第三幕 組織の掟 Ⅹ
日付が変わろうとするころ、佳奈子先輩はアクビをしながら自室へと戻っていった。
俺も頃合いを見計らって、女中部屋を出て先輩のところに戻ろうと思ったのだが――、
俺はありのまま、いま起こったことを話そうと思う。
『先輩の部屋に戻ろうとしたら、いつの間にか杉原さんに押し倒されていた』
何を言っているのか分からないと思うが、俺にも何をされたのか分からない。頭がどうにかなりそうだった。
俺が押し倒されたのは、杉原さんが
「ん……っ、ぷは! す……杉原さん、何を……。お、俺には先輩が……」
上に乗っかられたまま、抗議の声を辛うじて漏らす。だが杉原さんは耳を貸すこともなく、俺の頬に両手を添えてじっとりと見下ろしてきた。
「ちょ……ちょっと……」
「わたくしは先ほど、お坊ちゃまに『男女の
え……まさか、さっきの耳打ちが……。というか、的場先生にまで分かるほど俺は童貞っぽいのだろうか。
「く、くっ……やめてください、杉原さん。初めては、どうしても先輩のために……」
逃れようと必死で暴れるが、杉原さんは俺を逃がすまいと両肩を押さえつけてくる。心臓がバクバクと脳に血液を送り、意識をまともに保てないほど俺を混乱させた。
「ふふ、強がっておられますね。本当はして欲しくてたまらないのでしょう? ……お坊ちゃま、何も恐れることはありません。天井のシミを数えている間に終わります。一人前の男になって、お嬢様をしっかりお守り申し上げるのです。すぐ終わりますので、しばらくご
「考え直してください杉原さん。そんなことをしたって誰も得しません。こういうのは
先輩が来たら俺の人生が光速で終了するので、声を抑えたまま強めの口調で説得を試みる。だが杉原さんは俺が大声を出せないと分かった上で、非情にも最後の宣告を下した。
「今日からは旦那様が、わたくしの上官です。たとえお坊ちゃまの頼みでも、旦那様のご命令に背くことは致しかねます」
目がガチだ……う、
杉原さんの厳格なプロ意識が、今はただ憎たらしかった。闇に慣れた目が、うっすらと桃色に染まった杉原さんの頬を捉える。そして杉原さんは左手で俺の口をふさぐと、右手の指先を俺のズボンのジッパーに伸ばし――、
その時だった。ガラスの割れる音が響くと同時に、屋敷の空気が
「!」
行為を中断し、杉原さんがサッと立ち上がって俺から離れる。そして彼女は、部屋の隅に置かれていた太刀の鞘を掴んだ。
「お静かに、お坊ちゃま」
先輩の部屋のほうから、的場先生の怒号と銃声が聞こえてくる。ほどなくして、屋敷全体の電気が一斉に切れた。同時に、杉原さんの目が猟犬のそれへと様変わりしていく。
「……こいつは……?」
泥のようによどんだ気配が、屋敷の隅々まで満ちあふれている。立ち上がって問いかける俺に、杉原さんは冷静な声で告げた。
「状況、敵襲。この気配はわたくしたち以外の人造戦鬼……すなわち零号でございます。杉原たかね、現在時をもって
零号……? まさか人造戦鬼が結集しつつあることを察知して、この屋敷を襲ったというのか?
