第二章 国家の罠 Ⅴ

 下着選びの後はカフェに寄って、ボーリング、ビリヤード――

 上機嫌の佳奈子先輩は渋谷のあらゆるスポットへと俺を連れ回したが、考えてみれば微妙に古くさいデートコースだった。

 ビリヤード場を出たあとの先輩はラブホテルの立ち並ぶ円山町へと至極ナチュラルに向かおうとしていたが、俺は鉄の意志で先輩の手を引き、井の頭線の終電で駒場へと帰った。

 駒場東大前駅に着いたのは、午前零時四十七分のことだった。すでに日付も変わっていて、駅前には人通りもない。

「遅くなっちゃいましたね」

「そうね。でも楽しかったわ――あ、」

 改札を通ったところで、慌ててセーラー服の胸ポケットに手を突っ込む佳奈子先輩。

「どうしました?」

「しまったわ……スマホ、屋上に忘れてきたみたい。――潤、悪いけど今から取りにいくわよ」

 SCC委員会の委員は全員、校内の秩序維持用に正門と校舎と委員会本部のスペアキーを貸与されている。というわけで、今から学校に戻って忘れ物を回収するのは不可能ではないのだが――

「……明日にしたらどうですか? 今は誰に狙われているか、分からないんですし」

「ダメよ。雨でも降ったら、スマホが水没してしまうでしょう」

 まるで子供だ。先輩は俺の進言も無視して、駒高に向かう道を歩いていく。俺は諦めて肩の刀袋を背負い直し、佳奈子先輩の後を追った――


「! ――潤」

 昇降口を開けて校舎に足を踏み入れたとたん、先輩が緊迫した声で俺の名を呼んだ。

「……?」

「刀袋の中身を出して。妙な感じがするの。手さげカバンは、昇降口に置いておきなさい」

 その声にただ事じゃないと察知し、俺は刀袋の中の軍刀を先輩に手渡す。

「言わないこっちゃない。今から引き返すのはどうですか?」

「……いえ、このまま行きましょう」

 それだけ言って、先輩は口の前で人指し指を立てた。黙れ、ということだろう。

「え……ちょ……」

 先輩は白い手で俺の上着のボタンを外し、ズボンの中にひょいと差し込んでくる。

 ま、まさか、こんな状況で? 思わず先輩の神経を疑ったが、考えてみればこの人に常識を求めるのが間違っていた。

「……やっぱりあった。こんなところで電探能力が役に立つとは思わなかったわ」

 先輩はよく分からないことを言うと、内側でズボンの前部を留めるボタンをブチリともぎ取った。そしてそのまま、床に投げ捨てたボタンを勢いよく踏みつける。何か機械が壊れるような音を伴い、ボタンは二つに割れた。

「――これでよし、と。そのボタン、発信器と盗聴器を兼ねたものよ」

 え……そんなもの、誰がいつの間に……? まさか、体育の時か?

「先輩、気付いてたんですか?」

「ええ。学校に敵をおびき出すために使わせてもらったわ。下手に街中でコトを構えたら、無関係の人に被害が出るもの」

「……驚きました。先輩、それを計算に入れて?」

 コクリとうなずいた先輩は、なくしていたと言っていたスマホを取り出して電話をかけ始めた。

「……まいったわ、圏外ね。兄さん、どこにいるのかしら。援軍を頼もうと思ったのだけど」

 先輩は忌々いまいましげに、スマホの画面から明かりを落とす。

「仕方ないわ。行きましょう、潤。わたしたちだけでケリをつけなければ――」

 あっけに取られた俺の手を引き、先輩は土足のまま階段へと足を向けた。


 きしむ引き戸を開けて、西特別教室棟さんごうかんに位置する出入口から屋上に出る。

 ――横に立つ先輩が何も言わず、左手にさげた軍刀の鯉口こいぐちを切る。どこか張り詰めた空気に、俺は敵の存在を肌で感じ取った。

 西と東の特別教室棟は屋上で繋がっていて、東特別教室棟ごごうかんの屋上にある附属中学側出入口との間には、手すりとベンチに囲まれた空間が広がっている。そして東西特別教室棟の中央部、校庭を見下ろす手すり脇には国旗掲揚ポールがそびえ立っているのだが――

