第2章 居心地のいい場所

第5話 思い出と焦げた卵焼き

 翌日、いつもよりも寝坊した私は、朝からバタバタしていた。朝ご飯はお味噌汁と納豆。それから、作り置きのきんぴらゴボウ。いつもだいたい同じメニューだけど、これ以上品数を増やすことも凝ったものを作る余裕もない。朝は、時間との闘いなのだ。

 できあがったお味噌汁の味見をして、あとは卵焼きを焼くだけ……と、準備をしているといつの間に現れたのか。すぐそばに北斗が立っていた。


「……あの」

「わっ、ビックリした!」

「悪い。……何か手伝うことはあるか?」


 慌ただしい私を見かねて手伝いに来てくれたようだった。昨日のうちにおじいちゃんと服を買いに行っていたのか、北斗はカーキ色のTシャツと細身のジーパンをはいていた。

 こうやって見ると足、長いなぁ。私にも身長わけてくれないかな、なんて思っていると、北斗が怪訝そうな表情を見せたので、慌ててお椀を三つ差し出した。


「そ、それじゃあ……お鍋にお味噌汁入ってるから、お椀に入れてくれる?」

「わかった。……それから、少しぐらい恥じらえよ。まあ、別に見えてても気にならねえけど」

「え? ……っ! もう!」


 北斗の言葉に自分の格好を見た私は、ブラウスに透けるブラに気付いて慌てて近くに置いてあった薄手のカーディガンを羽織った。

 そうだ、そうだった。いつまでになるのかはわからないけど、これからは北斗がいるんだ。……暑くなる頃までいるようだったら、キャミソール一枚では部屋を歩かないようにしなくちゃ。そんな事を思いながら卵焼きを焼いていると、不意に北斗が振り返った。


「そうだ」

「え、なに?」

「言い忘れてた。……おはよう」

「お、はよう」


 律儀に挨拶をすると、北斗はお鍋の蓋を開けた。そんな北斗の横顔を思わず見つめてしまう。

 こんなふうに、自宅でおじいちゃん以外とおはようの挨拶をかわすのはいつぶりだろう。お父さんがいてお母さんがいたあの頃は、朝はいつだって賑やかだった。

 寝坊した私が慌てて食卓につくと、仕方ないななんて言いながら待ってくれてたお父さんと先に食べ始めてるおじいちゃんと、今の北斗のように熱々のお味噌汁を入れて渡してくれるお母さん。

 みんなで囲む食卓が、私は大好きだった……。


「っ……」


 いけない。もう何年も前のことなのに、思い出すと鼻の奥がツンとなってしまう。

 スンスンと鼻をすすっていると、ふと焦げ臭いにおいがした。慌てて匂いのする方を見ると――そこには、黒こげになった卵焼きがあった。


「きゃっ……! た、卵焼き……! 熱っ!」


 慌ててフライパンの柄を掴んだ私は、熱せられていたそれの熱さに悲鳴を上げた。思わず落としそうになるものの、なんとかコンロの上に戻す。その瞬間、北斗の怒鳴り声が聞こえた。


「何やってんだ! 早く冷やせ!」

「い、痛い……」


 そう言うが早いか、北斗は片手でコンロの火を止めながら、もう片方の手で私の腕を乱暴に掴むと、置いてある洗い桶の中に自分の手ごと突っ込んだ。全開にひねられた蛇口からは勢いよく水が溢れてくる。はねた水が北斗のカーキ色のTシャツにかかっているが、気にとめることなく北斗は真剣な表情で冷やし続けてくれる。

 どれぐらいの時間そうしていただろう……。


「もういいかな」

「……ありがとう」

「火を使ってる時にボーっとするな」

「……ごめんなさい」


 手のひらをそっと開くと真っ赤になっているのが見えた。でも、水ぶくれなどは出来ていないようだった。ホッと息を吐くと、隣で北斗も私の手のひらを見ているのに気付き、両手を開きひらひらと見せた。

 そんな私に、北斗はため息をつく。


「卵焼き、俺が焼くからもうちょっと手冷やしてろ」

「でも、そんなの悪いよ」

「いいから」


 てきぱきとお味噌汁の入ったお椀を食卓に並べると、北斗は卵焼きを焼き始めた。

 そういえば前に見たドラマで、記憶喪失にはパターンがあって、一部の記憶だけが抜け落ちている人、全てを忘れて赤ちゃんのようになってしまう人、そして北斗のように自分に関することだけを忘れてしまう人がいると言っていた。

