第三幕 組織の掟 Ⅸ

 杉原さんが女中部屋の掃除を終えたころ、引っ越し業者が鉄製の単身用カーゴを持ってやってきた。こんな時間だというのにご苦労なことだと思う。杉原さんはメジャーで女中部屋の寸法を測り、荷物の運び込みにテキパキと指示を出していた。

 この屋敷を所有していた加賀家は旧華族であり、陸軍軍人の家系だったため、屋敷には『軍議室』のある中二階が作られている。二階にある住人の個室より一段低いところで、部下を交えた軍議をするためだ。そしてその中二階には、今はまったく使われていない女中部屋も三つ置かれている。その中から杉原さんが選んだのは、バルコニーに面した和室だった。

 荷物を運び終えると、騒ぎを聞きつけて起き出してきた先輩が女中部屋へとやってきた。メイド服を持ってきた時点でこの展開を予想していたのだろう、先輩はさして驚くこともなく杉原さんを受け入れていた。

「よく似合っているわ、杉原三尉。スペアの服はきちんと採寸さいすんして、的場家が速やかに手配するわね」

「恐れ入ります、お嬢様。――もはや宮仕みやづかえの身ではございませんので、どうか杉原とお呼び付けくださいませ」

 しずしずとこうべを垂れる杉原さん。その完璧な仕草が、彼女のキャリアを雄弁に物語っていた。

「お嬢様、か――いいわね、悪くないわ」

 ふぁさ、と気品あふれる仕草で髪をかき分ける先輩。こうして見ると、本物のお嬢様にしか見えないから不思議だった。

「今後とも励みなさい、杉原」

「もったいのうございます――そうそう、忘れておりました。お坊ちゃまにお渡しするものがございます」

 そこで杉原さんは顔を上げ、ぽんと手鼓てつづみを打った。

「なんですか、一体?」

「神祇院から預かっておりました、鬼力きりょく制御機能つき腕時計です」

 何ですか、『キリョク』って? 何だかもう、とてつもなく怪しすぎるんですが……。

「正直、嫌な予感がするので見たくないです」

「そうおっしゃらずに、ご覧になってください。チューニングは持ち主だった牧原主査おねえさまに合わせてあります。同じ血を引くお坊ちゃまなら、きっと使いこなせると思います」

 そう言って杉原さんが段ボール箱から取り出したのは、何の変哲へんてつもないアナログ式腕時計だった。革ベルトの細さを見る限り、女物だ。

「……これをつけると、何がどうなるんです?」

「お坊ちゃまは昨夜の戦いで、自らを生命の危機にさらすことで強制的に鬼の力を覚醒させられました。この時計は、そのプロセスを短縮させるための道具です。ベルトは革に見えますが、変身時にも切れないよう伸縮素材で作られております」

 え……つまり、自由自在に鬼の力を呼び起こせるってことか……?

 そういえば昨日の夜、姉貴が本気で鬼の力を使った記憶はない。この時計がここにあるということは……姉貴は最初から鬼の力を使うつもりはなかった、ってことだ。多分、こうなる可能性を織り込んで時計を残していったのだろう。

「この時計は利き腕に装着すると聞いております。お坊ちゃまはどちらですか?」

「……右です」

 そういえば、普通の時計とは違ってネジが左についている。姉貴も右利きだから、右腕につけていたのだろう。

 せっかくの好意だ。ものは試しとばかり、俺は右腕をまくって杉原さんの目の前に突き出した。もしダメだったら、外せばいいだけの話だし……。

 ――と。杉原さんが俺の手首に時計を巻き付けたとたん、何かの回路が繋がったような感じがした。

「! こいつは……」

「所有者情報は消去してありますので、覚醒のための挙動と掛け声を決める必要があります。次に覚醒させる時は、何らかの挙動を取りながら『鬼力きりょく』という言葉を入れて叫んでください。それがお坊ちゃまのスイッチになります」

「挙動と掛け声……?」

「ええ。この屋敷の設備では再消去ができませんから、よく考えて決めてください。決められるのは一度だけです」

 いぶかしげな視線を手首に落とす。すると、今まで黙っていた先輩がすっと近づいてきた。

「潤。わたしが昨日、左の手首を貫こうとしたのを覚えているかしら?」

「ええ……覚えていますけど。あ! 確かあの時も『鬼力』って……」

「そう。あれがわたしの奥の手、『鬼力大纏神きりょくだいてんしん』よ。少なくともわたしと兄さんは、『鬼力』という言葉を使って最終形態へと変身するわ」

「……というか、そんなのあるんですね。特撮番組みたいだ」

「人造戦鬼であれば、二段階の戦闘形態を取れるよう設計されているはずよ。もっとも、最終形態は肉体へのダメージが大きいから、おいそれとは使えないけど……。杉原はどうなの?」

 話を振られた杉原さんは、触っていたメイド服のえり飾りから手を離して答えた。

「わたくしは鬼ではなく妖狐・玉藻前たまものまえの力を受けておりますので、『超獣狐ちょうじゅうこ』と少し違う掛け声を使います」

「あら、統一されていないのね?」

「ええ。それと、零号には最終形態が存在しません」

「……え? どういうこと?」

「最終形態というのは、零号が暴走したことを教訓に開発された一種のリミッターでございます。わたくしたちが妖怪の人格を押さえ込めているのは、そのおかげです」

 つまり……妖怪の力を100%開放しないかわりに、人間の人格を安全に保ち続けているということか。なら『最終形態』とやらを発動したら、いったいどんなことになるのだろうか?

「――それはそうと、お嬢様。ここに来る途中、渋谷で洋菓子を買って参りました。召し上がりますか?」

「気が利くわね、杉原」

「恐れ入ります」

「潤。厨房に行って、杉原に茶器の場所を教えておあげなさい。ミルクが切れていたはずだから、その間に食料庫から取ってくるわ」

「分かりました」

 時計を見ると、健康的な夜食の時間とはとても言えない。だが先輩はそれを気にすることもなく、ウキウキと一階へ下りていった。

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