第三幕 組織の掟 Ⅹ

 日付が変わろうとするころ、佳奈子先輩はアクビをしながら自室へと戻っていった。

 俺も頃合いを見計らって、女中部屋を出て先輩のところに戻ろうと思ったのだが――、

 俺はありのまま、いま起こったことを話そうと思う。


『先輩の部屋に戻ろうとしたら、いつの間にか杉原さんに押し倒されていた』


 何を言っているのか分からないと思うが、俺にも何をされたのか分からない。頭がどうにかなりそうだった。

 俺が押し倒されたのは、杉原さんが蛍光灯けいこうとうを切ったのと同時だった。明かりを消してくれた配慮に一瞬だけ武士の情けを期待したが、杉原さんは無情にも俺の唇を奪い、先輩とは違う味の唾液を口の中に注ぎ込んできた。

「ん……っ、ぷは! す……杉原さん、何を……。お、俺には先輩が……」

 上に乗っかられたまま、抗議の声を辛うじて漏らす。だが杉原さんは耳を貸すこともなく、俺の頬に両手を添えてじっとりと見下ろしてきた。

「ちょ……ちょっと……」

「わたくしは先ほど、お坊ちゃまに『男女のことわりを教えろ』と旦那様から命じられました。これからは、楽しい『しつけ教育』のお時間です」

 え……まさか、さっきの耳打ちが……。というか、的場先生にまで分かるほど俺は童貞っぽいのだろうか。

「く、くっ……やめてください、杉原さん。初めては、どうしても先輩のために……」

 逃れようと必死で暴れるが、杉原さんは俺を逃がすまいと両肩を押さえつけてくる。心臓がバクバクと脳に血液を送り、意識をまともに保てないほど俺を混乱させた。

「ふふ、強がっておられますね。本当は欲しくてたまらないのでしょう? ……お坊ちゃま、何も恐れることはありません。天井のシミを数えている間に終わります。一人前の男になって、お嬢様をしっかりお守り申し上げるのです。すぐ終わりますので、しばらくご辛抱しんぼうくださいませ――」

「考え直してください杉原さん。そんなことをしたって誰も得しません。こういうのは太宰だざいの小説だけでたくさんです」

 先輩が来たら俺の人生が光速で終了するので、声を抑えたまま強めの口調で説得を試みる。だが杉原さんは俺が大声を出せないと分かった上で、非情にも最後の宣告を下した。

「今日からは旦那様が、わたくしのです。たとえお坊ちゃまの頼みでも、旦那様のご命令に背くことは致しかねます」

 目がガチだ……う、的場家うちのメイドがヤバすぎる……。

 杉原さんの厳格なプロ意識が、今はただ憎たらしかった。闇に慣れた目が、うっすらと桃色に染まった杉原さんの頬を捉える。そして杉原さんは左手で俺の口をふさぐと、右手の指先を俺のズボンのジッパーに伸ばし――、


 その時だった。ガラスの割れる音が響くと同時に、屋敷の空気がきしみ上がったのは。


「!」

 行為を中断し、杉原さんがサッと立ち上がって俺から離れる。そして彼女は、部屋の隅に置かれていた太刀の鞘を掴んだ。

「お静かに、お坊ちゃま」

 先輩の部屋のほうから、的場先生の怒号と銃声が聞こえてくる。ほどなくして、屋敷全体の電気が一斉に切れた。同時に、杉原さんの目がへと様変わりしていく。

「……こいつは……?」

 泥のようによどんだ気配が、屋敷の隅々まで満ちあふれている。立ち上がって問いかける俺に、杉原さんは冷静な声で告げた。

「状況、敵襲。この気配はわたくしたち以外の人造戦鬼……すなわち零号でございます。杉原たかね、現在時をもって要撃ようげき行動を開始します」

 零号……? まさか人造戦鬼が結集しつつあることを察知して、この屋敷を襲ったというのか?

