第二幕 国家の罠 Ⅰ

東京都目黒区駒場四丁目 的場邸

令和五年十月四日(水)午前六時半


 目を覚ますと的場邸の玄関先には、俺のものとは色違いの青いホーネットが置いてあった。ハンドルには、ペアデザインの半ヘルが二つかかっている。

 車体をよく見るとメーターバイザーからタンクパッドまで、色んなオプションが装備されている。前のオーナーのものだろう。シートを開くと、『名義変更書類は後日送付』とメモが入っている。恐らくは、佐藤主任からの贈り物だろう。気にくわないが、その律儀さだけには感服するほかない。ステテコ姿の的場先生は、屋敷の前のロータリーで乾布摩擦かんぷまさつをしたあとに、腰に手をあて瓶牛乳をゴクゴクと飲んでいた。

「ゆうべはおたのしみでしたね、牧原君?」

「な、何のことでしょうか?」

 お楽しみも何も、昨夜は嵐のようなセクハラから逃れるので精一杯だった。

 先輩のことは確かに好きだが、結婚まで貞操ていそうは守りたい。男にだって、入籍するまで超えてはいけない一線はある。これは、プライドと尊厳の問題だ。

「なんだ、まだ合体していないのか? 面白くない。おい、すまんが新聞を取ってきてくれ。赤旗と朝日と毎日、全部だ」

 聞き捨てならない発言を聞いた気がするが、俺は黙って新聞受けから新聞を取って先生に渡した。先生は毎日の三面を真っ先に開き、一つ息をついた。

「……やはり、昨日の騒動は交通事故として処理されたらしいな。県警への根回しは大変だったろうに――佐藤の奴、実にいい仕事をしている」

 先生はそう言って、ずれていた丸眼鏡をクイと直した。


 パジャマのまま部屋に戻ると先輩は既に起きていて、桃色のバスローブを羽織って俺を待っていた。起き抜けの先輩はどこかぼうっとしていて、髪も所々ほつれている。やっぱり、ミス駒場といえども家では姉貴と同じなんだな……

「ん。おはよ、潤。朝シャンをするからバスルームまでお供しなさい。一緒にシャワーを浴びましょう?」

「……え? い、いや、それはちょっと」

 確かに昨夜は一緒のベッドで寝たけど、いちおう俺達は男と女なんですが……。

 朝っぱらから先輩とシャワーを浴びてイチャイチャしてたら、俺は堕ちるところまで堕ちてしまう気がする。とっさに逃げようとした俺の手を、先輩はガシッと掴んで引き留めた。その左手には、いつの間にか妖しい光を放つ安全カミソリが握られている。

「恥ずかしがり屋さんね。ほとんど無いと思うけど、ムダ毛をきれいに処理してあげるわ」

「や……あの、ちょ……」

 有無を言わせぬ力で俺を風呂場へと引っ張っていく先輩。「下の毛はもう生えたの?」とセクハラ質問をナチュラルに浴びせる先輩に、仕方なく俺は震えぎみのうなずきで返す。

 命を救ってもらったという恩義もあるのかもしれないが、惚れた弱みというか、やっぱり先輩には逆らえなかった。

「ふふ。このカミソリで、潤の大切な毛をじっくり可愛がってあげる。それと、シャンプーはわたしのを使わせてあげるわ――」

 た、大切な毛って……先輩の基準ではそれもムダ毛なんでしょうか?

「や……やだ……ぁっ……!」

 女子高生の形をした性犯罪者の手にかかり、かくして俺は生まれたままの姿へと変身を余儀なくされた。

 ちなみに先輩の貸してくれたシャンプーは、CMでお馴染みの女性用シャンプーだった。女性用という時点で何かがおかしいと気付くべきだったのだろうが、愚かな俺は先輩が善意でシャンプーを貸してくれたのだと信じ込んでしまっていた。

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