「な――あれは?」

 夜風を受け、よどんだ闇の中にはためく国旗のシルエット。その位置はポールの中央――つまり、弔意ちょういを表すのに使う半旗はんきだ。

「誰かいるわね。ポールの上に一人、根本に一人――」

 闇に目をこらすと、確かに言われたとおりの人影が見える。月が雲に隠れているため顔は分からないが、そこにいるのは間違いない。

 内心の敵意を隠そうともせず、先輩は俺をかばうようにポールへと近づいていく。そんな俺達をあざ笑うかのごとく、ポールの先端から声が飛んだ。

「物騒なものを持っているわね、的場さん?」

 え――! こ、この声は……

 聞き間違えようはずもない。もしこの声が本当にあの人物の声なら、も簡単に説明がつく。

 いや、そんなバカな。俺は混乱した頭を絞り、この事態を合理的に説明する答えを必死に探す。

 ポールの上の人物は、結婚披露宴のプロフィール紹介のような口調で話の穂をいだ。

「――的場佳奈子・ロシア地上軍予備役中尉。大正十五年生まれ。昭和十七年、新京しんきょう敷島しきしま高等女学校在学時に人造戦鬼二号への改造手術を受け、関東軍に兄と共に入営にゅうえい。緒戦の軍功により、功三級金鵄勲章きんしくんしょうを受章。戦後はソ連軍にてアフガン戦争をはじめとする諸戦役に従軍――。たいした軍歴じゃない?」

「な――」

 今度は俺ではなく、先輩が驚く番だった。

「何でそんなことまで知ってるか、って? ――いいわ、教えてあげる。戦時中、神祇院じんぎいんは人造戦鬼計画に多大な援助を行ったの。強力にね」

 どうか、何かの間違いであって欲しい。俺は自分の中でわき上がる悪い予感を必死に押し止めようと、歯を固く食いしばった。

 だが真実はいつだって不都合で、現実はいつだって残酷だ。俺の淡い期待を打ち砕くように、月を隠していた雲がさあ、と流れる。

 次の瞬間、逆光に目を細めた俺の視界に映ったのは――、

 ポールの根本に寄りかかり、気だるげに紫煙しえんをくゆらす女性自衛官すぎはらさんいと。

 中空で悲しそうに揺れる、白地に赤丸の国旗と。

 ……そして、俺のよく知る人物の姿だった。


「こんばんは。せっかくだし、改めて挨拶あいさつしておくわね。神祇院総務局調整課主査しゅさの、牧原美咲です」


 その背には白い月を、左手には見慣れぬ太刀を。

 黒い狩衣かりぎぬ姿の神官あねきは、ポールの頂上から俺達を冷たく見下ろしていた。

「な、な、な――」

 何で姉貴がここに――と言おうと思ったが、声が言葉になってくれない。対照的に平然としている佳奈子先輩は、発信器の一件で薄々気付いていたのだろう。

 どことなく姉貴の姿に違和感を覚えたが、よく見ると古文の資料で見るのとは違い、狩衣の上の烏帽子えぼしがない。ポールの下の杉原三尉をちらりと見て、姉貴は口を開いた。

「杉原三尉、分かってるわね? これは私の管轄よ」

「――了、約束は守る。自分は手を出さん」

 ニヒルに笑う杉原三尉は投げ捨てた吸いがらを踏みにじり、新しいタバコに火をつける。

 姉貴は俺に視線を向けると、ショートカットの髪をかき上げてふう、と息をついた。

「潤」

 姉貴の鋭い声に、思わず体がこわばってしまう。

「これからの話は、多分もう牧原家には伝わっていない話だと思うわ。――あなたは牧原家について、一体どのくらい知っているの?」

「え――? お、親父は、仙台藩から札幌に入植した武家の一族だって……」

 そう。現に姉貴の実家であり、牧原家の親戚でもある樋口家はいまだに仙台にあるのだ。

「……牧原家と樋口家はもともと一つの家で、現在の宮城県川崎町かわさきまちに出自を持つ武家だったの。川崎町には、仙台と山形を結ぶ笹谷峠ささやとうげの鬼の話が今も伝わっているわ。峠から出羽国でわのくにに向かう旅人を、夜な夜な襲っていた鬼の伝説よ。――そしてね、潤。二つの家は、その鬼の血を引いているの」

