冬花火

第1話

(1)

「今年はＮ川の花火大会観に行きたいな。冬の花火なんて珍しいしさ」

　以前、知可子がなにげなく漏らしていたのをふと思い出したのは、花火大会が開催される一週間前だった。

『あのさ、今週の土曜にＮ川の花火大会やるだろ？？一緒に行こっか』

『えぇっ、また急な誘いだねぇ』

　いつもより早い時間に仕事を終えた後、電話で知可子を誘ったのは花火大会が開催される三日前。

『勿論、行くに決まってるわよ。その日の仕事は午前中までだし、万が一残業したとしても三時までには終わるから、花火が始まる時間までには充分間に合うもの』

　知可子はけらけら笑いながら僕の誘いを快く応じてくれた。電話越しに伝わる屈託のない笑い声にホッとさせられる。

『よっしゃ、了解。じゃ、四時に知可子のアパートまで車で迎えに行くから、着いたら連絡入れるよ』

『おっけー。じゃ、よろしく』

　約束を取りつけた僕は他愛のない会話を数分続けた後、電話を切った。

　Ｎ川の花火大会は、Ｍ市とＯ町の間を流れるＮ川に架かる、Ｙ橋の上流での花火大会で、一昨年までは他の花火大会同様夏に開催されていた。しかし、昨年は大会当日に発生した台風で中止、その後の振替日まで狙ったかのように新たに発生した台風のせいで、最終的な振替日がなぜか初冬の十一月に設定されたという。そして、今年は始めから夏ではなく、十一月に花火大会が開催が決定していた。

「……知可子、本当にごめん……」

　花火大会の当日、僕は約束の時間から大幅に遅れて知可子をアパートまで迎えに行った。

「いいよ、いいよ、私は気にしてないから。だって、急に休日出勤が決まったんでしょ？？何なら、私との約束なんてキャンセルしても良かったのに」

　車の助手席でシートベルトに手を伸ばしながら知可子は気遣う素振りを見せる。

「うーん……、でも、俺から言い出したことだし。仕事も、まぁ、ギリギリ何とかなるかな、と思ったから……」

「そっか。無理してないならいいけど」

「いや、もう、本当にすみませんでした」

「だからー、気にしないでってば！もう！そんなに気にするんだったらジュースの一本でも奢ってくれればいいよ」

「知可子様の仰せの通りにいたします」

「あはは、何それ。やめてよねー」

　あからさまに拗ねたり怒ったりしてくれさえすれば、僕の気まずさも多少は楽になるというのに。今の知可子が感情的な態度を見せることはほとんどない

「だって、仕事じゃ仕方ないよね」

　僕はその言葉には返事をせずに黙って車を発進させる。

『仕方ないよね』というのは、知可子と付き合い始めた頃――、高校生の頃からの彼女の口癖だった。

　知可子と僕は高校の同級生で高二の時に同じクラスだった。日直の当番が一緒だったのがきっかけで『何となく』交際を始め、かれこれ八年の付き合いになる。　お互いの両親、友人達の間でもとっくに公認の関係だし、特に今年に入ってからは周囲の「そろそろ結婚でも……」という声を耳にするのもしばしば。

　なぜ今年に入ってからなのか。

　知可子は高校を卒業してすぐに地元の印刷会社に就職、事務員として働いていた。かたや僕は大学に進学、地元ではそこそこ有名な中小企業の営業職に就き、ようやく社会に出たのが昨年だったから。

　年齢こそ同じだけど社会人としては知可子の方が四年以上も先輩。一足先に社会に出たせいか、学生ゆえの浮ついた僕の考えや行動に思うところを感じる知可子とよくケンカをしては、何度も別れの危機を迎えた時期もあった。

　でも、いつからだろうか。

　知可子は僕に対して不満を一切ぶつけなくなった。代わりに『仕方ないよね』と呟く回数が徐々に増えていったけれど。

　知可子を迎えに行く時間に遅れてしまったせいで、僕達と同じくＮ川花火大会を観に行くだろう車の渋滞に巻き込まれてしまった。カーナビの液晶画面を確認する。右端のデジタル時計はもうすぐ十八時だと報せてきた。確か、花火の打ち上げが開始されるのは十八時半。

