第28話 そして彼はいなくなった

 あの日から、何度か北斗が頭痛に襲われているのを目撃した。

 その度に「大丈夫?」「大丈夫だ」とまるでお決まりのセリフのように同じ言葉をお互いに繰り返していた。

 でも……司の言うとおり、だんだんと頭痛が起きる頻度が高くなっているのが嫌でも分かった。

 最初は数日に一回程度だった頭痛が気付けば一日に一回、昨日今日に至っては数時間おきに繰り返されるようになっていた。

 もう、これ以上は――。


「北斗、大丈夫……?」

「だい、じょ……うぶ。す、ぐ……おさま、る……から……」


 今日三度目の頭痛に襲われ、蹲うずくまった北斗の背中をさすりながら、もう逃げることは出来ないと、そう思った。

 これ以上この状態を続ければ、いずれ北斗の身に危険が及ぶかもしれない。

 記憶が、過去がなんだっていうのか。

 私がそれから逃げるために、北斗を失ってしまってもいいの?

 お父さんやお母さんやおばあちゃん、それにおじいちゃんのように、もう二度と会えなくなってしまってもいいというの……?


「ね、北斗」


 私の声に北斗が顔を上げる。少し頭痛が治まってきたのか、顔色は随分とよくなってきていた。

 私はそっと汗を拭うと、北斗はゆっくりと口を開いた。


「ごめ、んな……心配、かけて……」

「ううん……。でも、北斗。やっぱり病院行こう」

「だから、病院なら……」

「違う、東京の病院。大きなところで、きちんと調べてもらおう」


 私の言葉に、北斗は眉をしかめて、そして小さく首を振った。

 でも、私も決心したのだ。

 もう、引くことは出来ない。


「ダメだよ、ちゃんと病院に行こうよ」

「大丈夫だって、言ってるだろ」

「大丈夫じゃないよ!」


 大きな声を出した私に、北斗は驚いた顔をした。

 私は北斗の手をそっと握りしめると、小さな声で言った。


「このままじゃ……北斗が死んじゃうよ……」

「死ぬわけないだろ、頭痛ぐらいで」

「どうしてわかるの!? 何か大きな病気が隠れてるかもしれないじゃない!」

「そんなわけ……」

「不安なの! いつか北斗が……おじいちゃんみたいに、冷たくなったまま起きなくなったらどうしようって……。北斗まで死んじゃったら、私……」

「明莉……」


 私の頭を撫でながら、北斗はごめんなと呟いた。

 顔を上げると、困ったように北斗は笑っていた。


「泣くなよ」

「泣くよ……」

「そっか……。そうだな……一度病院で見てもらって、何でもないって分かれば――明莉も安心できるもんな」

「北斗……」


 明るく言う北斗に……私は胸が締め付けられる思いだった。

 こんな時まで、私のことを優先しないでほしい。

 大人の男の人が、顔を苦痛に歪ませて脂汗をかくほどの頭痛だなんて、いったいどれだけの痛みとこの人は戦ってきたのだろう。

 全部、全部私のために……。


「明後日休むって伝えて、明日の仕事帰りに真島さんのとこ行って東京行きのチケット買ってくるよ」

「真島さんってことは港まで行くの? なら私も――」

「一人で大丈夫だって、子どもじゃないんだし。それに営業時間的に早退しないと間に合わないからさ」

「そうじゃなくて、私も東京に!」

「……ちゃんと帰ってくるから、ここで待っててよ」

「……わかった」


 不安がないわけじゃなかった。

 でも、北斗が笑うから……私も笑って見送ろうと思った。

 けど……。



「北斗……?」


 翌日、仕事を終えて帰宅すると、まだ北斗は帰っていなかった。

 チケットを買いに行くから午後休を取ると言っていたけど……。港まで行ったついでに真島さんにでも捕まっているのだろうか。


「ご飯でも作って待っていようかな」


 今日は北斗の好きなハンバーグにするつもりで、冷凍庫から取り出した挽肉を解凍しておいた。

 私は久しぶりに一人で台所に立つと、下ごしらえをして北斗を待った。

 早く帰ってくるといいな……。

 ――けれど、どれだけ待っても北斗は帰って来なかった。



 ガタンっという音がして、私は慌てて玄関へと向かった。

 寝てしまっていたようで、時計の針は夜の八時を示していた。


「おかえりなさい! 遅かっ……た、ね……」

「……よう」

「司……?」


 玄関の扉を開けると、そこには何故か……司が立っていた。

 私の慌てた姿を見て、司は眉をしかめる。


「その様子だと、北斗がどこに行ったのか知らないみたいだな」

「どういう、こと……?」

「……落ち着いて聞けよ?」


 混乱する私に、司は言った。


「午後の船で……東京へ向かったらしい」

「え……? だって、北斗は明日――」

「俺もそう聞いていた。けど……さっき外で真島さんに会って、今日北斗が来たって言うからさ。明日東京に行くらしいって話をしたら……今日、船に乗ったって言われて……」

「どういう、こと……?」


 どうして北斗が、今日東京に行ってしまったの?

 それも、私に一言もなく――。

 ショックを受けた私に、司はそれから、と言いにくそうに口を開いた。


「北斗のやつ、やけにボーっとしてて……名前を呼んでも返事しなかったらしい。ただ「東京に、帰らなきゃ」ってそう言ってたって……」

「かえ、らなきゃ……?」


 北斗が帰る場所は、ここのはず。

 じゃあ、東京に帰るとはどういうこと……?

 それじゃあまるで……東京が住処のようで……。

 まるで――。


「記憶が、戻ったのかもしれないな」

「っ……」


 だから北斗は、私の元から消えてしまったのだろうか……。

 まるで最初から、そんな存在なんてなかったかのように――。


「北斗……」

「お、おい!」


 足に力が入らなくて、玄関にしゃがみ込んでしまって私を司が慌てて起こそうとする。

 でも、もう立ち上がる気力はなかった。

 ただ雲に覆われて、星ひとつ見えない夜空を、呆然と見つめていた。



 翌日、もしかしたら北斗が帰ってくるかもしれないと、私は職場に欠勤の連絡を入れて、朝から港で船を待っていた。

 でも、朝一の船にもお昼頃の船にも北斗は乗っていなかった。


「明莉」

「司……」

「今日の分の船は、もう終わったぞ」

「あ……」


 気が付けば、夕日が沈み始めていた。

 次に港に船が着くのは、明日の朝――。


「ほら、帰るぞ」

「うん……」

「お前、まさか明日も……」

「今日予定通り病院に行って、それで夜の船に乗ったら明日の朝着くよね! きっとそれで帰ってくるよ!」

「……そう、だな」


 司は曖昧な表情で笑う。

 私の頭をぐしゃぐしゃっとすると、行くぞと言って私の手をとった。


「つ、司?」

「どうせ朝から何も食べてないんだろ? 今日は俺の家で飯食え」

「そんな、悪いよ……」

「……うちの親がそうしろって。だから、甘えとけ」

「……わかった」


 司に手を引かれたまま、私はとぼとぼと夕日に照らされた道を歩く。

 つい昨日までは、隣を歩いていたのは北斗だったのに……。

 ううん、きっと明日になれば帰ってくる。

 病院に行ってきたよっていつものように優しい笑顔を浮かべて帰ってくる。

 だから、今は待とう。

 きっと帰ってくると信じて……。




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