「え……お、鬼の血って……?」

 そこまで言って姉貴は黙り込み、何やら難しい顔をする。とてもじゃないが、嘘や冗談を言っているようには見えなかった。

 ああもう、人造戦鬼やら自衛隊やら、なんだってたった二日でこんな訳の分からないことになってるんだ――!

 内心で頭を抱える俺に構わず、姉貴は先を続けた。

「――鬼と交わって以来、二つの家には先祖返りを起こして鬼の力を得る者が現れるようになったわ。そしてその中には、鬼の血に人格を乗っ取られて暴走する者も――」

「ちょ……ちょっと姉貴、いきなりそんなこと言われたって――」

「黙って聞きなさい! ――樋口家の女は代々、そうやって現れた悪鬼あっきを退治する役割を負ってきたわ。二つの家のみならず、他の地域に現れた悪鬼もね。そして今は、樋口家の代表として私が神祇院に派遣されているの」

「な――まさ、か」

「……牧原家の場合、鬼の血の発現はつげん条件は十六歳以上の男系の男子であることよ。もっとも牧原家は血が薄れて、ここ百年ほど発現者がいなかったけどね。――百年ぶりの血の濃さなのよ、あなたは。これで分かったでしょう? 私が牧原家に養子として送り込まれたわけが。そして、私が高校生になった潤と再び同居を始めたわけが――」

「俺が暴走しそうになった時に備えて、俺を監視するため――?」

 辛そうに、コクリとうなずく姉貴。

「昨日のベイブリッジでの追跡劇、覚えているわよね? 実は私も、あの車の後部座席に乗っていたの」

「え……あの自衛隊の車に、姉貴が……?」

「そうよ。あなたに自覚はなかったでしょうけど、あれは完全に十六歳の高校生の動きじゃなかったわ。それで私は気付いてしまったの。あなたの中の鬼の血が人造戦鬼まとばさんの血に反応して、あなたの体を『本物の鬼』に変え始めているんだって」

 ……そうだ。言われてみれば、昨日の夜はいつになく夜目が利いていた。――いや、昨日より今日のほうが、少し見やすくなっている気さえする。現に俺はあんなに高いところに立っている姉貴を、逆光の中でも細部に至るまではっきりと視認しにんできているのだから。

「ふうん――やっぱりね」

 その時、俺の前に立つ佳奈子先輩が、何やら聞き捨てならない反応を漏らした。

「――あら。的場さん、気付いていたの?」

「ええ。バイクに知識のないわたしにだって、潤の動きが普通じゃないことは分かりましたもの。それに遠隔衛生を使って以来、潤からは同族の匂いのする強い生命力が流れてきたし――イヤでも気付きます」

 その言葉が、姉貴の中のスイッチを押したのだろうか。それまで冷静を保っていた姉貴が、突如として激昂げっこうした。

「あなた――なんでそんな、他人事のように言えるのッ! あなたが遠隔衛生で潤と繋がっている以上、あなたを殺せば潤も死ぬのに! 返して、返してよ的場さん! 死の匂いも化け物の世界も知らない、私の潤を返して……っ!」

「そんな、姉貴……。先輩は――」

 先輩は俺の家の事情なんか知らず、善意で俺を助けてくれたんだ。そんな先輩を責められるはずがない。

 それによく考えれば、姉貴は『俺もろとも先輩を殺す』と宣言しているも同然だった。

「私にだって分かってるわよ、的場さんがそうしなければ潤は死んでいたって! でもね、的場さん。あなたは九十八年も生きたから満足でしょうけど、潤はまだ十六なのよ! あなたは結果的に、潤の一生を台無しにしたの!」

 全身からほとばしる殺意を隠さず、姉貴は先輩を直視する。だが先輩はひるまず、姉貴をにらみ返して反駁はんばくした。

「牧原先生。言っておきますけど、食人事件の犯人はわたしじゃありませんよ」

「……あら。おめでたいのね、あなた。自分が食人事件の容疑で狙われているとでも思っていたの?」

 ……え? 先輩が狙われていたのは、防衛省が見込み違いの捜査をしていたからじゃないのか?