「遼平。少しくらい遅れても私は大丈夫だから」

「でもさぁ、花火の打ち上げ時間は十八時半から十九時までだぜ？？駐車場に車を入れる時間も考えたら……」

　たった三十分の間に約六千発もの花火を一気に打ち上げ、初冬の寒空を光と音とで彩る――、それがこの花火大会の見どころだ。楽しみにしている知可子のためにも最初から見せてやりたいのに。

「この渋滞じゃ仕方ないよ」

　まただ。僕の苛立ちは募っていく。

　口を開いたらひどいことを言ってしまいそうだから、僕はまた知可子の言葉を無視した。隣で知可子が少し疲れたように小さく息を吐きだす。

　元来、互いにお喋りが得意な質じゃない。車内がしんと静まり返ったまま、少しずつ車は前へと進み出す。

「ねぇ、遼平。提案があるんだけど」

「何？？」

　前に並ぶ車のテールランプに目を細めながら、ぶっきらぼうに答える。

「時間が遅れるのが気になるなら、何も会場まで行かなくてもいいよ。例えば、Ｍの屋上に車止めて花火見物してもいいし……」

「…………」

　Ｍとは、この国道沿いの途中にある、県下有数の巨大ショッピングモールだ。

「Ｎ川の近くで花火を眺められるのに越したことはないけど……。でも、Ｍからの眺めも中々のものだって会社の先輩も言ってたんだ！だから……」

　知可子は僕の顔色を窺ってか、わざとらしい程の明るい声色で話を続ける。その様はいじらしいと言うよりも、いっそ痛々しい。

　僕は逡巡しながらひたすら前を見続ける。前に並ぶ白いキューブはＫナンバー、一〇年前に万博が開催されたことで有名な街の名前。隣の県から、わざわざこんな田舎までお越しとはご苦労様なことで。これで間に合わなかったら悲劇だよな、なんて、他人事ながら心配してしまう。

　だけど、見ず知らずの他人の心配なんかしている場合じゃなく、自分達のことを考えなければ。

　予定通り会場に向かうなら二つ先の信号で左折しなきゃならないし、Ｍに向かうのなら、このまま直進しなきゃならない。

　時間に遅れてでも間近で花火を見るか。遠目でも最初からゆっくり見るのか。

　考えた末、僕は次の信号で結論を出した。

(2)

　Ｍの屋上駐車場の西側には、花火見物目当てらしきカップルや家族連れの車が何台か止まっていた。簡易式の折り畳み椅子に座って花火の打ち上げを待っていたり、フードコートで買ってきた飲食物を飲み食いしつつ車内から空の様子を眺めているので一目瞭然だ。

　花火の打ち上げ開始時間まで少し間があった。知可子を車内で待たせて、駐車場所から一番近い入り口の自販機まで飲み物を買いに走る。

「はい」

「ありがと」

　小花模様が散ったパッケージが貼り付けられた、ミルクティーのペットボトルを知可子に手渡した。手渡す際に触れた知可子の指先は氷のように冷え切っている。

「寒いんだろ？？暖房でも入れようか？？」

　十一月初旬とはいえ、夕方から夜に時間が経つにつれて空気がぐっと冷え込んでくる。気持ちの問題かもしれないけど、僕と知可子が住むＨ市と比べて北寄りのＭ市の方が若干気温が低いように感じる。

　知可子はペットボトルをぎゅっと握りしめていた。けれど、プラスチック越しから伝わる熱で指先を温めながら、ゆっくりと頭を振る。僕は無言で缶コーヒーのプルトップを空けて一口だけ飲んだ。生温いコーヒーの味は僕の苦い気持ちに拍車をかけていく。

　最後くらいは、知可子に気を遣わせたくなかったのに。

　知可子と別れたい。

　いつからか、僕の中でその想いが日増しに大きく膨らんでいた。

　知可子に嫌気が差してきた訳でも他に好きな子ができた訳じゃない。ましてや、仕事を優先したいとかでもない。そもそも、これといった決定的な原因なんて一つも浮かんでこない。