 もしそれが本当なら、俺も黙って待っているわけにはいかない。俺がそう判断すると同時に、杉原さんはスカートをひるがえして女中部屋の出口へと向かった。

「ちょ……っ、杉原さ……」

「お坊ちゃまは、そこでお待ちくださいませ」

 抜刀して鞘を投げ捨てると、杉原さんは足音を忍ばせて二階へと駆け上がっていく。銃声はいまだ、そのリズムを止めず弾け続けている。

 ――どうするべきかは、考えるまでもない。その音が聞こえてくるのは、先輩の部屋のほうからなのだ。

 俺は拳を握って気合いを入れると、杉原さんの後を追って走り出した。

 鬼の力のおかげだろうか、明かりが失われても屋内の状況はよく見渡せた。どこから入り込んだのか、金色のコウモリが屋敷の中を縦横無尽に飛び回っていた。

 短い階段を上がった先、二階の広い回廊かいろうには生ぬるい夜風が渦巻いている。回廊をまっすぐ突き当たって右に曲がると、先輩の部屋はロビーを越えた正面だ。

「っ! 旦那様、しっかり!」

 俺に先んじて二階に上がっていた杉原さんが叫びを上げる。見ると、突き当たりの壁には血まみれの的場先生が寄りかかっていた。

「こ……んの……ど畜生ォ!」

 先生は自動拳銃を先輩の部屋に向けて乱射している。――幸いにもそれで、敵の所在がはっきりと分かった。

 銃口から生じる硝煙しょうえんと、先生の傷口から立つ再生の煙。それらに隠されて、先生の表情はよく見えない。だが、先輩の部屋のほうでも銃器が火を噴いているのが分かった。

 数秒もせずに残弾が切れ、先生は敵の銃弾を一身に受けて崩れ落ちる。壁には黒い血がべったりとこびりつき、先生の手から拳銃がポトリと落ちた。

「う……ぐ、っ……」

「ははは、素晴らしい! 音高らかなこの響きこそ、死と流血の飾りだッ!」

 金のコウモリが飛びかう中、敵の高笑いが屋敷を揺らす。先生が意識を失った次の瞬間、とどめとばかりに弾幕が先生を襲い――、


「旦那様ああっっ!」

 ――寸前、敵と先生の間に突風が割って入った。


 常人を遥かに超越した速度で、杉原さんの太刀が跳ねる。

 火花を散らしながら次々と斬り払われる弾頭。破片が杉原さんを傷つけたが、影に隠れた的場先生は無事だ。

 杉原さんは傷ついた身体をかえりみようともせず、敵をにらんで太刀を正眼に構える。メイド服の白い部分は、杉原さんの黒い血でまだらのように汚れていた。

「先生っ!」

 俺はその好機こうきを逃さず、気絶した先生を敵の死角へと引きずり込んだ。そして、杉原さんの後ろに控えるように身体の位置を変える。

 ここに来て初めて、俺はロビーの向こうの人影――人造戦鬼零号を目の当たりにした。

 俺は今まで、血に飢えた殺人鬼というイメージを零号に抱いていた。だがそれは先入観に過ぎず、零号の姿は俺の予想とは正反対だった。

 奴はおよそ人造戦鬼らしからぬ夜会の出で立ちで、しもべとおぼしきコウモリを周囲にはべらせていた。

 端整な顔立ちをしたその青年は、長身を包む燕尾服ホワイトタイを夜闇に浮かべている。かっちりと固められたオールバックからは、何やら高そうな整髪料の香りがただよってきている。