 先輩も同様に、事情が飲み込めないといった様子だった。

「いいわ。これで最後だし、冥土めいどの土産に教えてあげる。食人事件の真犯人は、人造戦鬼ゼロ号――。かつて京洛きょうらくを地獄絵図に塗り替えた酒呑童子しゅてんどうじをオリジナルとする、人造戦鬼計画の失敗作よ。あなたたち兄妹は、にえとして選ばれたの。を強化するための素材としてね」

「な――そんな。聞いてないわよ、零号がいたなんて!」

「無理もないわ。完成時の暴走で、研究所はほぼ壊滅。かろうじて残った記録も、今に至るまで機密指定されていたのだもの。零号の素体となったのは、北川きたがわ小五郎こごろうという通称を持つ関東軍の軍医大尉よ。彼の本名はダーヒンニェニ・ゴルゴロと言うのだけど――」

「……変な名前ね。その人、日本人?」

 先輩の質問に、姉貴は首を縦に振る。

「国籍はね。出身自体は樺太からふとの少数民族・ウィルタ族よ。計画の初代責任者だった彼は最初の材料マルタに自らを選んだものの、酒呑童子オリジナルに人格を食われ、暴走の果てに長い眠りについたわ。以後、最近に至るまで相模原にある防衛装備庁の研究所で人造戦鬼一号が『墓守はかもり』を務めていたの」

 その時、舌打ちが屋上に響いた。その出所に目を向けると、それはポールの下で今まで黙り込んでいた杉原三尉が発した音だった。

 姉貴はその音を意に介することもなく、話を続けた。

「眠り続けていた零号が覚醒したのは、九月下旬のことだったわ。職員のミスで、零号を収納していたカプセルに高圧電流が流れたのよ。そのとき当直していた職員のほとんどは零号のエサとなり、相模原を脱出した零号は東京の各地で食人を開始したわ」

 そこで姉貴が言葉を止める。怒りを押し殺した声で、先輩は姉貴に食ってかかった。

「なんて身勝手なの、あなたたちは。自分たちの尻ぬぐいをするために、平和に暮らしていたわたしと兄さんを狙うなんて」

「それが共同体の論理。それが最大多数の最大幸福よ。緊急避難法理カルネアデスのいたを援用したっていいわ。まさか国家というシステムが万人に正義をもたらすと考えるほど、あなたも子供ではないでしょう?」