もしそれが本当なら、俺も黙って待っているわけにはいかない。俺がそう判断すると同時に、杉原さんはスカートを
「ちょ……っ、杉原さ……」
「お坊ちゃまは、そこでお待ちくださいませ」
抜刀して鞘を投げ捨てると、杉原さんは足音を忍ばせて二階へと駆け上がっていく。銃声はいまだ、そのリズムを止めず弾け続けている。
――どうするべきかは、考えるまでもない。その音が聞こえてくるのは、先輩の部屋のほうからなのだ。
俺は拳を握って気合いを入れると、杉原さんの後を追って走り出した。
鬼の力のおかげだろうか、明かりが失われても屋内の状況はよく見渡せた。どこから入り込んだのか、金色のコウモリが屋敷の中を縦横無尽に飛び回っていた。
短い階段を上がった先、二階の広い
「っ! 旦那様、しっかり!」
俺に先んじて二階に上がっていた杉原さんが叫びを上げる。見ると、突き当たりの壁には血まみれの的場先生が寄りかかっていた。
「こ……んの……ど畜生ォ!」
先生は自動拳銃を先輩の部屋に向けて乱射している。――幸いにもそれで、敵の所在がはっきりと分かった。
銃口から生じる
数秒もせずに残弾が切れ、先生は敵の銃弾を一身に受けて崩れ落ちる。壁には黒い血がべったりとこびりつき、先生の手から拳銃がポトリと落ちた。
「う……ぐ、っ……」
「ははは、素晴らしい! 音高らかなこの響きこそ、死と流血の飾りだッ!」
金のコウモリが飛びかう中、敵の高笑いが屋敷を揺らす。先生が意識を失った次の瞬間、とどめとばかりに弾幕が先生を襲い――、
「旦那様ああっっ!」
――寸前、敵と先生の間に突風が割って入った。
常人を遥かに超越した速度で、杉原さんの太刀が跳ねる。
火花を散らしながら次々と斬り払われる弾頭。破片が杉原さんを傷つけたが、影に隠れた的場先生は無事だ。
杉原さんは傷ついた身体をかえりみようともせず、敵をにらんで太刀を正眼に構える。メイド服の白い部分は、杉原さんの黒い血でまだらのように汚れていた。
「先生っ!」
俺はその
ここに来て初めて、俺はロビーの向こうの人影――人造戦鬼零号を目の当たりにした。
俺は今まで、血に飢えた殺人鬼というイメージを零号に抱いていた。だがそれは先入観に過ぎず、零号の姿は俺の予想とは正反対だった。
奴はおよそ人造戦鬼らしからぬ夜会の出で立ちで、
端整な顔立ちをしたその青年は、長身を包む
そして――奴の後ろのベッドでは、ぐったりと目を閉じた佳奈子先輩がシーツの上に沈んでいた。
「せ……先輩っ!」
「やかましいわ、
零号の手には、円盤型の弾倉がついた短機関銃が納まっている。銃身のまがまがしい質感が、俺の背筋に冷たいものを感じさせた。
「――ふん。さすがに芸が足らぬか」
澄んだ声で言い捨て、零号は短機関銃を背後に放り投げる。周囲を旋回していた数匹のコウモリが銃を受け止め、跡形もなく破壊された窓から外に飛び去っていった。
「貴様……たかね、か?」
なかば確信したような口調で、零号が問いかけてくる。対する杉原さんは体中から再生の煙をのぼらせながら、挑むような声で言葉を返した。
「! 貴様、やはりゴルゴロの記憶を食ったな? ――米軍お下がりのトミーガンに、
「仕方あるまい。研究所の資料を確認したが、現時点で人造戦鬼に最も有効な飛び道具は自由射撃弾だ。そのような代物を敵地に残しておくほど、
「違いない、的確な判断だ。……それと零号よ。自分を下の名で呼ぶな。その名を呼び捨ててよいのは、貴様に魂を食われた男だけだ。貴様と同じ姿をした関東軍軍医、
喉を絞って叫ぶ杉原さん。時を同じくして金のコウモリが屋敷の外から飛来し、零号のもとに抜き身の太刀を届けた。
「……それは失敬した、杉原参謀。しかし、八十余年経っても変わっておらんな。貴様の
「
「自覚はあるようだな。さて、小生の
零号の言葉はまぎれもなく、これから佳奈子先輩を盗んでいくという宣言だった。
「――この反逆者め。いやしくも国宝を奪い、自らの得物とするなど。恥を知れ!」
国宝……つまり零号の持つ太刀が、東京国立博物館から盗まれた
「お坊ちゃま、ここはわたくしにお任せください。たとえ鬼の力を覚醒させたとしても、丸腰では零号に太刀打ちできません」
制するように杉原さんが言う。そこで、俺は姉貴に託された大石丸が手元にないことに気付いた。……しまった、あれは先輩の部屋に置いたままだ――!
