第一幕 文明人のテーブルマナー Ⅶ

 昼の臨時集会では都内で頻発する謎の食人事件を踏まえ、下校後は寄り道をせず帰宅せよ――と生徒が持ち回りで受け持つ週番から通知が出された。

 十五時二十分。俺は先輩からのメッセージに従い、授業が終わるとキャンパス北西の角にあるSCC委員会の本部を訪れた。さっきから降っていた通り雨は、もうすっかり上がっている。

 SCC委員会の本部は、むき出しのコンクリートで造られた五十周年記念会館と呼ばれる建物の中にある。中には誰もいなかったが、先輩が来るまでここで待つよう俺は言いつけられていた。本部に置いていた俺の着替え入りバッグは、先輩が空きコマの間に的場邸に運んでおいてくれたらしい。

 先輩を待つ間、何人かの委員が本部に顔を出しては、『刃引きした』日本刀とそれをさげる革帯かわおびを下校のために置いていく。真剣を校内で帯刀できるのは、SCC委員会の内規で『居合道の有段者以上』と定めがあるためだ。実はその『例外』で真剣を取り扱えるのは、今のSCC委員会では俺と佳奈子先輩だけである。

 SCC委員会の委員は全員が『剣道部居合班』に所属しているが、実は剣道と居合道では根本的に刀の扱い方が違う。剣道は相手の有効打突部位に『当てる』ことが基準だが、居合道はあくまで『斬る』ことが目的であるため、剣道の有段者が真剣を扱ってもまず斬れない。俺はたまたま中学時代に居合道の初段を修めていたので、真剣の帯刀許可を得ているだけの話だ。

 刀を帯びているというと物騒な印象を持つかもしれないが、銃砲とは違い『日本刀』の所有は私有地内であれば厳しくない。日本刀は美術品扱いなので、刀に対して鑑札を出している都道府県教育委員会の文化財担当部署に登録しておくだけで事足りる。

 ちなみに銃刀法二十二条で『業務その他の正当な理由による場合』には携帯も許されるので、私有地の外、つまりキャンパスと自宅を往復する間などは『学園自治に供する用具の手入れ及び稽古けいこのため』という名目で学校側の許可を得ることになっている。委員長の佳奈子先輩は自宅が近いこともあり、緊急時のために『無期限許可証』を手にしているはずだ。

 俺と先輩以外の全員が帰ったころ、先輩はUSBメモリを手に部室に現れた。

「お待たせ、潤。遅れてごめんなさいね」

「いえ、それはいいんですけど……先輩、そのメモリは?」

「例の『未確認生命体』が起こした食人事件の捜査資料の写しよ。パーソナルコンピュータ研究部パけんに頼んで、捜査本部のデータベースから拝借してきたの」

「な、なんてことを……完全に不正アクセス禁止法違反じゃないですか。バレたらいくらうちの学校でも、退学くらいは食らいますよ」

「だって、背に腹は代えられないじゃない? それだけの価値はあったわ。どうやら捜査に、防衛省からの介入があったみたい」

 先輩は自分の椅子に腰を下ろし、かたわらの机にUSBメモリをコトリと置いた。

「ちょっと考えてみて。杉原三尉がわたしに手紙を送りつけてきたのは、『未確認生命体』が食人事件を起こし始めた直後だったの。妙だとは思わない?」

「まさか――防衛省は、先輩と先生が犯人じゃないかと疑ってる……?」

「でしょうね。資料を見ると、現場に残っていた『未確認生命体』の唾液を防衛省が回収したらしいの。ひょっとすると、そこから人造戦鬼の細胞か何かが検出されたのかも――」

 そんなバカな。先輩や先生は、断じて食人なんかに走る人達じゃない。俺は、理不尽な疑いから先輩を狙った連中にいきどおりを覚えた。

「そういえば先輩。先輩が二号で、先生が最後に作られた三号ということでしたね。じゃ、他にも一号が……」

「わたしも兄さんも直接見たことはないけど、そのはずよ。確か、一号のオリジナルは玉藻前たまものまえ。十円玉に描かれている宇治の平等院……その宝物庫に遺骸が安置されていた、有名な妖狐よ。他には酒呑童子しゅてんどうじ、そして兄さんのオリジナルになった大嶽丸おおたけまるの遺骸もあったらしいけど。もし本当に一連の事件が人造戦鬼の仕業なら、犯人は生き残っていた一号だと思うわ」