 それだけを言い捨てると、姉貴は左手に握った太刀を目前に掲げた。まるで、これでお喋りは終わりだと言わんがばかりに。

「この刀のは『大石丸たいせきまる』。、鬼の力を持つ者のために樋口家が作り上げた刀よ」

 俺の前に立つ先輩は軍刀の柄に右手をかけ、短く告げた。

「潤、離れてなさい。ケガするわよ」

「でも――」

「早く! わたしの言うことが聞けないのっ!」

 ――っ。

 先輩の強い口調に、思わずビクリと体が反応する。――確かに武器もないこの状況で出しゃばるのは、かえって先輩の邪魔になりかねない。

「!」

 見ると、先輩の両腕がメキメキと音を立てながら変化を始め――セーラーの袖口を破り、生臭い液体を垂らしながら、四本指の鬼の腕へと変化を始めた。

 ――先輩、お願いします。俺のことなんかどうだっていいですから――生きて……生きて帰って下さい。

 俺はおとなしく後ろへと下がり、高低差を挟んで対峙たいじする二人を視界に納める。夜風に黒い狩衣を揺らしながら、姉貴は太刀の柄を右手で握った。

 スラリと太刀を抜き放った姉貴は、握っていた鞘から左手を離す。重力に従って真下に落ちた鞘を、くわえタバコの杉原三尉が上も見ず片手でキャッチした。

「――牧原主査。分かっているだろうが、情けは禁物だ」

 杉原三尉の言葉が届いているのかいないのか、姉貴は俺と先輩をじっと見下ろす。

「ごめんね……かわいそうな潤。私には、潤を守ることができなかった――。だから……私が今、楽にしてあげるから……。少しだけ、ガマンしていて――」

 言って、姉貴は狩衣に覆われた左手をすっ――、と高く掲げた。とたん、扇の骨組みのように、姉貴のこぶしから四本の棒が生えてくる。

 月光を反射する鈍色にびいろの輝きに、その物体が棒手裏剣だと気付いた瞬間には――姉貴は、左手をなぎ払って四本の手裏剣を打ち出していた。

「――!」

 弓のような軌跡を描き、風をうならせながら飛翔ひしょうする手裏剣。

「燃えよ恒正つねまさああっっ!」

 先輩は叫び声と共に赤く光る軍刀を抜き、四方から角度を変えて襲い来る手裏剣をことごとく斬り落とした。

 だが、息をつく暇もなく――

えろ大石丸たいせきまるっ!」

 姉貴は漆黒の衣を闇に溶かし、明るく白熱する太刀を手に先輩めがけて足場を蹴った。

 対する先輩は鞘を捨てて突風のように疾駆しっくし、やいばを交えるべく中空へと跳躍ちょうやくする。


「「らああぁぁァァ――ッ!」」


 赤と白、夜風の中で激突する二つの光。濃紺に沈む屋上を紅白の剣舞けんぶが明るく照らし出し、刃の交錯点こうさくてんからはオレンジや水色の淡い火花が散る。

 舞うような白い軌跡に、それを受け流す紅の太刀。その性格差を表すかのように、二者の剣筋はあまりに対照的で――そして、みとれるほどに美しかった。

「ああ……たまらないわ、的場さん!」

「っ――!」

 ……当初は拮抗きっこうしていた二人の力は、徐々に姉貴の優位へと傾いていった。

 屋上の床を押しつ戻りつ、二色の光は螺旋らせんを描くように乱舞らんぶする。優勢を見て取った姉貴は、勝ち誇ったような声で笑った。

 妙だ。先輩の動きがどうもおかしい。踏み込むべき時に踏み込まず、退くべき時に退かない。そのことに気付いた俺は、ある結論に行き当たった。

 ――

 そう。先輩は姉貴と俺の位置に意識を払いながら、音速の剣劇を演じているのだ。昨日、転倒するバイクから俺を助け出した時と同じように動けるはずがない。案の定、先輩は姉貴の斬り込みを一つ二つと身体に受けていった。

「先輩、俺のことは気にせず――!」

 そこまで叫んだところで、カマイタチのような衝撃波が俺の頬を切る。

「く――ッ!」

 恐らくこいつは、十重二十重とえはたえに振るわれる二つの刀から届いた真空の刃だ。

 俺は切れた頬を押さえ、思わず飛び退いた。傷口からはシュウシュウと煙が立ち、早くも再生が始まる。

 ……そうだ。俺の身体は、『遠隔衛生』の作用である程度の再生が利く。なのに先輩は、意固地になって俺に血を流させまいとしているのだ。まるで、傷一つつけたくない大切な宝物を守るかのように。

 夜に跳ねる二本の刀が、屋上に火花をこだまさせる。俺に一瞬だけ気をとられた先輩を狙い、姉貴はぎ伏せるかのような一撃を見舞った。

 だが、それを見越していたかのように、スカートをコマのごとくひるがえした先輩が鋭い迎撃を繰り出す。閃光せんこうのような動作に遅れ、赤い燐光りんこうが恒正の刀身から散り広がった。

「ぐ――っ!」

 月光に刀身をまがえながら、二つの影が激突する。しばし太刀筋たちすじが絡み合ったかと思うと、両者は弾かれたかのように逆の方向に退いた。

「はぁ――っ」

 膝を屈し、肩で息をする先輩。セーラー服はあちこちが切り刻まれていて、満身創痍まんしんそういだ。見ると、先輩の右腕からは血液とおぼしき黒い液体がボタボタと垂れ落ちていた。

