第三幕 組織の掟 Ⅷ
俺が廊下の外で待っている間、的場先生は書斎に戻り、書類を二枚プリントアウトしてきた。甲欄と乙欄が書面の下部に設けてあり、甲欄には『的場幹一郎』とサインが入っている。
「なんですか、それ?」
「家事使用人としての期間の定めなき雇用契約書だ。こういうことはしっかりせんとな。ちなみに雑学だが、家事使用人は労働基準法の適用対象外になる」
的場先生はそう言いながら、クリップボードに挟んだ書類を指で弾く。妙なところでマジメな人だった。
「まさか、中身は性奴隷契約書とかじゃないでしょうね」
「その脳みその腐り具合、なかなかのものだ。貴様、ようやく発想が佳奈子に似てきたな」
「恐ろしいことを言わないでください」
ブルーな気分に沈みながら廊下で待っていると、小食堂の扉が音を立てて開いた。
「お待たせいたしました、旦那様。ふつつか者ですが、今後ともよろしくお願いいたします」
! だ、誰かと思った……
食堂から出てきて頭を下げたのは、メイクをバッチリ決めてメイド服を着こなした杉原三尉……いや、杉原さんだ。言葉遣いまで完璧に変わっている。実に律儀で、プロ意識の高い人だと思った。
「……よかろう、杉原家政婦長。ここにサインを」
「かしこまりました、旦那様」
書類を読みながら、ほつれた髪をかきあげる仕草が色っぽい。杉原さんは一通り目を通すと、一番下の乙欄に署名した。
「杉原たかね、精一杯おつとめを果たさせていただきます」
再び深々と頭を下げる杉原さん。古めかしい石けんの匂いが、ふわりと香った。
「ところで旦那様。あの……お給金はこの額で間違いございませんか?」
「なんだ、不満だったか?」
「いえ、逆です。こんなに頂いてよろしいのでしょうか? その……わたくしは正規の自衛官ではなく装備品扱いだったので、このような額をいただいたことは……」
「言いたくないなら言わなくてもよいが……。貴様、いったい前職の給料はいくらだったのだ?」
先生が恐る恐るといった感じで質問を返す。対する杉原さんはキリッと表情を引き締め、
「時給にして、1072円でございました」
……恐らくは東京都の最低賃金だろう金額を、きっぱりと口にした。
クラリとめまいがする。まさかそんな給料で、殺す殺さないの任務に従事していたなんて……。いくらなんでも、この給料は非人道的だと思う。
「ふ……ふびんな……。泣くな幹一郎、涙は心の汗だ……ッ」
手で目をぬぐった先生が懐からハンカチを取り出し、音を立てて鼻をかむ。思わず俺も、つられてもらい泣きしそうになってしまった。
「旦那様、お坊ちゃま。わたくしごときのために、涙などお流しにならないでください」
「……すまん、杉原……あの戦争のせいで苦労したのは、我々兄妹だけではなかったのだな……」
「お待ちくださいませ。ただいまティッシュをお持ちいたします」
さすがに恥ずかしくなったのか、杉原さんはパタパタと小食堂に戻っていった。
「では杉原婦長。最初の仕事を申し渡す」
復活した的場先生は杉原さんに近づくと、何事かをボソボソと耳打ちした。
「旦那様、それは……」
「構わん。少年が男になるためには試練が必要だ」
何やら
「ちょっと先生、いったい――」
文句を言おうとした俺を、的場先生が手でさえぎる。
「ぐ――」
これ以上こだわると為にならんぞ、と丸眼鏡の奥の目が冷たく告げていた。
「ところで杉原。貴様、私物はどうした?」
「引っ越し業者の単身パックに自衛隊割引で預けてあります。落ち着き先が決まり次第、そこに配達させる予定だったのですが……」
自衛隊割引の単身パック……
「承知した。
「ありがとうございます。それでは失礼いたします」
杉原さんはそう言って、小食堂に戻ると静かに扉を閉めた。的場先生はそれを確認すると、袴の帯に挟んでいたスマホを取り出す。そしてどこかにダイヤルしたスマホを、無造作に俺に渡してきた。
「先生、これどこに掛け――」
「佐藤一尉だ。私のようなロートルより、
ちょっと待ってください、と言うヒマもなく電話が繋がった。
「はい、佐藤です」
「ま、牧原潤です。今朝はどうも。あの、その……」
「落ち着きなさい。指示語の
「はい。す、杉原三尉が……的場邸のメイドに再就職しました」
くそ。真面目に言ったつもりなのに、どことなくマヌケな言い方になってしまった。
「……それは誰のことですか? 防衛装備庁に杉原たかねという自衛官は、過去においても現在においても存在しません」
「は?」
「聞こえませんでしたか? 私は、そのような名前は一切記憶にないと言ったのです」
……ああ、やっと分かった。佐藤一尉が先生に名刺を渡したのは、こうなることを予期していたからなんだろう。まったく、大人って汚いな。
「では牧原君、的場中尉にくれぐれも宜しく伝えてください。……切りますよ?」
「――はい」
そう俺が告げると、佐藤一尉は電話を切った。スマホを返すと、耳を近づけて話を聞いていた先生がため息を漏らした。
「ああいう仕事も、あれで色々大変でな。これが奴なりの、精一杯の思いやりというわけだ」
「……どういうことですか?」
「ガキにはまだ分からんか。あいつは貴様と私に、杉原をくれぐれも宜しく頼むと言ったのだ。立場の痛さから、少し遠回しな言い方になりはしたがな」
先生は俺の頭にポンと手を置くと、私は寝るので杉原の案内を頼む、と言って二階に上がっていった。
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