 北斗はどうして記憶をなくしたりしたんだろう。なくしたいほど辛い何かがあったのだろうか……。


「……袖、濡れてるぞ」

「あっ」


 ボーっとしていた私の方を見ないまま北斗は言う。

 慌てて空いている方の手で袖を捲し上げると、よくできましたと言って北斗は笑った。

 多分年はそう離れていないはずなのに、妙に子ども扱いされているような気がするのは気のせいだろうか。


「ね、北斗」

「何」

「北斗っていくつ?」


 試しに聞いてみた私を、北斗は露骨に嫌な顔をする。


「知らない。覚えてない」

「だよねー。私より上かな。司と同じか、もうちょっと上ぐらい? 三十まではいってないと思うんだけどなー」


 今年三十一だと言っていた先輩の姿を思い浮かべながら、北斗の顔をまじまじと見る。

 やっぱり司のちょっと上ぐらいかな? ってことは……。


「二十……七か八ぐらい?」

「そう見えるんならそうじゃないか」

「何それ、もうちょっと考えてよ」

「……考えたって、わかんねえんだから仕方ないだろ」

「あ……」


 北斗は顔を歪める。

 その表情を見て、私は自分の失言に気付いた。

 幾ら北斗が普通にしているからって、自分の記憶を失って辛くないわけがない。私には想像もつかないほどの苦しみがあるだろう。そんなこと言われなくても、少し考えればわかることなのに……。


「ごめん……」


 こんなんだから、子ども扱いされるんだ。

 思わずシュンとなった私の耳に、北斗のため息が聞こえた。

 そして……。


「悪い、そんな気にすることないから」

「……うん」

「手、大丈夫か? 卵焼き焼けたぞ。朝ごはん食べるんだろ? ――明莉」

「っ……!」


 なにごともなかったかのように、北斗はお皿に移した卵焼きを机の上に運ぶ。

 でも、今確かに……。


「明莉って、呼んだ?」

「……なんだよ、明莉じゃないのか?」

「ううん、明莉だよ」


 変なやつ、なんて言いながら北斗はおじいちゃんを呼びに行く。

 ただ名前を呼ばれた、それだけのこと。なのに、なんとなく……ほんの少しだけど、北斗との距離が縮まった気がした。


「なんて顔してるんだ」

「お、じいちゃん」

「さっさと席に座って食べないと、遅刻するぞ」


 時計を見ると、始業まであと四十五分。

 家から歩いて十五分とはいえ、一番下っ端の私がギリギリに行くのはさすがにまずい。


「ヤバい! 早く食べなきゃ! いただきます!」

「いただきます」

「ったく。……いただきます」


 三人で食卓を囲む。

 すると、おじいちゃんが訝しげに北斗の方を見た。


「なんだ、その卵焼き。真っ黒じゃないか。明莉、お前失敗したのを北斗の皿に乗せたのか?」

「え……?」


 見れば、確かに北斗のお皿には真っ黒こげになった……あの卵焼きが乗っていた。

 どうして……。


「お前な、いくらなんでもこういう嫌がらせをするのはじいちゃんよくないと思うぞ。言いたいことがあるならはっきり――」

「違うんです」

「ん?」

「これ、俺が焼いたんです」

「お前が……?」


 おじいちゃんの言葉を遮ると、北斗はそう言った。

 でも、そんなはずがない。その卵焼きは確かに私が焦がしたものだし、なんなら私のお皿の上に乗っているこの美味しそうな卵焼きこそ、北斗が焼いたものだ。

 なのに、どうしてそんなことを――。


「手伝うって言って俺が焦がしたんです。だから、気にしないで下さい」

「……そうなのか? にしても、んなもん新しいの焼いて食べればいいんだ。焦げた卵焼きなんて食えたもんじゃないだろう」

「――次はそうします」


 ふわっと笑った北斗に、おじいちゃんはそれ以上何も言わなかった。

 北斗は卵焼きを口に含むと、おかしそうに笑っていた。

 私が焦がしたんだって言えばいいのに、どうして……。

 真っ黒に焦げた卵焼きを頬張る北斗の姿に、何故か胸の奥がキュッと締め付けられたようになるのを感じた。

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