「先輩っ!」

 俺は矢も盾もたまらず、先輩に駆け寄ろうとする。だが先輩はゆらりと立ち上がると右手の軍刀を水平に持ち上げ、無言で俺を押し止めた。

 ――思考が焼き切れたかのような激しい殺意が、屋上の空気をギリギリと絞りあげる。俺は、自分の呼吸さえも苦しくなるのを確かに感じた。

「よくも、潤に傷を……。許さないわ! 絶対に許さない!」

 普段の先輩からは想像もできない怒号が、屋上を飛ぶ。そして先輩は、軍刀の切っ先を自らの左手首へと突きつけた。

 侮蔑ぶべつの色に眉を染め、姉貴が冷たく言葉を投げる。

「噂に名高い『大纏神だいてんしん』でもするつもり? ――面白いわ、やってごらんなさい。間に合うと思うのならば」

 そのあざけりを耳にした先輩は、姉貴の眉間みけんを固く見すえ――、

 渾身こんしんの掛け声を、勇然ゆうぜんと口にした。

鬼力きりょくっ!」

 そこまで先輩が叫んだところで、姉貴の身体が流れるようにはしった。

 大気をうがち、白熱の凶器となって先輩を襲う姉貴の太刀。

 ……だめだ先輩、何をする気かは知らないけど、それは!

だいてん――!」

 ――。 

 そう悟った次の瞬間には、世界がスローモーションになった。


「や、」

 情景に漂白ひょうはくされる理性。

「め、」

 赤く沸騰ふっとうする思考の海。

「ろぉぉォっっ!」

 そして俺は喉を引き絞り、自分で耳をふさぎたくなるような絶叫を爆発させた。

 だが、姉貴はその足を緩めない。まっすぐに、ただまっすぐに、先輩の息の根を止めようと前進するばかりだ。

 そして、気付いた時には――

 何か悪い冗談のように、先輩の背中からは発光する白刃がまっすぐに生えていた。


「逃げ、て……じゅ――」

 ん、と言おうとしたのだろうか。震える唇が音もなく形を刻む。先輩の瞳からは、ふいに一筋の涙がこぼれた。

 姉貴は俺をちらりと見やると、まるで教室にいるような口調で先輩に語り始めた。

「――的場さん、来世のためによ。必殺の奥義は、時と場所と状況をよく考えて――、ね」

 ……それは俺が初めて耳にする、体の芯からそら寒くなるような声だった。

 言い終わったかと思うと、姉貴は粘着質の音を立てて刀を引き抜く。そのまま姉貴は腰を沈め、全力での回し蹴りを先輩に食らわせた。

「かは――っ」

 先輩は軍刀を握ったまま吹き飛ばされ、黒い血液をまき散らして手すりに激突する。追い打ちをかけるように、姉貴が白く澄んだ笑みを浮かべた。

「……ふふ、残念ね。おやすみ、人造戦鬼二号おじょうさま

 先輩の黒い返り血に頬をびしゃりと濡らしながら、牧原美咲おれのあねきはそう言った。

「せ、先輩ーッ!」

 真っ白な頭のまま、俺は穴の開いた腹部から血を流し続ける先輩へと駆け寄る。

 俺を……を守るために、先輩はこんなになったのか……

「先輩、しっかり……!」

「じゅ、ん……、」

 口の端から血を漏らしながら、弱々しく俺の名を呼ぶ先輩。煙が出ているところを見ると致命傷ではなく、徐々に回復が始まっているようだ。だが、これ以上の戦闘はどう見ても不可能だった。今すぐにでも、姉貴は先輩にとどめを刺すだろう。そうしたら、俺もろとも――すべて、終わりだ。

