突然現れた司は、私の腕を引っ張ると廊下をつかつかと歩く。
慌てて大貫さんを振り返ると、優しく微笑みを浮かべていた。
「大丈夫、あとのことは任せて早く行きなさい」
「っ……ありが、とう……ございます……」
頭を下げると、私は司に引きずられるようにして港へと向かった。
港へ向かう途中、司は一言も話さなかった。
いったい司はどういう気持ちで、今こうして――。
「いたぞ」
「え……」
「ほら、あそこ」
司の指差した先には、到着した船の前で話をする碧生さんと楓香さんの姿があった。
「明莉?」
突然立ち止まった私を、心配そうに司は見つめる。
でも、足が動かない。
ここまで来たのに、二人の姿を見ただけで、足がすくんでしまう。
「ダメ……私……」
「明莉……」
「ごめんね。司……。せっかく連れて来てくれたけど……でも……」
謝る私に司は「気にするな」と言って優しく背中を撫でてくれる。
ここから北斗を……碧生さんを見送って、それで仕事に戻ろう。いつものように仕事をして、帰りに司にありがとうとごめんなさいを伝えて、それで……。
――瞬間、碧生さんと目があった。
「っ……」
50m以上離れているというのに、彼は私の姿を見つけて、そして――こちらに向かってゆっくりと歩いてやってきた。
「見送りに、来てくれたんですか?」
「……はい」
「ありがとうございます」
何も言えない私の代わりに、司が碧生さんととりとめのない会話をする。
そして、出航の時間がやってきた。
「それじゃあ、お元気で。お二人に会えてよかったです。……この島での出来事を僕は覚えていませんが、きっと幸せだったんだろうなって思います」
「っ……どうして?」
それまで黙っていたのに、突然そう尋ねた私に一瞬驚いた表情を見せた後、碧生さんは優しく微笑んだ。
「この島に着いた瞬間から、ずっと心がふわふわしてて、ああ僕はここに来たかったんだと、そう思ったんです。僕自身は覚えていないのに、この島を求めていたんでしょうね」
「この島を……」
「はい。だから今回、ここに来れて本当によかったです。……もう会うこともないかと思いますが、お元気で」
碧生さんはそう言うと、司の方へと向き直った。そして……。
「明莉さんと、結婚するんですよね」
「ああ。……何か、問題でもあるのか?」
「問題……?」
「お前は! ……本当にそれでいいんだなって言ってるんだよ!」
司は……碧生さんを怒鳴りつけると、「くそっ」と吐き捨てるように言った。そんな司に碧生さんは「はい」と言って頷くと、チラリと私を見て司に言った。
「ああ……でも、一つだけ」
「なんだよ」
「……明莉さんのことを、幸せにしてあげてください」
「そんなの、あんたに言われなくても――」
「その役目は、もう俺じゃないから」
「え……?」
碧生さんの言葉に、私も司も声を失う。
そんな私たちの反応に、碧生さんは最初こそ不思議そうな表情を浮かべていたけれど、自分の発した言葉に気付くと、戸惑い、そして苦笑した。
「あれ? 僕……今、変なこと言いましたね」
「あの……碧生さ――」
「すみません、気にしないでください」
そう言って笑うと、碧生さんは私たちに頭を下げた。
「それじゃあ……さようなら」
「あ……」
優しく微笑むと、碧生さんは私たちに背中を向けて、楓香さんの元へと歩き出した。
そんな碧生さんの背中を、私は船が海の向こうへ消えるまで、ずっとずっと見つめ続けた。
「……戻ろうか」
司が私に声をかけたのは、船が見えなくなってしばらしくてからだった。
小さく頷いた私の背中に腕を回すと、司は歩き始める。
私も一歩、また一歩と歩き出す。
でも心の中では、さっきの碧生さんの言葉がぐるぐると駆け廻っていた。
あの言葉は、碧生さんのものじゃない。北斗の、言葉だ。
でも、どうして? 思い出したの? それとも――。
けれど、どれだけ考えても、その答えが見つかることはなかった。
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