第二幕 国家の罠 Ⅲ
「ああん、可愛いわ、潤……。本当の女の子みたいで、ゾクゾクしちゃう。いいこと、学校では『お姉様』とお呼びなさい?」
「お、お、おね、おねえ、さま……」
――クリティカルヒット、こうかはばつぐんだ。このまま人格崩壊に至ったら、いったい俺は余生をどう送ればいいのだろうか。
「……ん、いい
セーラー服を着せられた俺は、なかば連行されるように一階の小食堂へと降りていった。スカートのすそがスースーして、落ち着かないことこの上ない。
冗談じゃない。家に寄って替えの制服を確保したら、こんな服は一秒だって着てやるものか……
朝食に出てきた
「? 兄さんっ、このアライを作ったのは誰っ!」
「ついにアルツハイマーを発症したか? お前に家事能力がない以上、私に決まっている」
「……そうだったわね。あまりにも美味しくて、思わず
先輩の奇行を無視してアライを味わっていると、今まで騒がしかった二人が急に静かになった。何だろうと思って顔を上げると、二人はテレビの画面を
レポーターは、東京国立博物館から『
「……これ、
「あるいは、そうかもしれんな」
先輩も先生も、打って変わったけわしい顔をしてそのニュースに聞き入っていた。
朝食を終え、俺と先輩は的場先生より先に登校することにした。昨日とは別の刀袋を背負った俺は、リュックの代わりに先輩に持たされた革カバンを手に――先輩曰く、セーラーにリュックは「ありえない」そうだ――大学入試センター脇の通学路を歩いていた。
「べ、別に佳奈子先輩のために着てるんじゃないんですからね! これはやむなく、やむなく! 家に寄ったら、すぐにスペアの制服に着替えますから!」
俺は先輩のほうを時折チラ見したが、先輩は涼しげに微笑んでいるだけだった。
――と。あろうことか後ろから、うちの上級生と思われるきゃらきゃらとした女子の声が聞こえてきた。
「やだ、あれ一年の牧原くんじゃ……」
「うそっ、可愛いじゃん! あー、あたし自信なくしちゃうなあ。あれならミス駒にも全然出られるって」
「しっかし、先輩もいい趣味してるわよね~」
……だからイヤだったのに。分かっていた。セーラー服を着たら女の子にしか見えないほど、俺が
思えば九年前、姉貴が親戚の
時は人を変える。高校・大学と姉貴が札幌を離れていた七年間の間、姉貴の俺に対する態度は帰省するたびごとに厳しくなっていった。そして七年ぶりの同居を始めた今では、あの有様だ。せっかく上京したというのにあの厳しい監視体制に置かれたのでは、あんまりと言えばあんまりだと思うのだが――、
と。
通学路を外れてアパートに入ろうとした時、今日もまた間が悪く、スーツ姿の姉貴が部屋から出てきた。
「げ」
「あら潤。『げ』って何よ、『げ』って。……って、なに、その服!」
し、しまった! 俺は今、セーラー服を完全装備しているんだった……!
激しく動揺した姉貴が、はれ物に触るかのような態度で俺におずおずと話しかけてくる。
「……じゅ、潤。服の趣味は確かに人それぞれよ。でも……でもね、そのファッションは、世間では変態さんというの」
「これが趣味なわけがないだろ」
「趣味じゃないって……まさか、お仕事だとでも言うの? ああ、どうしよう……うちの潤が二丁目の売り専ボーイになっちゃった……」
「違う! その手の不審人物に声をかけられたことも一度や二度じゃきかないが、それだけは断じてない!」
「じゃ、じゃあ……着用したあとでブルセラショップに売るの? 大変、すぐにブルセラ病のワクチンを手配しなきゃ! あれは恐ろしい病気なのよ!」
「あ、謝れ姉貴! ブルセラ病で大打撃を受けた酪農家の人に謝れ!」
「いやっ! もう何も聞きたくないっっ!」
……姉貴は頭を抱え、どんどんと悪い想像をつのらせていく。
「あら。おはようございます、牧原先生?」
そこに、俺の後ろにいた先輩がトゲのこもった声で挨拶してきた。
「! 的場さん……ひょっとして、これはあなたが……」
「ええ。可愛いでしょう?」
「た、確かに可愛いのは認めてあげ……じゃなくて! すみやかに潤を
「え、変質者ですって! きゃー、こわーい?」
ちっとも怖くなさそうな口調で、先輩が俺の体を後ろから抱きしめてくる。
「ほら、潤。牧原先生が自分を変質者だって認めたわよ。一緒に逃げましょう?」
「い……いえ、俺は家で服を着替えないと……」
「んー、いい匂い……。兄さんとは大違いだわ……♪」
俺の言葉も聞かず、頬を俺の後頭部にこすりつけてくる先輩。いつの間にか、先輩の下腹部も俺の腰に密着している。……というか、いまさりげなく実の兄の加齢臭をイジったぞ、この人。
「ちょ……先輩、こんなところで何を……」
「ふふっ。ここまでされて、まだ分からないの? 純情ね」
表面上はあくまでもしとやかに告げながら、先輩は俺の尻をサワサワとなで回してくる。
いや、どう見ても変質者――もっと言うと
「――じゅ、潤から離れなさい、的場さん。さもないと110番に電話して、国家権力を複数形で
「お断りします。いくら敬愛する牧原先生の頼みとはいえ、うちの潤子ちゃんを渡すつもりはありません」
あの……先輩、俺の意思は……? 困惑する俺を尻目に、姉貴は腕組みして先輩をにらみ付けた。
「まったく、呆れた往生際の悪さね。――ねえ的場さん、あなたお料理できるの? 潤の食べたいもの、ちゃんと作ってあげられるの?」
「な……! どうしてトップシークレットである、わたしの家庭科の成績を……!」
「大切な潤を預けるんだもの、それくらいは調べます。……で、どうなの?」
目に見えてひるんだ先輩は、目を泳がせながら答えた。
「り、料理くらい作れます。ゆで卵とか……。ほら、電子レンジでチンすればいいんでしょう?」
先輩。それやっちゃダメです、絶対に。後片付けをする的場先生がかわいそうですから。
「……ふん、論外ね。さあ、潤から離れなさい!」
姉貴はそれだけ叫ぶと、絡みつく先輩から俺を引っぺがし、俺の手を引いて部屋に連れ込もうとする。
「あ――姉貴……っ」
「先生、何をなさるんです。聖職者が人さらいですか!」
先輩の非難にも耳を貸さず、姉貴はメガネを直しながら言った。
「来なさい、潤。スペアの制服に昨日アイロンを通しておいたから、それに着替えるのよ」
「あ……ああ。分かった」
ダメだ。目がすわっている。これはビンタくらいじゃすまないな。……あれか、尻を布団叩きか?
なおも不満を漏らす先輩をアパートの入口に放置したまま、姉貴は怒り心頭といった感じで部屋の鍵をかけた。
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