 振り返ると、血まみれの太刀の峰を肩に乗せながら、姉貴が静かに近づいてくるのが目に入る。

 もはやこれまで、と観念した時――姉貴は、5メートルほど手前でふいに足を止めた。

「え――?」

「――潤。姉としての最後の情けよ。的場さんとお別れをさせてあげる。三分間で済ませなさい」

 それだけ言い捨てると、姉貴はスタスタと俺達から離れていった。正直、その温情は意外なほどだったが、今はただこの幸運に感謝しておこう。

「……先輩、聞こえますか?」

「え、ええ……ケホッ! ケホッ!」

 呼吸器でも傷ついたのか、痛々しく咳き込む先輩。そんな先輩に、俺は精一杯の思いを込めて言った。

「……先輩はそこで休んでいてください。俺が代わりに戦います。二人で、うちに一緒に帰るために」

 そう。――姉貴に三分の時間を与えられた時から、腹は決まっていた。勝算だとか、そんなのはどうだっていい。ただ……先輩がこんなになるまで戦ってくれたのに――俺だけが戦わないなんて、とてもできない。

 正直な話、怖い。――いや、怖くてたまらないと言ったほうが正しい。あんな人外の戦いを見せられたのだ。普通に考えれば、たかが居合道初段の俺に勝機はないだろう。

 だが、今なら言える。こんなところで、むざむざ犬死にはしたくない。俺は、先輩と一緒に明日を迎えたいのだ。

 姉貴は、俺が『本物の鬼』に変わり始めていると言った。ならば俺は、そこに望みを託すしかない。たとえ可能性が0・1%だったとしても……それがゼロではない以上、俺は絶対に諦めたくない――!

「じゅ、潤……何を、言うの……? そんなの、ダメ……。ケホッ……! 潤には……、ムリよ……」

 驚きを顔に浮かべ、途切れ途切れに答える先輩。その力ない異形の右手から、俺は恒正をもぎ取った。

「無理でも何でも、それ以外の選択肢がない以上、俺はやります。いいから、先輩はおとなしく待っていてください」

「バカ……背伸び、して……。潤の、くせに――」

 残された力でかぶりを振り、俺を止めようとする先輩。そんな先輩に、俺は微笑みながら告げた。

「知らなかったんですか、先輩? 俺、けっこうバカなんです」

 俺は先輩の側にひざまずき、先輩の身体を優しく抱きしめた。血と涙に濡れた先輩の顔を、閉じこめるように俺の胸に押しつける。

「……バカ。バカバカ。潤の、潤の、くせ、に……」

 先輩……? ひょっとして、泣いている――?

 震える肩を最後にそっと抱き、俺は先輩に口づけた。

 先輩の柔らかい唇は、血の味がする。ひょっとしたら、これで最後になるかもしれないのか。

 俺は未練を断ち切るように、軍刀を手に立ち上がって先輩に背を向けた。

き、なさい……潤……」

 弱い声。回復の副作用で、意識が途切れかけているのだろうか。

 先輩は最後に、振り絞るような声を上げた。

「お願い……死な……ない、で――!」

 それきり、先輩は黙り込む。耳を澄ますと、すうすうと軽やかな寝息が聞こえてきた。

 人知れず、ほっと息をつく。そして俺は後ろを振り返らず、立ちつくす姉貴に向けて決然とした足取りで歩き始めた。


「……時間よ。お別れは済んだ?」

「ああ」

 言って、俺は恒正の切っ先を姉貴へと向ける。

「――それが、あなたの選択だというの?」

 姉貴の冷徹な言葉に、俺は深くうなずく。

「どれだけ無様に思われようと、俺はギリギリまであがく。先輩と生き延びるために」

 むき出しの敵意を抑え込み、ぎり、と歯をきしらせる。

 ――許さない。俺は姉貴を、絶対に許さない。

 吐息を一つ漏らした姉貴は、無造作にさげた太刀を風車のようにくるりと回して血振りする。その右手がつかをとらまえると同時に、冷えていたはがねが熱を帯びて白く輝き始める。

 仕上げと言わんばかりに左手で柄頭つかがしらを握り込んだ姉貴は、剣尖けんせんを揺るぎなく俺へと向けてきた。

 そして――射殺すかのような視線で俺を見すえ、一言。


「さようなら、潤。もしえにしがあれば、いずれ、どこかで」


 地獄の釜から響くような声で、姉貴はそれだけを口にした。

 次の瞬間、す……と短く息を呑んだかと思うと――、

 疾風はやてとなった姉貴は、俺の息の根を止めるべくまっすぐに突進してきた……!