俺の歯ぎしりを背に、太刀を構え直す杉原さん。彼女はロビーを挟んで立つ零号をにらみつけ、戦国武将のように名乗りをあげた。
「家人の
凜と立ち、一歩も引かずに零号と
「その武器を捨てろ、零号。そして、お嬢様を残してこの場を去れ。さもなくば
「断る。引いた弓を収めるのは、それを放つより遥かに難しい。それと、一つ教えておこう。兄より優れた
――ほざくな、と杉原さんが太刀の柄から左手を離す。その意図は分からなかったが、このまま敵を逃がすつもりは毛頭ないと背中が語っていた。
彼女は右手に持った太刀の切っ先で、敵をまっすぐに見すえる。そのままゆるりと腰を落としながら、弓を引き絞るように右手を構えた。
左の指を物打ちの峰に添え、刀身を水平に倒す。息を止める気配に、肌を刺すような闘志が続いた。
「零号よ、こうして手合わせするのは初めてだな――」
言って、杉原さんは身体を深く沈め、
「でやああああッ!」
怒号と共に
「チェストオオォッ!」
杉原さんは身も世もない叫びをあげながら、零号への距離をどんどんと縮めていく。そして地を這うような低い姿勢で、零号の胴体めがけて刺突を繰り出した。
対する零号も手にした太刀を振るい、切っ先の道筋を横にそらす。だが杉原さんはすぐさま体勢を立て直し、踏みとどまって嵐のような連撃を放った。
「ふ――っ」
まるでその全てが
「っ!」
迎え撃つ杉原さんの一撃。散らす火花の一騎打ちは、つばぜり合いの構図で
歯をギリギリと噛み、敵をにらむ杉原さん。そんな彼女に、零号は甘い声でささやいた。
「――貴様は男の目を楽しませるのが上手だ、たかね。女中服のスカートが暴れておったぞ?」
「ッ! 貴様、その名は呼ぶなと……」
「忘れたな、そのようなことは!」
わずかに動揺した杉原さんを突き放すように、零号が太刀を押し返して後ろに飛ぶ。とっさに杉原さんが放った一撃は、やすやすとかわされた。
着地した零号がまっすぐ向けた切っ先に、杉原さんの頬を冷や汗が伝う。傍観している俺にも、零号の放つ殺気が
――力量の差は歴然としている。これでは正直、勝負にすらならない。その感触を裏付けるように、零号が見下したような声で笑いかけた。
「たかね、喜べ。これより小生が、闘争の根幹を教育してやろう」
「ふん……世迷い言を」
焦りを隠さぬ杉原さんの声を無視し、零号は息を止めた。
「――いざ」
刀が揺れると同時に、敵の体が虎のように弾む。
雄叫びに闇を焼きつつ、床を蹴って迫り来る零号。
あざやかな剣筋がうなり、裂けた空気が高く鳴った。
「ッ――! この杉原、いかなる敵であろうと退きはせんッ!」
杉原さんも果敢に突進し、応えるように太刀が翔ぶ。
ひるがえるスカートに、槍のごとき殺気が乗った。
ここに至ってもなお、勝負はまだだとばかりに。
「は――!」
斬り結ぶ視線。刻まれた白銀の軌跡が、漆黒の夜気を飾る。
二振りの太刀は、ちょうど引き合う磁石を思わせて――、
「身のほどをわきまえろ、たかねえッ!」
「く、っ――!」
鋼の弾けるいくつもの音にまがえ、
零号の眉間を揺るぎなく見すえ、杉原さんは
だが、
……それを目の当たりにして、俺の身体がカッと熱くなる。このままでは、零号が俺ともども彼女を始末することは目に見えている。そして恐らく、先輩は奴の巣に連れ去られて――。
「零号! お前の相手は俺だ!」
――意を決し、場を割るように叫んだ。丸腰のまま叫ぶ俺に、零号はちらりと視線を送る。そしてあろうことか、自ら攻撃を放棄して大きく後退した。
「ッ! おのれ零号、臆したか!」
なおも追撃を試みようとする杉原さんに、俺は強い口調で叫んだ。
「だめです杉原さん! ……今のあなたでは、零号に勝てません」
俺の言葉に、杉原さんの動きがぴたりと止まる。
二者の剣劇に幕が下り、沈黙が舞台を打った。
「――杉原さん、今は退いてください。後は俺が引き受けます」
有無を言わせぬ俺の口調に、杉原さんは驚いた顔で振り返った。
「お、お坊ちゃま……いったい……?」
「おとぎ話の時代から、とらわれの姫を助けるのは男の役目です」
「ですが――」
「俺は、力の限り先輩を守り通すと約束しました。これは男の意地の問題です。やらせてください」
意志を込めたまなざしで、杉原さんを固く見つめる。
「――了解」
俺の思いをくみ取ったのか、彼女はそれ以上反論せず俺の横につく。離れて立つ零号は、そんな俺達をあざ笑うかのように冷たく見下ろしていた。
「小童。貴様、名はなんと申す」
「牧原潤だ。悪いが、お前に佳奈子先輩を渡すわけにはいかない」
「佳奈子? そうであったな、確かそのような名前が二号の資料にあった。それがこの時代における、
零号はなぜか先輩を聞き慣れない名で呼び、俺にまっすぐ顔を向ける。
「貴様からは同族の匂いがする。貴様、鬼の血を引いているな?」
「……だとしたら?」