 そして――奴の後ろのベッドでは、ぐったりと目を閉じた佳奈子先輩がシーツの上に沈んでいた。

「せ……先輩っ!」

「やかましいわ、小童こわっぱ。しばし黙っておれ」

 威嚇いかくのつもりだろうか、俺達に再び銃弾の嵐を浴びせる零号。だが全ては無駄とばかりに、杉原さんはそのことごとくを斬り伏せた。

 零号の手には、円盤型の弾倉がついた短機関銃が納まっている。銃身のまがまがしい質感が、俺の背筋に冷たいものを感じさせた。

「――ふん。さすがに芸が足らぬか」

 澄んだ声で言い捨て、零号は短機関銃を背後に放り投げる。周囲を旋回していた数匹のコウモリが銃を受け止め、跡形もなく破壊された窓から外に飛び去っていった。

「貴様……たかね、か?」

 なかば確信したような口調で、零号が問いかけてくる。対する杉原さんは体中から再生の煙をのぼらせながら、挑むような声で言葉を返した。

「! 貴様、やはり? ――米軍お下がりのトミーガンに、自由射撃弾フライクーゲルか。貴様にそいつを持ち出されて、防衛装備庁は大迷惑だったぞ」

「仕方あるまい。研究所の資料を確認したが、現時点で人造戦鬼に最も有効な飛び道具は自由射撃弾だ。そのような代物を敵地に残しておくほど、小生しょうせいは自信家ではない」

「違いない、的確な判断だ。……それと零号よ。自分を下の名で呼ぶな。その名を呼び捨ててよいのは、貴様に魂を食われた男だけだ。貴様と同じ姿をした関東軍軍医、北川小五郎ダーヒンニェニ・ゴルゴロだけだ!」

 喉を絞って叫ぶ杉原さん。時を同じくして金のコウモリが屋敷の外から飛来し、零号のもとに抜き身の太刀を届けた。

「……それは失敬した、杉原参謀。しかし、八十余年経っても変わっておらんな。貴様の阿呆あほ面には、心底うんざりさせられる」

愚弄ぐろうするか、貴様……」

「自覚はあるようだな。さて、小生の得物えものが届いた。延長戦と洒落シャレこもうではないか。――小生はこの家の娘に、ちと用があってな。少々手荒い訪問になったが、許されよ」

 零号の言葉はまぎれもなく、これから佳奈子先輩を盗んでいくという宣言だった。

「――この反逆者め。いやしくも国宝を奪い、自らの得物とするなど。恥を知れ!」

 国宝……つまり零号の持つ太刀が、東京国立博物館から盗まれた童子切安綱どうじきりやすつなか……

「お坊ちゃま、ここはわたくしにお任せください。たとえ鬼の力を覚醒させたとしても、丸腰では零号に太刀打ちできません」

 制するように杉原さんが言う。そこで、俺は姉貴に託された大石丸が手元にないことに気付いた。……しまった、あれは先輩の部屋に置いたままだ――!

 俺の歯ぎしりを背に、太刀を構え直す杉原さん。彼女はロビーを挟んで立つ零号をにらみつけ、戦国武将のように名乗りをあげた。


「家人の危急ききゅうをお救い申すは、使用人たるの務めなれば! 我が名は的場邸家政婦長、杉原たかねであるッ!」


 凜と立ち、一歩も引かずに零号と対峙たいじする杉原さん。その姿を俺は、ただ美しいと思った。

「その武器を捨てろ、零号。そして、お嬢様を残してこの場を去れ。さもなくば運命きさま証文いのちは、この場で自分が貰い受ける。全身全霊をもって、貴様の首をちぎり取ってやる――」

「断る。引いた弓を収めるのは、それを放つより遥かに難しい。それと、一つ教えておこう。兄より優れた弟妹ていまいなど、もとより存在しないのだと」

 ――ほざくな、と杉原さんが太刀の柄から左手を離す。その意図は分からなかったが、このまま敵を逃がすつもりは毛頭ないと背中が語っていた。

 彼女は右手に持った太刀の切っ先で、敵をまっすぐに見すえる。そのままゆるりと腰を落としながら、弓を引き絞るように右手を構えた。

 左の指を物打ちの峰に添え、刀身を水平に倒す。息を止める気配に、肌を刺すような闘志が続いた。

「零号よ、こうして手合わせするのは初めてだな――」

 言って、杉原さんは身体を深く沈め、


「でやああああッ!」


 怒号と共に疾駆しっくし、必殺の一撃を繰り出した――!