「でも……ならどうして、今まで一号はおとなしくしていたんでしょうか? 戦争が終わってから七十八年も経っているのに」

「そこよね、分からないのは。ひょっとすると、わたしたちの持っていないパズルのピースがあるのかもしれないわ」

 そこまで先輩が言ったところで、校舎から下校をうながす『グリーンスリーヴズ』のメロディが響いてくる。壁に掛けられた振り子時計を見ると、時刻は四時四十分だった。

「あ……もうこんな時間か。どうします? 的場先生のハンコもらって、残留届ざんりゅう出しましょうか?」

 駒高は比較的下校時間が早く、文化祭の直前を別として定時で五時、教員がハンコをした残留届を出しても六時までしか居残ることができない。先輩はアゴに手をやって、少し考えてから口を開いた。

「――そうね、今日はもう学校を出ましょう。潤、悪いけどこのメモリ、あなたのリュックに入れてくれるかしら? 刀袋と一緒に、わたしが持つから」

「え? 先輩が持つって……?」

「あなたのバイクがあるでしょう。なんて言ったかしら、名前?」

「ホンダのホーネット250ですね。排ガス規制で平成十九年にカタログ落ちしましたが、排気量の割に四十馬力もあって加速もいいです」

「そんな名前だったわね。家にあなたのリュックを置いたら、あれでどこかに遊びに行きましょう? 確かタンデム用のヘルメットもいくつかあったわよね?」

 ホーネット250は、普通二輪免許を取った時に中古で買った俺の愛車だ。スズメバチHornetの名の通り、車体は黄色と黒で塗装されている。車検の要らない軽二輪クラスながらカムギアトレーンを採用した高回転向けマシンで、高速を走る時の楽しさは折り紙付きだ。アパートにはバイクを置く場所がないため、とりあえず今は学校に置かせてもらっている。

「分かりました。タンデムの時は、ちゃんと掴まってて下さいね」

 正直、俺も久々にバイクで飛ばしてみたいと思っていたところだ。タンデムシートに乗るのが先輩みたいな極上の美少女なら、何も文句はない。俺は自分の刀と革帯を本部の刀箪笥かたなだんすに納めると、委員会本部をあとにすることにした。


 的場邸にリュックを置いた俺と先輩は、夕飯は要らないと書き置きを残してツーリングへと出発した。

 今日は早めに下校すると言っていた的場先生は、都心のほうに出かけていて不在だった。だが刀袋の中の軍刀にはGPSが仕掛けられているため、万一の場合でも先生は俺達の位置を把握できるようになっているらしい。

 俺は先輩をホーネットの後ろに乗せ、背中に温かい胸の感触と柔らかな鼓動を感じながら、たそがれ色に染まる雨上がりの街をのんびりと走っていた。

 俺は安全を考えてフルフェイスのヘルメットをすすめたのだが、先輩は髪型と化粧が崩れるのを嫌がって、俺と揃いの半ヘルしかかぶってくれなかった。だがそのおかげで先輩の声を直に聞くことができるのは、なんとも言えず心地よかった。

 駒場から南に移動し、玉川通りニーヨンロクから首都高の池尻いけじりICに入った途端、俺はアクセルをひねってエンジンを遠慮無く回し始めた。カムギアトレーンが独特の甲高い鳴き声を上げ、見る見るうちにスピードを増していく。

「きゃっ!」

 加速と音に驚いた先輩が、思わず俺の背中にしがみついてくる。いつもと逆の上下関係に、俺は少しだけ気分を良くした。――そうだな、せっかくだからベイブリッジにでも行ってみるか。今夜は雨上がりだから、橋の上からの夜景がキレイに見えるはずだ。