「同族には礼を尽くさねばならん。その本性を、今ここで開放せよ。茨を巡り、正々堂々の一騎討ちを申し入れたい」
この身はもとより、先輩に救われた身。ならば俺には、命を賭けて先輩を守る義務がある。いや、義務以前に、俺は先輩を失いたくないと思っている。
――いいだろう、望むところだ。情けも迷いも知らず、ただ立ちふさがる
「零号。その心遣い、痛み入る。いざ、尋常に勝負!」
時計を巻いた右の手首が熱くうずく。思考が止まり、脳みその血管がぶち切れそうになる。それを認識した瞬間、俺の体は杉原さんに教わったプロセスを実行に移した。
「
固く握った左手を脇腹につけ、半開きにした右手を右斜め前に掲げる。腕時計の長針がうなりを上げ、風車のように回転を始めた。
自らの身体に流れる鬼の血に、神経を集中する。手首から腕へ、そして身体全体へ――
ほとばしる殺意の
右手を引きながら拳を握り、両腕を胸の前でXの字に交差させる。
「
気迫を込めて叫び、クロスした両腕を大きく割り開く。腕時計の文字盤が光ると同時に四肢が変化を始め、人外の力が筋肉にみなぎり始めた。
「ぐ、おおおお!」
昨日とは比べものにならない感覚に、俺は思わず
「く――」
ひとしきり体の変化が終わり、慣れない感覚に思わず膝を屈する。だが、こんなところでへばるわけにはいかない。気合いを入れて立ち上がると、杉原さんが自らの太刀を渡してきた。
「ご武運を、お坊ちゃま。わたくしは影ながら、お坊ちゃまを応援しております」
「……あ、ありがとうございます……」
「では、わたくしは旦那様の介抱を」
杉原さんはそれだけ言って後ろに下がり、的場先生を抱えて先生の寝室に向かった。あとには俺と零号だけが残される。零号は変わり果てた俺を満足そうに眺めると、流れるような声で告げた。
「小生の要望が聞き入れられたことに、謝意を示したい。――では始めようか」
「ああ。だがその前に訊いておきたいことがある。……なぜお前は、目覚めたあと人々を襲った? 見たところ、暴走しているようには見えない」
そう。それだけが俺には不思議だった。東京の各地で残虐な食人を繰り返す『未確認生命体』と目の前の男が、どうしても重ならなかったのだ。
対峙する零号は、少しだけ考え込む素振りを見せると俺の質問に答えた。
「これは
「な――」
「知らぬなら教えてやろう。消化器系に根本から手を加えたからこそ、『人造戦鬼零号』は一号以下とは別次元の出力を誇っておるのだ」
言葉が出てこない。どんなとんでもないことを奴が言っているのか、一瞬では理解できなかったからだ。
「およそ兵器とは、製造と維持を一体として設計されるものだ。その意味で小生は、食らうべき敵兵がいた当時なら、維持しうる兵器だっただろう」
やっとのことで気を取り直した俺は、絞るように問いを発した。
「……当時なら、と言ったな」
「さよう。関東軍上層部は
……なるほど。零号暴走の教訓から、一号以下はエネルギー源を変更して出力を落としたわけだ。
こいつのエネルギー源が人間ならば、こいつは何が何でも打倒しなければならない邪悪な存在だ。俺は人間として、こいつの生存を決して許さない。それが――俺の正義だ。
「……もう一つ訊く。的場邸を襲い、先輩をさらう目的はなんだ?」
「目的、ではない。これは貴様らが平安と呼ぶ時代からの因果だ」
「因果だと?」
さよう、とうなずく零号。
「我が真意は別にある。この国に今も生きる同族の力を集め、この国を我らの国に、即ちは
なんだと……? この国には警察だって自衛隊だって、在日米軍だっている。それなのに、彼らを敵に回して戦争を始めるだって……?
「お前……正気か?」
「無論。
その声に、冗談の色は少しもうかがえない。
――間違いない。この男は、本気でこの国を制圧しようと考えている。それがどんなに苛酷な挑戦か、分からないわけもないだろうに。
動揺する俺を尻目に、零号は続けた。
「それと。先ほどから貴様らは小生を零号と呼んでいるが、以後は謹んでもらいたい。――我が名は
――ああ。その言葉を聞いて、やっと分かった。
この男の目は今ではなく、千年前の夢を追い続けている。奴は幸運にも得た第二の生で、果たせなかった悲願を成就しようとしているのだ。
確かに、この男の野望は人々にとっての脅威に他ならない。だが俺は、一点の曇りもなく夢を追う奴の姿勢に、一種の敬意を覚えた。
いいだろう。それがお前の信念であり、願いであると言うのなら……、
俺が守るべき礼儀はただ一つ。
俺の全存在を投じて、お前を否定してやることだけだ。
脳裏を占めたのは、それだけだった。全ての
これで、俺が従うべき正義がはっきりした。決死の戦意を込めて、俺は零号――否、『酒呑童子』をにらみ付ける。
視線の刃が交差し、しのぎを削る。一歩踏み出せば最後、この場所が俺と奴との戦場となる――!