「チェストオオォッ!」

 杉原さんは身も世もない叫びをあげながら、零号への距離をどんどんと縮めていく。そして地を這うような低い姿勢で、零号の胴体めがけて刺突を繰り出した。

 対する零号も手にした太刀を振るい、切っ先の道筋を横にそらす。だが杉原さんはすぐさま体勢を立て直し、踏みとどまって嵐のような連撃を放った。

「ふ――っ」

 まるでその全てが児戯じぎであるかのように、零号は軽々といなし続ける。そして杉原さんのスキを突き、踏み込みながら袈裟斬りの斬撃を仕掛けてきた。

「っ!」

 迎え撃つ杉原さんの一撃。散らす火花の一騎打ちは、つばぜり合いの構図で膠着こうちゃくした。

 歯をギリギリと噛み、敵をにらむ杉原さん。そんな彼女に、零号は甘い声でささやいた。

「――貴様は男の目を楽しませるのが上手だ、。女中服のスカートが暴れておったぞ?」

「ッ! 貴様、その名は呼ぶなと……」

「忘れたな、そのようなことは!」

 わずかに動揺した杉原さんを突き放すように、零号が太刀を押し返して後ろに飛ぶ。とっさに杉原さんが放った一撃は、やすやすとかわされた。

 着地した零号がまっすぐ向けた切っ先に、杉原さんの頬を冷や汗が伝う。傍観している俺にも、零号の放つ殺気が怒涛どとうのように伝わってきた。

 ――力量の差は歴然としている。これでは正直、勝負にすらならない。その感触を裏付けるように、零号が見下したような声で笑いかけた。

「たかね、喜べ。これより小生が、闘争の根幹を教育してやろう」

「ふん……世迷い言を」

 焦りを隠さぬ杉原さんの声を無視し、零号は息を止めた。

「――いざ」

 刀が揺れると同時に、敵の体が虎のように弾む。

 雄叫びに闇を焼きつつ、床を蹴って迫り来る零号。

 あざやかな剣筋がうなり、裂けた空気が高く鳴った。

「ッ――! この杉原、いかなる敵であろうと退きはせんッ!」

 杉原さんも果敢に突進し、応えるように太刀が翔ぶ。

 ひるがえるスカートに、槍のごとき殺気が乗った。

 ここに至ってもなお、勝負はまだだとばかりに。

「は――!」

 斬り結ぶ視線。刻まれた白銀の軌跡が、漆黒の夜気を飾る。

 二振りの太刀は、ちょうど引き合う磁石を思わせて――、

「身のほどをわきまえろ、たかねえッ!」

「く、っ――!」

 鋼の弾けるいくつもの音にまがえ、繚乱りょうらんたる火花が咲き乱れた。

 零号の眉間を揺るぎなく見すえ、杉原さんは瀑布ばくふを思わせるつるべ撃ちに応じている。

 だが、技量ぎりょうのへだたりはやはり大きい。防御しきれなかった太刀筋が、杉原さんの肉体を容赦なく削り取っていく。立ち上る白い煙に、苦しげな杉原さんの息遣いが混じった。

 ……それを目の当たりにして、俺の身体がカッと熱くなる。このままでは、零号が俺ともども彼女を始末することは目に見えている。そして恐らく、先輩は奴の巣に連れ去られて――。


