第35話 二人きりの星空ツアー
その日の夜中、私はそっと家を出ると、あの海岸へと向かった。
そしてそこには――先客がいた。
「こんばんは」
「……こんばんは」
「よかった、来てくれて」
「……碧生さんが、来てくれっていったんじゃないですか」
碧生さんは私の言葉に優しく微笑む。
あのとき、後ろを振り向いた碧生さんは、声を出さずに言っていた。「夜中に、またここで」と……。もしかしたら私の勘違いかもしれない、行っても誰もいないかもしれない。そう思ったけれど……もしかしたら、と思うと自然と足はここへと向いていた。
だって――。
「もう一度、会いたかったから」
「え……?」
その言葉の真意がわからず困惑する私に、碧生さんは「なんて、ね」と笑った。その笑顔はどう見ても北斗そのもので、なのに口調も話すテンポも北斗とは異なることに心がついていかない。思わず俯いてしまった私に、碧生さんは口を開いた。
「本当は、あなたに聞きたいことがあったんです」
「聞きたいことって……」
「その前に、一ついいですか?」
「え?」
「星空ツアーってなんですか?」
碧生さんの口から出たその言葉に、心臓が捕まれたような衝撃を受けた。どうして、それを……。だって、それは……。
「どうし、て……」
「ああ、すみません。フェリーを下りたところでポスターを見たんです」
「あ……それで……」
一瞬、何かを思い出したのかと期待した。けれど、それは瞬間的に打ち砕かれた。そっか、夏に貼ったあのポスターを……。
「あの……?」
「あ、えっと……去年の夏に、私が企画したんです。この島は一年中綺麗な星が見えるので……」
「そうなんですね。たしかに、空にたくさんの星が輝いててまるで天然のプラネタリウムのようですもんね」
「っ……」
どうして……。
記憶なんて残ってないはずなのに、北斗と同じ顔で北斗と同じことを言うの……。
「行ってみたいなあ」
「え……?」
「星空ツアー。今はやってないんですか?」
「夏限定なんです……。だから、今は……」
「そっかぁ」
残念そうに笑う碧生さんに――私は,思わず口走っていた。
「今から行きますか?」
「でも、今はやってないって……」
「私が案内します」
「え……」
私の言葉に、碧生さんが口ごもったのがわかった。
そりゃそうだ。碧生さんからしたら初対面の人間にこんなこと言われても不審でしかないだろう。この人は碧生さんであって、今はもう北斗じゃないんだから……。
「な、なんでもないです。えっと――」
「行きたいです」
「え?」
「行きたいです」
冗談かと思った。聞き間違いかと思った。でも、碧生さんの表情は真剣で、その言葉が本心から出たものなのだと、伝わってくる。少し歩くけれどいいか確認して、私たちは山道を歩き出した。
あの日、北斗と二人で歩いた道を、今日は碧生さんとともに歩く。こんな日が来るなんて思ってもみなかった。もう一度、北斗とこの道を歩くことができるなんて。――そのときに、北斗が私のことを覚えていないなんて。
「ここです」
「うわー……!」
少しだけ足早に歩いた私たちだったけれど、それでも南が丘園地までは30分以上かかった。何を話せばいいのかわからず、ずっと無言だった私たちだけれども、目的の場所について夜空を見上げた碧生さんは感嘆の声をあげた。
「凄い……。こんなにたくさんの星、プラネタリウム以外で初めて見た……」
「そう、らしいですね。私にとってこの星空は、いつだって当たり前にここにあるものだったんですけど……この島に、初めて来た人に今の碧生さんと同じことを言われて、それで星空ツアーを思いついたんです」
「そうなんですね。いや、でもこれは凄いです……。その方に感謝ですね。その方のその言葉がなければ、今こうやって星空を僕が見ることもできなかったってことですし」
碧生さんの言葉に、胸が締め付けられる。
あなたが今言っているその人は、あなた自身なのだと伝えたい。あなたが忘れているこの島でのあなたのことなのだと。
でも……。
「っ……それで」
「はい?」
「聞きたいことってなんだったんですか……?」
「あ、はい……。これのことなんです」
碧生さんは私の言葉に思い出したかのようにポケットに手を入れると、何かを取り出して見せた。
それは……あのとき、北斗が私にくれた結婚指輪の片割れ、だった。
「それ、と……同じものですよね」
私の首元のにかかったチェーンについたペンダントトップを指差すと、碧生さんはそれに手を伸ばした。
「違います!」
碧生さんの手が届く前に、私はそれをぎゅっと握りしめた。
突然声を荒げた私に、碧生さんは驚いた表情を浮かべていた。そんな碧生さんに「すみません」と謝ると、握りしめた手の中の指輪の存在を確かに感じながら、碧生さんに言った。
「これは、私の大切な人が贈ってくれたものなんです」
「大切な、人が……」
「はい。だから……碧生さんが持っているそれの、片割れなんかじゃ、ないです……」
だって、これは、北斗がくれたものだから。
碧生さんじゃなくて、北斗が私にくれたものだから。
だから……。
「じゃあ、どうして泣くんですか……?」
「え……」
碧生さんが私の頬に手を伸ばすと、いつの間にか流れていた涙をそっと拭ってくれる。
その手が優しくて、再び涙が溢れる。
そんな私に、碧生さんはもう何も言わなかった。
代わりに、泣きやむまで、隣にいてくれた。
「……そろそろ、帰りましょうか」
どれぐらい経ったのだろうか、ようやく涙が止まった私に、碧生さんはそう言った。
小さく頷いた私を見て優しく微笑むと、碧生さんは歩き始める。
一本道とはいえ、真っ暗な中山道を、なんの迷いもなく。
「どこに行くんですか?」
「送っていきます。いくら平和な島とはいっても、こんな時間に女性を一人で歩かせるわけにはいかないですから」
「なんて、僕が呼び出したんですけどね」そう言って碧生さんは笑いながら歩いて行く。
私は、そんな碧生さんの少し後ろをついて歩いた。
隣を歩くのは、もう私じゃない。
私の隣を歩くのも、もう彼じゃない――。
「……あれ?」
「どうしました? 道、間違えてましたか?」
山道を無言で歩いて降りた碧生さんは、当たり前のように私の家の方に向かって歩き出した。そんな碧生さんに、私は疑問をぶつけるように尋ねた。
「いえ……道はあってるんです。あってるんですが……どうして、私の家を知ってるんですか?」
私の言葉に、碧生さんも一瞬不思議そうな顔をしたあと……
「どうしてでしょう?」
そう言って、困った顔で笑った。
「自然と足が向いて、というのは変ですね」
「自然と……」
「不思議なこともあるもんですね」
そう言って碧生さんは笑うけれど、私は笑うことができなかった。それどころか、碧生さんの向こうに透けて見える北斗の存在に、涙を流さないようにするので、精一杯だった。
「じゃあ、ここで」
「はい……」
私の家にたどり着くと、碧生さんは優しく微笑んで、そして元来た道を帰っていく。
彼は振り返らない。
「さようなら」
去って行く背中にそう呟くと、私は家の中へと駆けこんだ。
止めどなく、涙が溢れる。
彼の中に、確かに北斗はいた。
でも、でも……!
もう、彼は北斗じゃない。北斗はもう、どこにもいない。いないんだ。
そんなわかりきっていた事実をいまさら突きつけられて、私の胸は引きちぎられそうになるほど痛んだ。泣いて、泣いて、泣いて……子どものように、泣きながら眠った。
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