 ……異変に気付いたのは、マシンがベイブリッジ手前の首都高大黒線だいこくせんに差し掛かったころだった。先輩も『奴ら』に気付いたのか、振り返って後ろをしきりに確認している。既に日は落ち辺りは夜闇に包まれているが、今日はいつもに比べ夜目が異常なほど利いていた。

 左ミラーを通して後方を視認すると、RV車を大きくしたような自衛隊ナンバーの車両が俺達の後ろに付き従っていた。民間車とは明らかに違うゴツい装甲車で、後続の一般車は警戒して距離を取っていた。あろうことか敵は車体上部のハッチを開け、乗員の一人が機関銃のようなものでこちらを狙っている。

 ――マジかよ、こんな公衆の面前で。気付かなかった俺達も俺達だが、あんな車を持ち出してきた敵も敵だ。奴らも尻に火がつき始めた、ということだろうか。

「あんなので射たれたら……冗談きついわね」

 先輩が苦々しげな言葉を漏らしたのと同時に、敵の車両がチカチカとハイビームを断続的に光らせた。

 ……こいつは、恐らくモールス信号だ。

 関東軍で戦っていた先輩なら、もしかしたら――

「先輩、あれ読めますか?」

「……和文モールスね。ヨコヨコニノレ、と言っているわ」

横浜横須賀道路よこよこ……横須賀……まさか連中、俺達を自衛隊のホームグラウンドに招き入れる気じゃ……?」

 横横なら、ベイブリッジを通って首都高狩場線かりばせんに向かえばいい。だが、抵抗もしないまま奴らに従って、本当にそれでいいのか?

 この車体の心臓エンジンは、高回転域に特化した内燃機関だ。奇跡的にも、前方に車は見えない。マシンは既にループ状のジャンクションを過ぎ、弓なりに膨らんだ三車線のベイブリッジを渡ろうとしている。スピードの出せる直線コースなら、あるいは振り切れるかもしれない!

 バイクに乗って気が大きくなっているのか、いつになく強気の思考が意識を満たす。俺はしばし考えてから、後ろの先輩に短く問いかけた。

「先輩。あの車の最高速度、分かりますか?」

軽装甲機動車ラヴは確か、最高で時速100キロくらいだと思うけど。まさか――」

 俺の意図を察したのか、先輩が鋭く息を呑む。

「ひょっとして、やる気なの? ダメ、あなたには無理よ。おとなしく――」

 無理、だって? いや、違う。


 。今この時、俺と愛馬ホーネットはその一点において感覚をシンクロさせている。


 反論の言葉をさえぎり、俺は言い切った。

「先輩、このバイクのライダーは俺です。仮に相手が機関銃を射ってきたとしても、加速しながらジグザグの回避機動を取れば命中する可能性はかなり低いはずです。……お願いします、やらせてください」

「きゅ、急に男になっちゃって、どうしたの?」

 突然の俺の豹変ひょうへんに、先輩がうろたえる。……正直、俺にもどうしてこんな考えが浮かんだのかは分からない。体中を駆けめぐるアドレナリンが、あるいはそう命じたのだろうか。

「……いいわ、おやりなさい。万が一しくじっても、フォローしてあげるから」

 先輩は腹をくくったのか、中の軍刀を取り出して刀袋を投げ捨てた。

 恩に着ます。俺の背中、先輩に預けます……!

「行きます!」

 その言葉に、先輩が俺の制服をぎゅっと握りしめる。俺は振り返らずに一つうなずき、ギアを落としてアクセルを全開にした。

 同時に生じたのけぞるほどのGに、体を伏せて加速の姿勢を取る。タコメーターがレッドゾーンに入るたび、俺はクラッチを切ってギアをシフトアップしていった。

 バイクの動きに異変を感じた敵は、左後ろの中央車線から容赦なく機関銃で掃射を始めた。ミラーの奥の後続車が、異変を感じて続々と停車していくのが見える。

 俺達の乗る鉄の馬を、つるべ射ちの弾幕が襲う。ホーネットの車体には、着弾の花弁が鮮やかに狂い咲いた。

「く――ここは公道だぞ、場所を考えろ!」

 衝撃に崩れるバランスを、渾身こんしんの操作で立て直す。俺は必死で車体を傾け、スラロームとアクセルワークで回避運動を取った。

 全身の五感が冴え渡り、理性は興奮に蒸発する。左後方からの火線を直感で把握した俺は、ブレーキングを使って紙一重の遅れを作り出す。直後、装甲車から射ち下ろされる銃火が眼前を斜めに横切った。