「零号! お前の相手は俺だ!」


 ――意を決し、場を割るように叫んだ。丸腰のまま叫ぶ俺に、零号はちらりと視線を送る。そしてあろうことか、自ら攻撃を放棄して大きく後退した。

「ッ! おのれ零号、臆したか!」

 なおも追撃を試みようとする杉原さんに、俺は強い口調で叫んだ。

「だめです杉原さん! ……今のあなたでは、零号に勝てません」

 俺の言葉に、杉原さんの動きがぴたりと止まる。

 二者の剣劇に幕が下り、沈黙が舞台を打った。

「――杉原さん、今は退いてください。後は俺が引き受けます」

 有無を言わせぬ俺の口調に、杉原さんは驚いた顔で振り返った。

「お、お坊ちゃま……いったい……?」

「おとぎ話の時代から、とらわれの姫を助けるのは男の役目です」

「ですが――」

「俺は、力の限り先輩を守り通すと約束しました。これは男の意地の問題です。やらせてください」

 意志を込めたまなざしで、杉原さんを固く見つめる。

「――了解」

 俺の思いをくみ取ったのか、彼女はそれ以上反論せず俺の横につく。離れて立つ零号は、そんな俺達をあざ笑うかのように冷たく見下ろしていた。

「小童。貴様、名はなんと申す」

「牧原潤だ。悪いが、お前に佳奈子先輩を渡すわけにはいかない」

「佳奈子? そうであったな、確かそのような名前が二号の資料にあった。それがこの時代における、いばらの名か」

 零号はなぜか先輩を聞き慣れない名で呼び、俺にまっすぐ顔を向ける。

「貴様からは同族の匂いがする。貴様、鬼の血を引いているな?」

「……だとしたら?」

「同族には礼を尽くさねばならん。その本性を、今ここで開放せよ。茨を巡り、正々堂々の一騎討ちを申し入れたい」

 この身はもとより、先輩に救われた身。ならば俺には、命を賭けて先輩を守る義務がある。いや、義務以前に、俺は先輩を失いたくないと思っている。

 ――いいだろう、望むところだ。情けも迷いも知らず、ただ立ちふさがる一切合切いっさいがっさい殲滅せんめつすればいい。

「零号。その心遣い、痛み入る。いざ、尋常に勝負!」

 時計を巻いた右の手首が熱くうずく。思考が止まり、脳みその血管がぶち切れそうになる。それを認識した瞬間、俺の体は杉原さんに教わったプロセスを実行に移した。

鬼力きりょく!」

 固く握った左手を脇腹につけ、半開きにした右手を右斜め前に掲げる。腕時計の長針がうなりを上げ、風車のように回転を始めた。

 自らの身体に流れる鬼の血に、神経を集中する。手首から腕へ、そして身体全体へ――

 ほとばしる殺意の峻烈しゅんれつに、視界が赤く染まる。肉体の中に渦巻く血が、俺の神経を人外のリズムへと調律していく。

 右手を引きながら拳を握り、両腕を胸の前でXの字に交差させる。

超纏神ちょうてんしん!」

 気迫を込めて叫び、クロスした両腕を大きく割り開く。腕時計の文字盤が光ると同時に四肢が変化を始め、人外の力が筋肉にみなぎり始めた。

「ぐ、おおおお!」

 昨日とは比べものにならない感覚に、俺は思わず咆哮ほうこうする。服の袖とすそが破れ、四肢がめきめきと固く膨らんでいく。心なしか、全身の骨格も形を変えつつあるようだ。

「く――」

 ひとしきり体の変化が終わり、慣れない感覚に思わず膝を屈する。だが、こんなところでへばるわけにはいかない。気合いを入れて立ち上がると、杉原さんが自らの太刀を渡してきた。

「ご武運を、お坊ちゃま。わたくしは影ながら、お坊ちゃまを応援しております」

「……あ、ありがとうございます……」

「では、わたくしは旦那様の介抱を」

 杉原さんはそれだけ言って後ろに下がり、的場先生を抱えて先生の寝室に向かった。あとには俺と零号だけが残される。零号は変わり果てた俺を満足そうに眺めると、流れるような声で告げた。

「小生の要望が聞き入れられたことに、謝意を示したい。――では始めようか」

「ああ。だがその前に訊いておきたいことがある。……なぜお前は、目覚めたあと人々を襲った? 見たところ、暴走しているようには見えない」

 そう。それだけが俺には不思議だった。東京の各地で残虐な食人を繰り返す『未確認生命体』と目の前の男が、どうしても重ならなかったのだ。

 対峙する零号は、少しだけ考え込む素振りを見せると俺の質問に答えた。

「これはなことを問う。小生にとって人肉とは、あくまで活動に不可欠な食糧でしかない」

「な――」

「知らぬなら教えてやろう。消化器系に根本から手を加えたからこそ、『人造戦鬼零号』は一号以下とは別次元の出力を誇っておるのだ」

 言葉が出てこない。どんなとんでもないことを奴が言っているのか、一瞬では理解できなかったからだ。

「およそ兵器とは、製造と維持を一体として設計されるものだ。その意味で小生は、食らうべき敵兵がいた当時なら、維持しうる兵器だっただろう」

 やっとのことで気を取り直した俺は、絞るように問いを発した。

「……、と言ったな」

「さよう。関東軍上層部は支那シナ事変が収拾し次第、『エサ』が途切れた小生を始末する予定だったらしい。もっとも小生の『暴走』を目の当たりにして、一号以下では考えを改めたようだが」