　長すぎる付き合いによる倦怠期、否、単純に飽きてしまっただけ？？それもまたいまいちピンとこない。

　ただ、『何となく』そう思い始め、『何となく』の比重が大きくなっていった、としか言えない。

　思えば、知可子を好きになった理由も『何となく』一緒にいる機会が多くて『何となく』気になり始めて……、と、これと言った明確な理由などなかった。

　付き合い始めの頃、知可子の友達から知可子を好きになった理由を訊かれ、『うーん、何となく……』と答えてこっぴどく怒られたことがあったっけ。

　あの時は自分がひどくいい加減な奴に思えて自己嫌悪に陥ったけど、人を好きになったりするのに、いちいち細かい理由など必要なのだろうか。

　好きか嫌いか、一緒に居たいのか居たくないのか。

　男女の交際だけじゃなく友人関係だって、突き詰めればたった二つの感情の元で成り立っている。同じように、別れる理由だって――

　嫌いになった訳ではない、けど。

　近頃は知可子と一緒にいると『何となく』苛々することが増えてきている。

　理由なんて、これで充分じゃないか。

「あっ！始まったみたい！！」

　知可子が小さく叫ぶと同時に、ひゅるる、と音を立てて無数の細い線状の光が地上から西の空に向かって飛んでいく。空高く舞い上がった光は、パン、パンと弾けるようにして、赤、青、緑、ピンク……と様々な色の大輪の華を次々と咲かせた。

「ねぇ！せっかくだから、外に出て花火見ようよ！」

　えっ、寒いじゃん？！と躊躇う僕に構わず、知可子は車のドアを開けて外へ出る。仕方なく、彼女について車外へ出て行く。

　空を見上げれば向日葵や薔薇の花、ハートの花火が冬空に彩りを添えている。

「凄いねぇ……。花火は夏の風物詩ってイメージだけど、乾いてても澄み切った空気の冬の空だと、一段と華やかに見える気がするよ」

　駐車場の壁に両手を添え、知可子は食い入るように空を見上げている。僕も同じように壁際まで移動し、咲いては一瞬で消えていく花火を黙って眺める。コンクリートの無機質な冷たさが指先をじんと冷やしていく。

　寒さに震える僕達になどお構いなしに、休む間もなく花火はどんどん打ち上げられていく。

　空高く開花した後、花弁が一枚一枚はらはらと落ちて行く様を表すように残り火が四方へ飛び散っていく。完全に消えたかと思えば残り火がキラキラと星のように瞬き、その中心にアンドロメダ星雲の花火が打ち上げられた。

　花火で作られていく小宇宙に、知可子は光に負けないくらい目を輝かせて一心に見入っている。そんな知可子の姿を、彼女に気付かれないように僕は横目で見つめていた。

　いつになく楽しそうな彼女に、僕はこれから残酷な台詞を突きつけようとしている。

「……あのさ、知可子……」

「あっ、遼平！あれ、見て見て！！」

　すっかり興奮している知可子が指を差した先――、地上から空へと虹を架けるように、七色に輝く直線状の仕掛け花火が川沿いから打ち上げられた。その真上では雪の結晶や流星が降り注ぎ、更に上空では一際大きな、赤や橙色の菊の花が。僕も思わず息を止めて空を見上げた。

「綺麗だねぇ……」

　うっとりと目を細め、感嘆の声を漏らす知可子の横顔。

　夜の冷え込みも憂鬱な気分も忘れてしまう程に美しい花火の競演。

『何となく』、僕は今日のことを一生覚えていたい、と思った。

(3)

「そう言えば、さっき何か言いかけてたよね？？何だった？？」

　さっきまでのはしゃぎ振りとは打って変わり、知可子はいつもの落ち着いた口調で話しかけてきた。

「えっ？？あぁ……、何だったっけかな……。花火があんまり綺麗だったから忘れた」

「えぇ、何それ」

　唇を尖らせながらも笑う知可子に、僕はこれ以上言葉を続けることができない。　『何となく』、今はまだあの言葉を言うべき時じゃない気がする。

「そろそろ花火も終わりだし、何か食べてから帰ろうか。どこで飯食う？？」

　頭を切り替えるべく僕はあえて明るく振る舞ってみせる。

「そうだなぁ……、どうしようかな」

「とりあえずさ、寒いから建物の中に入ってから考えようぜ」

　何が食べたいか思案する知可子にと急き立て、僕は入口へと歩いて行く。

　ちょっと待ってよ、と、小走りで追いかけてくる知可子に、早くしろよな、と言いながら、僕は自動扉の前で彼女を待ったのだった。

(了)