 急ブレーキによる前Gが生じ、車体の重心が大きく前屈する。タンクを固くニーグリップして身体を支えるが、後ろの先輩は踏みとどまるのに四苦八苦しているようだった。

 ……くそ。このまま照準が右にずらされたら、俺達はもろに蜂の巣になる。ならば一か八か、この火線をくぐり抜けてやる!

「先輩、しっかり掴まって!」

 俺は息を吸うと、シートに腰を深く据えて左にハングオンした。

 左膝が削り取られる寸前の角度で、アスファルトが迫り来る。その光景に絶句する息遣いが、短く後ろから届いた。だが先輩はすぐに気を取り直すと、重心を安定させるため俺にしがみついてくる。

 ……さあ、勝負! 間に合えば一興、間に合わなければ一巻の終わりだ。俺と先輩は頭を低く下げ、間断かんだんなき弾丸の嵐へと突っ込んでいく――!

「ここだッ!」

 火線をくぐったと判断した瞬間に、アクセルを開いて車体を左車線へと立て直した。あとはここで急加速して、敵の車両を振り切れば!

 だが。首尾よく突破できたかと気を緩めた時――

「っ!」

 ……衝撃とともに、右ももに熱を感じた。

「く――!」

 右足のブレーキペダルを踏もうとすると、ももに激痛が走る。流出する熱い体液が、じゅくじゅくと制服のズボンを濡らしていく。

 しまった。敵は一瞬早く俺達の動きを察知して、バイクの軌道を戻すスキをついてきたのだ。

「っ!」

 再び襲い来る銃弾が、先輩の側頭部をかすめる。その拍子にアゴひもがちぎれ、先輩のヘルメットが路面へと落ちた。

「先輩っ! 大丈夫ですか!」

「大丈夫、ケガはないわ……。っ!」

 先輩の無事に安堵あんどしたのもつかの間、後ろのタイヤが弾頭を受けて破裂する。俺の傷は遠隔衛生の作用で煙と共に再生を始めたが、トラクションを失ったマシンは高速のまま制御不能に陥っている。

 まっすぐ道路を滑りながら、車体が徐々に傾き始める。あわや接触、というところで先輩の声が飛んだ。

「潤、腰を浮かせて!」

 俺が残った左足と両手の力で体を浮かせると、先輩は俺を魔法のような手際で横抱きに抱え上げ、後部座席のタンデムステップを蹴って高く跳躍した。

 先輩は刀のさやをハーモニカのようにくわえ、俺を抱いたまま道路に着地する。学生靴の靴底が焦げ臭い煙をあげ、アスファルトの上には黒い摩擦の跡が残った。

 同時に俺達の背後で、機関銃の連射を浴びたホーネットが大爆発を起こす。燃料タンクに着弾でもしたに違いない。俺がその光景に歯噛みした直後、敵の車両が急ブレーキをかけて停車した。

 血を流し続けている俺を車道に横たえ、先輩は軍刀を路上に寝かせる。そして両手で俺の肩をつかみながら、髪を揺らして問いかけた。

「しっかり。傷は痛む? 大丈夫?」

「え……ええ。それより先輩、敵を――」

 敵の車へと目をやると、ハッチから飛び降りてきた自衛官の女が、手にした太刀を抜き放ちながらこちらに近づいてくるのが見えた。恐らくは、俺達に銃撃を浴びせてきた奴だ。

「これはこれは、昨日の少年ではないか。やはり遠隔衛生を使ったのだな、二号」

 、だって? じゃあ、こいつが俺に瀕死ひんしの重傷を負わせた、杉原すぎはらたかね三尉か。彼女は刀身をすっ――と避雷針ひらいしんのように引き上げ、見とれるような八相はっそうの構えを取った。