 ……なるほど。零号暴走の教訓から、一号以下はエネルギー源を変更して出力を落としたわけだ。

 こいつのエネルギー源が人間ならば、こいつは何が何でも打倒しなければならない邪悪な存在だ。俺は人間として、こいつの生存を決して許さない。それが――俺の正義だ。

「……もう一つ訊く。的場邸を襲い、先輩をさらう目的はなんだ?」

「目的、ではない。これは貴様らが平安と呼ぶ時代からの因果だ」

「因果だと?」

 さよう、とうなずく零号。

「我が真意は別にある。この国に今も生きる同族の力を集め、この国を我らの国に、即ちは阿鼻叫喚あびきょうかんの地獄に作り替えることだ」

 なんだと……? この国には警察だって自衛隊だって、在日米軍だっている。それなのに、彼らを敵に回して戦争を始めるだって……?

「お前……正気か?」

「無論。当世とうせい雑兵ぞうひょうとも幾度か交戦したが、まるで気概が足らん。連中には、合戦の作法をじっくりと教育する必要がある」

 その声に、冗談の色は少しもうかがえない。

 ――間違いない。この男は、本気でこの国を制圧しようと考えている。それがどんなに苛酷な挑戦か、分からないわけもないだろうに。

 動揺する俺を尻目に、零号は続けた。

「それと。先ほどから貴様らは小生を零号と呼んでいるが、以後は謹んでもらいたい。――我が名は酒呑しゅてん。かつてみやこ恐懼きょうくの渦に叩き込んだ、魑魅魍魎ちみもうりょうの王である」

 ――ああ。その言葉を聞いて、やっと分かった。

 この男の目は今ではなく、千年前の夢を追い続けている。奴は幸運にも得た第二の生で、果たせなかった悲願を成就しようとしているのだ。

 確かに、この男の野望は人々にとっての脅威に他ならない。だが俺は、一点の曇りもなく夢を追う奴の姿勢に、一種の敬意を覚えた。

 いいだろう。それがお前の信念であり、願いであると言うのなら……、


 俺が守るべき礼儀はただ一つ。

 


 脳裏を占めたのは、それだけだった。全ての逡巡しゅんじゅんが焼け落ち、感情が沈んでいく。

 これで、俺が従うべき正義がはっきりした。決死の戦意を込めて、俺は零号――否、『酒呑童子』をにらみ付ける。

 視線の刃が交差し、しのぎを削る。一歩踏み出せば最後、この場所が俺と奴との戦場となる――!

「――ふ」

 何がおかしいのか、酒呑は口元に忍び笑いをこぼした。

「小童。貴様は同族ながら、あたかも生娘きむすめのように美しい。我が稚児ちごとして、側室そくしつに迎えてやってもよい」

「な――」

 からかっているのか、と言おうとしたが言葉が出なかった。

「小生の軍門に下るのなら、ぜいの限りを尽くした暮らしを与えよう。悪い話ではあるまい?」

「ふざけるな! 何か勘違いしているようだが、俺は人間の側に立っている。断じてお前達の側じゃない!」

「――そうか。もう少しは頭が回るかと思ったのだが」

 太刀を揺らし、切っ先で俺をにらむ酒呑。そして、奴は膝をゆるく落とし――、

「ならば消え去れい! 人間崩れの小鬼めが!」

「!」

 酒呑の体が飛び、鋭い斬撃を繰り出してきた。

 稲妻のような一撃を、一瞬の判断で受け流す。あまりの力に腕がしびれ、身体が思わず後退した。

「ぐ――!」

 自身の声に色はない。平常心がきしみをあげ、凍っていた恐怖が鎌首をもたげる。

 ……まだだ。この程度の反射神経では、とうてい戦えない。

 感覚で分かる。俺の本当の力は、こんなものではないはずだ。

 さあ目覚めろ、鬼の血よ! ここで男を見せずに、どこで見せるというんだッ!

