第34話 夜空に輝く星の記憶

 夜道を、司は無言で歩く。

 その隣を私も無言で歩く。

 空気が重い。……それもそのはずだ。あれから私たちは一度も目を合わすことなく、表面的な会話だけして司のご両親との夕食を終えたのだから。


「……どうした?」


 突然立ち止まった私に、振り返った司は訝しげな視線を向けた。

 私は、その問いには答えず、逆に司に疑問をぶつけた。


「どうして、言わなかったの?」

「……何を」

「結婚のこと」


 そう、司は結局……ご両親に結婚の話をしなかった。

 わかっている、私のせいだって。でも、そんなふうに私のことをひたすらに優先する司に妙に苛立っていた。そんな苛立ちをぶつける権利なんて、私にあるはずもないのに。


「……また今度でいいだろ」

「なんで?」

「なんでって……。別に。今日じゃないなーって思ったんだよ」


 司は優しい。優しくて甘くて、そんな司を……私はどれだけ傷付けているんだろう。

 今も、今までも、そして……これからも……。


「ごめんね……」

「なに謝ってるんだよ。俺が勝手に延期にしたんだから、明莉は怒ってもいいぐらいだぞ」

「そんなこと……」

「まあ……悪いと思っているのなら、さっさと俺のことだけを好きになれよな」


 冗談交じりに司は言う。でも、その言葉は私の心に深く重く突き刺さった。

 ……もう、北斗のことは忘れよう。

 彼は今、違う名前で違う人生を生きている。

 隣にいるのは私じゃない。

 私の隣にいるのも、北斗じゃない。

 私の隣には、こんなにも私を想ってくれている人がいるのだから。


「つか――」


 そう呼びかけた私の声を、遮るようにして司の携帯が鳴った。一瞬悩んだ後「ごめん」と言って司は電話に出る。そして――。


「っと、ごめん。母親から、親父が酒飲んでるから代わりに車出してくれって。なんか腰打ったから診療所に行きたいんだって。……悪いけど、送るのここまでで大丈夫か?」


 申し訳なさそうに言う司の背中を、私は慌てて押した。


「大丈夫に決まってるよ。もうすぐそこだし! それよりも、早く帰ってあげて! 司のお母さんが連絡してくるなんて余程のことだよ!」

「そうか……? いや、やっぱり明莉のことを送ってからでも……」

「私ならいいから! さっさと行く!」

「……悪い、今度何か奢るわ」

「期待せずに待ってるよ。それじゃ、またね」

「おう」


 慌てて走り出すと、司はポケットから携帯を出してもう一度耳に当てた。あの様子だと、おばさんからの電話は切迫したものだったのかもしれない。送り出してよかった。

 私は一人、司のいない帰り道をとぼとぼと歩く。こんなふうにこの道を一人で歩くのはいつぶりだろう。北斗がいなくなってから、いつだって隣には司がいた。ずっとずっとそばにいてくれた。きっと司がいなかったら、今こんなふうに外を歩くことすら出来なかったと思う。それほどまでにあの頃の私は荒んでいた。そして、そんな私の手を引っ張って再び歩き出させてくれたのは、ほかでもない司だ。

 なのに……。


「っ……」


 海岸沿いを歩きながら夜空を見つめる。春の夜、ここからは北極星がよく見える。


「北斗……」


 ……どうして、戻ってきたの。

 あなたさえ戻って来なかったら、私は……私は……。

 いつの間にか頬を伝っていた涙が、ぽたりと落ちた。

 まだ私は、こんなにも、こんなにも北斗のことを――。


「……こんばんは」


 遠慮がちに、でも私へと向けられた声が聞こえた。

 この声の主を私は知っている。間違えるはずがない。何度も何度も聞いて、ずっとずっと焦がれていたのだから……。

 恐る恐る振り返ると、そこには……よく知っている顔をして微笑む――見知らぬ人が立っていた。


「 ほく……っ! ……碧生、さん」

「一人ですか?」

「はい……。碧生さんもおひとりですか? 楓香さんは……」

「それが、大貫さんの家に行くまでの道のりではぐれてしまいまして」


 恥ずかしそうに、碧生さんは言う。

 そして、私の隣に並ぶと先程までの私と同じように星空を見上げた。


「満天の星空ですね」

「はい……」

「綺麗だなぁ。……もしかして以前も、こうしてここで一緒に星を見ていませんでした?」

「え……? どうして……。まさか……!」


 碧生さんの言葉に、動揺が隠せない。

 もしかして、ここで二人で一緒に星空を見ていたことを思い出したの……?

 この島のことを思いだした時と同じように、夜空に輝く北斗七星を見たことがきっかけで……。

 ――でも、そんな甘い期待は、すぐに打ち砕かれた。

 碧生さんは小さく首を振ると、もう一度夜空を見上げて、小さな声で呟いた。


「なんとなく、そんな気がして」


 曖昧な表情で、碧生さんは微笑む。

 そして、悪戯が見つかった子どものような表情で私の方を見た。


「さっき、はぐれちゃったって言ったじゃないですか。あれ、実は嘘なんです」

「う、そ……?」

「本当は、あなたにお礼が言いたくて、あなたの家に向かう途中だったんです」

「お礼って、どうして……」

「この島にいる間、あなたに凄くお世話になったようだったので。みなさんにここにいた間の俺の話を聞かせてもらったんですが、どのエピソードにもあなたの存在がありました。……みなさん、何故か隠そうとしていたようですが」


 困ったように碧生さんは微笑む。

 そんな彼に、私もどうしてでしょうね、というように曖昧な笑みを浮かべた。


「でも……残念ながら私は、何もしてないです」

「え?」

「だから、お礼を言ってもらうようなことはないです」

「そう、ですか」


 碧生さんはそれ以上追及することはなかった、

 代わりに、無言で空を見上げる。私もつられるようにして、夜空を見上げた。


「ここからは、星が綺麗に見えますね」

「はい……」

「北極星に……ああ、あれが北斗七星ですね」


 嬉しそうに一つ一つ星を指差していく。


「一つ、二つ、三つ……。あれ? 星が八つ……?」

「あ、あれはアルコルです」

「アルコル?」

「はい、北斗七星を作る星のうちの一つの恒星で、こんなふうに空が住んでいる日はアルコルが綺麗に見えるんです」

「へえ……。都会じゃあなかなか見られないですね。アルコルかー。まるで八番目の北斗七星のようですね」

「っ……!」


 ……気が付けば、私は泣いていた。

 涙がぼとぼとと、目から溢れる。

 思い出したわけじゃない。

 でも、私との思い出が、北斗の、碧生さんの心の中に確かに残っている。

 それだけでこんなにも嬉しくて、胸が締め付けられるように苦しくなる。


「っ……だい、じょ――」

「碧生!」


 その声に……碧生さんは伸ばしかけた手を、引っ込めた。

 慌てて声のした方を見ると、凄い形相で私たちを……ううん、私を睨みつける楓香さんの姿があった。


「あ、の……」

「行くわよ、碧生! みんな心配してる!」

「ああ、わかったよ。……それじゃあ、また」

「はい……」


 腕を引っ張られるようにして、碧生さんは楓香さんの後をついていく。……一瞬、碧生さんは私の方を振り返ると、口を動かした。


「え……?」


 ニッコリと微笑むと、碧生さんは歩き始める。

 もうこちらを振り返ることはなかった。

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