第四幕 この国が戦争に導かれる時 Ⅰ
東京都目黒区駒場四丁目 的場邸
令和五年十月六日(金)午前七時
「――ちゃま。……お坊ちゃま――」
ん? 聞き慣れないこの声は……誰のものだろうか。
「……お坊ちゃま、お目覚めの時間でございます」
「あ……おはようございます、杉原さん」
少し疲れた杉原さんの声に、まどろみから引き戻される。布団から顔を出すとそこは女中部屋で、窓の外にはどんよりとした曇り空が広がっていた。
どうして女中部屋にいるのかと一瞬混乱したが、先輩の部屋が破壊されたため部屋を借りたのだと思い出した。
『お坊ちゃま、いま追撃するのは危険です。お嬢様を奪還するのは、態勢を立て直してからにするべきです』
昨日の夜、酒呑を追おうとした俺をそう言って止めたのは、他ならぬ杉原さんだった。今にして思うと、俺も的確な判断だと思う。やはり彼女は経験豊かで頼りになる人だった。
その杉原さんはいつのまにか見慣れないドレスに着替え、消毒液の匂いをうっすらと放っていた。
「よくお休みになられましたか?」
「ええ。本当はこんなことしてる場合じゃありませんけど……これからどう動くにしろ、疲れが残ってちゃ話になりませんしね」
先輩が酒呑に
「徹夜、お疲れ様です。杉原さんに弾丸摘出の経験があって助かりました。先生の意識は戻りましたか?」
「はい。ついさっき目を覚まされたので、あとは人造戦鬼の回復力でなんとかなると思います」
「良かった。ところで杉原さん、あのメイド服は?」
「残念ながらあの服は、昨日の戦いで……ですが今はお家の非常時、『欲しがりません勝つまでは』でございます」
メイド服の最期を思い出して万感胸に迫ったのか、杉原さんはキュッと唇を噛んだ。何だかんだでけっこう気に入ってたんだな、あのメイド服……
「で、そのドレスはどうしたんですか?」
「こんなこともあろうかと、官舎から持ち出した陸自の第二種礼装です。お客様がいらっしゃった時、失礼があってはなりませんので」
それは官品横領でしょうと突っ込みたくなりましたが、それは置いておきます。確かに似合っていてカッコいいんですが……どう見ても家政婦の格好じゃないと思います。
――と。俺が布団から出ようとした時、杉原さんの後ろにヌッと的場先生が現れた。
「すまん杉原、血が足りん。朝食をフルコースで仕度してくれ」
「! び、ビビった……」
……正直、心臓に悪いので勘弁して欲しい。驚いて振り返った杉原さんが、慌てて先生をいさめる。
「旦那様、まだ起きられては……」
「問題はない、私とて人造戦鬼の端くれだ。朝食を済ませたら、佳奈子奪還の作戦会議を開くぞ」
和服の襟もとに覗く包帯が痛々しい。ところどころが血に黒く染まっているが、どうやら傷は一応ふさがっているらしかった。
「すみません、先生。負けたのは俺の責任です」
「気にするな。それは、ここにいる全員の責任だ。戦ったのは、貴様だけではないのだからな」
――確かに、思い上がりもいいところだ。俺は少し、恥ずかしくなった。
「杉原。学校に私の欠勤と、子供らの欠席を連絡しておくように。私は寝室で仮眠を取っているので、食事ができたら起こしてくれ」
「かしこまりました」
女中部屋を先に出ようとした先生が、思い出したように足を止める。
「……ああ、それと」
「何でございましょう、旦那様?」
杉原さんの返答にも、先生は振り返らない。照らいをにじませた声で、その背中が告げる。
「……二人とも、感謝するぞ。おかげで命拾いをした」
そう残して、先生は寝室へと戻っていく。その姿を見送る杉原さんは、どことなく柔らかい表情を浮かべていた。
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