「――!」


 直感が命じるまま、俺は迎撃を放棄して横に飛んだ。

 三日月のような軌跡きせきをうならせ、白熱の刃が俺のいた場所をなぎ払う。

 その戦意に瑕疵かしはなく、その殺意に是非ぜひはない。彼女が両断を狙う相手は、紛れもなくこの俺に他ならなかった。

 辛うじてかわした俺をにらみ付ける姉貴。そして彼女はつま先を蹴ってくるりと転進し、音速の追撃を放った。

「――ッ」

 疾風怒濤しっぷうどとうの連撃を、歯を噛んで必死に受け流す。斬撃の産み出す熱風が、俺の前髪をわずかに焦がした。

 姉貴の剣筋は見えない。俺はただ本能と刀の命じるまま、無我夢中で恒正を振り回した。

 だが、俺の反撃など姉貴にとってはハエの羽音のようなものだ。一ごうごうと刃を打ち合わせるたび、俺の身体は高熱の刃によって少しずつ切り刻まれていく。

「ぐ――!」

 俺の左腕が、大石丸の斬撃を受けて深くえぐられる。鋼鉄の灼熱しゃくねつに肉が焼け、遠隔衛生によって煙とともに再生が始まる。

 あまりの痛みに喉からうめきが漏れたが、姉貴は攻撃の手を休めてなどくれない。俺は輝きを失ったままの恒正を右手一本で構え直し、大きく後ろに退いた。

「――!」

 がんと音を立て、腰に固い手すりが当たる。その反動にたたらを踏んだが、間一髪で立て直した。そんな俺を、狩人かりゅうどの眼差しで姉貴が見つめてくる。

「やはり、ね。通常の人間では、私の剣筋をいなすことすらできないはずよ。……気付いてた? 自分の身体能力が、いつもとは比べものにならない水準まで高まっているって」

 そういえば……普段の俺なら、あんなに早い攻撃をさばけるわけがない。最初の一撃くらいならともかく、せいぜいナマス斬りにされるのが関の山だ。

 そして、今の状況はその場合とあまり変わらない。すでに退路はなく、傷ついた俺の左腕はもはや使い物にならないのだ――

「ちくしょう。ちくしょう、ここまでか……ッ!」

「潤。――私たち神祇院は明治維新以来、百数十年にわたって化け物と戦い続けてきたのよ。昨日今日『先祖返り』したようなあなたが、そんな私たちに太刀打ちできるはずがないでしょう?」

 一歩ずつ、太刀を構えたまま姉貴がにじりよってくる。俺は頭を必死に回転させ、この状況から生還するための方策を考える。

 何か……何かないか、打開策が。『鬼の力』とやらを完全に引き出し、姉貴と互角に渡り合うすべはないだろうか。

 思い出せ、ベイブリッジでのことを。そして俺の力がいま、飛躍的に高まっているわけを。今日の体育では、俺の身体は確かに普通だったはずだ――

 そこまで思いを巡らせた時、俺の頭に一つの考えが浮かんだ。


 『鬼の力』が発現するスイッチは、もしかして俺が『生命の危機』にさらされることではないだろうか?


 確証はない。ただの直感だ。だがこのままでは、先輩もろとも姉貴にやられることは目に見えている。

 このままやられっぱなしで引くわけにはいかない。俺は意を決し、校舎脇の地面に意識を払った。高さは十数メートルあり、頭から落ちたら即死は免れないだろう。だがこの際、ぜいたくは言っていられない。今はただ、一か八かに賭けてみるしかない――!

 俺が手すりに右ひじをかけて屋上の床を蹴った直後、うなる太刀が胴体を両断すべく襲いかかってきた。

「く――」

 姉貴の太刀が、手すりをかすって水色の火花を散らす。間一髪で直撃は避けられたようだ。

 身をねじって手すりの向こうに身体を落とした俺は、右手の恒正を固く握りしめる。

 そして、そのまま腹をくくり――、


「いななけ恒正つねまさアアアーーーッ!」


 夜闇に冷えた大気に、身体を投げ出した。

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