「――ふ」
何がおかしいのか、酒呑は口元に忍び笑いをこぼした。
「小童。貴様は同族ながら、あたかも
「な――」
からかっているのか、と言おうとしたが言葉が出なかった。
「小生の軍門に下るのなら、
「ふざけるな! 何か勘違いしているようだが、俺は人間の側に立っている。断じてお前達の側じゃない!」
「――そうか。もう少しは頭が回るかと思ったのだが」
太刀を揺らし、切っ先で俺をにらむ酒呑。そして、奴は膝をゆるく落とし――、
「ならば消え去れい! 人間崩れの小鬼めが!」
「!」
酒呑の体が飛び、鋭い斬撃を繰り出してきた。
稲妻のような一撃を、一瞬の判断で受け流す。あまりの力に腕がしびれ、身体が思わず後退した。
「ぐ――!」
自身の声に色はない。平常心が
……まだだ。この程度の反射神経では、とうてい戦えない。
感覚で分かる。俺の本当の力は、こんなものではないはずだ。
さあ目覚めろ、鬼の血よ! ここで男を見せずに、どこで見せるというんだッ!
「るあああッ!」
なりふり構わず、返す刀を打ち込む。死力を尽くした剣撃に華が咲き、夜に
「話にならんな、小童。貴様、それで茨を守るつもりか? 貴様が秘めている力は、そんなものではない筈だ! 全力で参られいッ!」
「黙れ、黙れえ!」
走る刀には、叫ぶ声さえ追いつかない。俺は真っ白な頭で、矢継ぎ早の攻撃を振るった。
二本の太刀が火花を散らし、幾度も絡み合う。常人ではとうてい避けられない鋼鉄の応酬に、俺の思考が熱く煮立っていく。
――そのとき。心なしか、酒呑の速度が鈍った。不可視に近かった敵の太刀が、はっきりと像を結び
ならば今はただ、俺をせき立てる熱に身を任せて――
「その首もらったぁッ!」
酒呑の太刀を上に弾き、首を狙って一撃を放つ。だが……一瞬の差で、振り下ろされた奴の刃がまさった。
「っ……!」
とっさに床を蹴り、後ろに飛ぶ。頭部をえぐる熱い衝撃に、体のバランスを崩した。
「! シクった――!」
仰向けに倒れ込んだ俺は、慌てて体勢を直そうとする。だが時すでに遅く、接近していた酒呑の切っ先が俺の喉に突きつけられていた。
額からわき出る白い煙が、視界を
俺は倒れたまま、しゃがみこんだ酒呑の整った顔を固くにらむ。何がおかしいのか、奴はクツクツと
「可愛いものだな、小童! 少し甘い顔を見せれば、すぐに調子づいて踏み込んでくるとは!」
「なに――!」
「この状況で、まだ減らず口を叩くか。――たまらんな、その闘志! その気概! ますます配下に欲しくなったぞ!」
酒呑は俺の右手から手荒く髭切を奪い、俺に
「……何を考えている? とどめを……刺さないのか?」
「今の貴様を倒したとて、小生の格が下がるのみ。小生が軍門に求めるは、『真の力』を携えた貴様だ。――小童、貴様にもう一度機会を与えよう。それに勝てば茨は返すが、さもなくば――」
そこで言葉を切り、酒呑は髭切を床に――俺の首の真横に突き立てた。風圧で首筋が切れ、鉄の匂いと共に血がしぶく。
「貴様には茨と同様、小生の
何やらおぞましいことを言い捨て、酒呑の長身がクルリときびすを返す。
「ま――待て!」
俺は思わず呼び止めたが、それで止まれば苦労はない。酒呑は先輩の部屋に走ると、ぐったりした先輩の体を左腕に抱き上げた。
燕尾服のテールが、窓から吹き込む夜風に揺れる。酒呑は太刀を右手にさげたまま、振り返って告げた。
「
――そう残して、酒呑は駒場野の闇へ消えていった。
「せ……先輩ーっ!」
立ち上がった俺は破壊された窓に駆け寄り、大声で叫ぶ。だがその声は空しく、的場邸の前庭に響き渡るばかりだった――。
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