第三幕 組織の掟 Ⅳ

 アパートの部屋には、慌てて身の回りのものをかき集めた形跡が残っていた。一通り物色してみたが、取り立てて回収すべきものは見つからなかった。

 いったん屋敷に戻って的場先生にことの次第を説明した俺達は、気を取り直して外へと遊びに出ることにした。ちなみに厚底ブーツでバイクに乗るのはやはり危ないので、頼み込んで普通の靴に履き替えてもらった。

 当初の予定としては、上野動物園に行ってから浅草の花やしきに行くというルートを考えていた。しかし思わぬアクシデントで時間を食われてしまったため、俺と先輩は仕方なく花やしきに直行することにした。


 花やしきに着くと、いつものクールビューティースタイルはどこへやら、先輩は子供のように無邪気にはしゃぎ始めた。俺をあちこち連れ回す先輩は、落ちモノや回りモノに目がないと見えた。

「ねえ、潤。さっきのコースター、民家スレスレで怖かったわね?」

 しょせんは小さな遊園地なので怖いと言っても限度があるのだが、そんなことは俺には大きな問題ではない。

 それよりも重要だったのは、先輩と同じ感情、同じ時間を共有できたという事実だ。ついこの間までは高嶺たかねの花だった先輩が、今はこんなに近くで息をしている。もしも叶うなら、こんな関係がいつまでも続けばいい。俺は心からそう思った。

「週末あたりに、富士急ハイランドにも行きましょう? 新しい絶叫マシーンに乗ってみたいの」

「じゃあバイクで行きましょう。お供しますよ」

「いい子ね。好きよ、潤」

 思いを乗せたさりげない言葉が、心地よい響きを運んでくる。

 並んで歩きながら、先輩は握った俺の手に指を絡めてきた。身体を寄せて甘える先輩に、俺の鼓動こどうが少しだけ跳ね上がった。

「せ、先輩……。そろそろおやつの時間も過ぎましたから、クレープでも食べましょうか」

「……ん。じゃあ、あそこのベンチで待ってるわ。悪いけど、少し疲れてしまったみたい」

 言って、先輩は小さな樹を囲むベンチを指さす。俺は先輩の頬に軽く口づけると、足早にクレープ売り場へと走っていった。


 ベンチに戻った俺は、先輩に花やしき限定のクレープを渡す。先輩は嬉しそうにそれを受け取ると、端をちぎって俺の口に押し込んできた。俺は礼を言って、自分の分のクレープを先輩に差し出そうとする。

 ――その時だった。先輩からやや離れて座っていた、上品なおばあさんが声をかけてきたのは。

「あの……ひょっとして、的場……佳奈子さん?」

「「え?」」

 俺と先輩の声がハモる。孫かひ孫を連れて遊びにでも来ているのだろう、おばあさんの横には杖が一本置いてあった。

「ああ……いえ、ごめんなさい。お嬢さんが、昔お世話になった方にそっくりだったものですから……」

 先輩は何かに気付いたように息を詰めると、声がよく届くよう腰を横にずらす。俺もそれにならい、先輩の隣に座り直した。

 少し考えてから、先輩は言葉をいだ。

「……的場佳奈子は、曾祖母そうそぼの嫁入り前の名前です」

「あらやだ、やっぱり。驚いたわ、佳奈子さんに生き写しだったから」

「失礼ですけど、曾祖母のお知り合いですか?」

「ええ、ええ。まだ小さかったころ、わたしは満州におりましてね。ソ連が攻めてきたとき、引き揚げは関東軍とその家族が最優先でしたの。わたしたち民間人は後回し。でも佳奈子さんと関東軍におられたお兄様が、わたしたち一家のために引き揚げの席を譲ってくださったの。自分たちはあとで帰るからと……忘れようにも忘れようがありませんことよ。それで、佳奈子さんはお元気?」

 先輩の細い指が、俺の服をつかむ。心の中で悔しげに歯噛みしているのが、隣に座る俺にはありありと分かった。

「曾祖母は――わたしが生まれたすぐ後に、亡くなりました」

「まあ……ちっとも知らなかったわ」

「あの……よろしかったら、お名前を教えていただけますか? 曾祖母の仏壇に、お名前をお話ししようと思いますので」

大嶽おおたけ百合子ゆりこと申します。旧姓は……あら?」

 そう名乗ったところで、小学生くらいの男の子が駆け寄ってきた。きっと今日は創立記念日か何かで、学校が休みなのだろう。

「おばあちゃん、あっちにも行こうよー」

「はいはい。……それでは、おいとましますね。ご家族によろしく……」

 おばあさんは丁寧な仕草で会釈えしゃくすると、その男の子に手を引かれてどこかへと去っていった。

 彼女が去ったあとの先輩は、どこか呆然ぼうぜんとした面持ちで地面を見つめている。

「……先輩?」

「今のひと……ううん、今の子……。あのとき関東軍が徴用した列車に乗せてあげた子だわ……七十八年前、ソ連侵攻で混乱に包まれた満州で……」

「乗せてあげたって、じゃあまさか……」

「ええ。わたしと兄さんが戦後ソ連軍に所属することになったのは、それが理由。でも……あの子があんなに年をとっても、わたしはあの頃の姿のままなのね……」

 そう呟いて、先輩はベンチから立ち上がる。そして俺にクレープを押しつけ、脇目も振らず遊園地の出口のほうへと駆け出してしまった。

「せ、先輩! ちょっと……!」

 先輩、足、早え……。いや、お約束の展開に感心してる場合じゃない、追いかけないと!

 俺は迷うことなくベンチ脇のゴミ箱にクレープを叩き込む。そして、先輩の後を追って考える間もなく走り出した。

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