第三幕 組織の掟 Ⅴ

 息を切らした俺が先輩に追いついたのは、水上バス乗り場の近くにある隅田川沿いの公園だった。

 水辺の手すりに両ひじを乗せ、川を往来する船をぼんやりと見つめる先輩。声こそ立てていないものの、先輩の顔は涙に濡れている。

「どうしたんですか、先輩……。俺を……置いて……、いかないでください……」

 千々ちぢに乱れる呼吸。途切れ途切れの言葉で、俺は先輩に語りかける。

「――化け物」

「え?」

 先輩が表情を変えず、涙声でぽつりと漏らす。確かに『化け物』と聞こえたが、俺は思わず問い返してしまった。

「――化け物よ、わたしは。年をとってもシワ一つ増えないで、いつまでも少女の姿でいるなんて……」

 いつになく落ち込んだ物言い。普段のすました仮面を脱ぎ捨てた、素の先輩がそこにいた。

 先輩はゆっくりとした仕草で手すりからひじを離し、呼吸を整える俺へと向き直る。すがるような眼差しを隠すことなく、先輩は俺を見つめてきた。

「ね、潤。……あなたもこんな女、気持ち悪いと思うでしょう?」

「そんな……そんなこと、思うはずがないです。先輩のこと、気持ち悪いだなんて――」

「嘘! ……嘘よ、そんなの。改造された人間の気持ちなんて、あなたに分かるわけがないわ。わたしの素性を知って、普通の女の子と違う姿もいっぱい見て――」

 ――我慢できたのは、そこまでだった。

 自分を言葉で傷つける先輩に耐えられなくなって、俺は先輩をかき抱いた。先輩の震える背中をたぐり寄せるように、両手でぎゅっと抱きしめた。

「それ以上はやめてください、先輩。俺は先輩がどんな姿になろうと、気持ち悪いなんて思いません。本当です」

「……潤……?」

 そう。やっと分かった。

 俺が先輩にかれているのは、容姿ようしが綺麗だからとか、委員会の先輩だからとかそういう理由じゃない。

 自らの犠牲をいとわず、信じる価値モノのために『的場佳奈子』を張り続ける。――。

「普通の女の子と同じとか違うとか、そんなことは俺にはどうだっていいんです。先輩が俺を求めてくれるなら、俺はどこまでも付き従います。力はないかもしれないけど、俺は……先輩を、せいいっぱい守りたいと思います」

 ……佐藤一尉はこれ以上の危害を加えないと言っていたが、状況はどう変わるか分からない。この事件が完全に解決するまで、俺達を取り巻く状況は予断を許さないだろう。

 だからこそ。

 ――俺は、先輩を守る騎士となりたい。心から、そう願った。

「……ありがとう。嬉しいわ、そう言ってくれて」

 安心したように、先輩が頬を俺の耳のあたりに押しつけてくる。先輩は抱きしめられたまま、俺の腰に腕を回してきた。

 そして先輩は、ゆっくりと唇を開き――、


「……でもね。ダメよ、潤」


 ――はっきりと、拒絶の言葉を漏らした。

「先輩……?」

「言ったでしょう? わたしたちの関係は、この事件が解決するまで。最初からそういう話だったはずよ」

 俺には確信がある。俺と先輩は、男と女として間違いなく好き合っている、と。

 にも関わらず、先輩はそれを否定するかのようなことを口にしているのだ。

「……あなたは、真っ当な女の子と幸せになりなさい。わたしなんかと付き合ったら、絶対に後悔するから」

 その言葉が本心からのものでないことは、俺の耳と髪を濡らす涙からもうかがい知れた。

 俺はそんな先輩に、優しく言葉を返す。

「……先輩」

「分かって、潤。本当にわたしのことを愛しているのなら、分かって。お願い……」

 絞り出されるささやき。先輩は思いを断ち切るかのように、俺を抱く腕に力を込める。

 それで俺は、声を失ってしまった。今はただ、先輩に涙を止めてもらいたい。俺はその一心で、先輩が泣きやむまでじっと待つことにした。

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