「るあああッ!」

 なりふり構わず、返す刀を打ち込む。死力を尽くした剣撃に華が咲き、夜にかおる。だが唇に笑みを散らした敵は、反撃を歯牙にもかけず全てさばいた。

「話にならんな、小童。貴様、それで茨を守るつもりか? 貴様が秘めている力は、そんなものではない筈だ! 全力で参られいッ!」

「黙れ、黙れえ!」

 走る刀には、叫ぶ声さえ追いつかない。俺は真っ白な頭で、矢継ぎ早の攻撃を振るった。

 二本の太刀が火花を散らし、幾度も絡み合う。常人ではとうてい避けられない鋼鉄の応酬に、俺の思考が熱く煮立っていく。

 ――そのとき。心なしか、酒呑の速度が鈍った。不可視に近かった敵の太刀が、はっきりと像を結び網膜もうまくに落ちる。

 ならば今はただ、俺をせき立てる熱に身を任せて――

「その首もらったぁッ!」

 酒呑の太刀を上に弾き、首を狙って一撃を放つ。だが……一瞬の差で、振り下ろされた奴の刃がまさった。

「っ……!」

 とっさに床を蹴り、後ろに飛ぶ。頭部をえぐる熱い衝撃に、体のバランスを崩した。

「! シクった――!」

 仰向けに倒れ込んだ俺は、慌てて体勢を直そうとする。だが時すでに遅く、接近していた酒呑の切っ先が俺の喉に突きつけられていた。

 額からわき出る白い煙が、視界をかすませる。……血がつたい落ちる感触に、紙一重の差で頭を割られずに済んだと知らされた。

 俺は倒れたまま、しゃがみこんだ酒呑の整った顔を固くにらむ。何がおかしいのか、奴はクツクツと愉悦ゆえつに喉を鳴らしていた。

「可愛いものだな、小童! 少し甘い顔を見せれば、すぐに調子づいて踏み込んでくるとは!」

「なに――!」

「この状況で、まだ減らず口を叩くか。――たまらんな、その闘志! その気概! ますます配下に欲しくなったぞ!」

 酒呑は俺の右手から手荒く髭切を奪い、俺に一瞥いちべつをくれて立ち上がった。

「……何を考えている? とどめを……刺さないのか?」

「今の貴様を倒したとて、小生の格が下がるのみ。小生が軍門に求めるは、『真の力』を携えた貴様だ。――小童、貴様にもう一度機会を与えよう。それに勝てば茨は返すが、さもなくば――」

 そこで言葉を切り、酒呑は髭切を床に――俺の首の真横に突き立てた。風圧で首筋が切れ、鉄の匂いと共に血がしぶく。

「貴様には、小生の愛妾あいしょうになってもらおう。腹が膨れるほど子種を流し込み、小生のを産ませてやろう」

 何やらおぞましいことを言い捨て、酒呑の長身がクルリときびすを返す。

「ま――待て!」

 俺は思わず呼び止めたが、それで止まれば苦労はない。酒呑は先輩の部屋に走ると、ぐったりした先輩の体を左腕に抱き上げた。

 燕尾服のテールが、窓から吹き込む夜風に揺れる。酒呑は太刀を右手にさげたまま、振り返って告げた。


かんなぎ御衣みそをまとい、我が巣に来たれ。化生けしょう討滅とうめつするはくなる手合いと、平安の世より決まっておるのでな」


 ――そう残して、酒呑は駒場野の闇へ消えていった。

「せ……先輩ーっ!」

 立ち上がった俺は破壊された窓に駆け寄り、大声で叫ぶ。だがその声は空しく、的場邸の前庭に響き渡るばかりだった――。

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