「先輩――!」

「わたしだけならともかく、よくも潤まで――許さないわ」

 先輩は杉原へと顔を向けると、揺るがぬ決意を込めて軍刀を抜刀し、正眼に構えながら立ち上がった。剣尖けんせんの先には、杉原の喉笛のどぶえが街の灯に白く浮かんでいる。

 ――その時、団子状に詰まった車列をクラクションを鳴らしながらすり抜け、軽自動車より小さな車がこちらへとやってきた。ナンバープレートを見ると、青地の外交官ナンバーだった。あれは――フィアット新500チンクエチェント。ルパン三世の愛車として有名な、昔のイタリア車だ。

 俺達の近くに、キッと停車する車。その運転席からは、おなじみの袴男がゆっくりと降りてきた。

「ま……的場先生!」

 フィアットから降りてきた的場先生は、くわえていたタバコをキザったらしい仕草でつまんだ。

「ハンムラビは言った。目には目を、権力じえいたいには権力がいこうとっけんを、と。待たせたな、二人とも。順延切符レイン・チェックのお届けだ」

 異変に気付き、装甲車から二十代後半とおぼしき女が降りてきた。パンツスーツにネクタイという、マニッシュな格好をした女だ。だが彼女の動きを気にすることなく、杉原は的場先生に殺意を向けた。

「……く。貴様――」

「やめなさい、杉原三尉! それはロシア大使館の車です。外交問題になりますよ」

「さ、佐藤さとう主任……」

 杉原を声一つで制した佐藤なるスーツ姿の女は、細身のネクタイを緩めながらバージニア・スリムに火をつけた。まだ初秋だというのに、黒い革手袋をはいている。

 ある種の冷たささえ感じさせる、理性的な瞳。防衛省の人間らしい黒髪に、ミディアムヘア。佐藤主任と呼ばれた女はタバコの灰を下に落とすと、杉原に向けて言い放った。

「お喋りが過ぎましたね。自衛官たるもの、全ての行動は整斉せいせいと実施しなければなりません」

「……あいすみません。ご処分はいかようにも」

 太刀を納めた杉原は、地面を見つめながらうなだれてしまった。佐藤主任はそんな杉原を流し見るとクルリと振り返り、腰に手を当てて的場先生へと向き直った。

「それにしても、貴方ですか。的場幹一郎・ロシア地上軍予備役中尉?」

 また――ということは、経緯は分からないが佐藤主任と的場先生は互いに面識があるようだった。

「腐れ縁だ。しかし情報本部主任分析官の貴様まで、今回の件に絡んでいたとはな」

「本日正午付けで、本事案の担当は技本から防衛省情報本部に移りました。なにしろ実戦経験がある幹部は陸自でただ一人、私だけですからね」

「なるほどな。――ああそうだ、私の教え子の愛車が台無しになってしまったようだ。ちゃんと機密費きみつひで弁償してやれよ?」

 先生はタバコの煙を横浜の風に溶かすと、いまだ炎を轟然ごうぜんと放ち続ける俺の愛車を見る。ほどなくして、パトカーやら消防車やらがワンサカやってくることになるだろう。

 皮肉を込めた先生の物言いに、佐藤主任は苦々しげな返答を返した。

「機密費ではありません、報償費ほうしょうひです。――要求は掌握しょうあくしました。部下に中古のホーネットを持っている者がいます。業腹ごうはらですが、今夜中に貴方の家に届けましょう」

「結構。……貴様らも忙しいだろう。今日のところは痛み分けでよいか?」

「そうですね、興が削がれました。勝負は次に預けましょう。後始末は私達が」

「結構結構、また会おう佐藤一尉。グッド・ラック!」

 キザに指を揃え、別れの挨拶を示す先生。そのまま先生は、俺と先輩のそばに歩み寄ってきた。

「おい牧原。首都高環状線ではバイクの二人乗りが禁止されている。免許を傷物にレイプされたくなかったら、次から気をつけることだ」

「あ……いけね」

「分かればいい。……さあ、帰るぞガキども」

「――助かったわ。ありがと、兄さん。ほら、行くわよ潤」

 先輩はそう言うと、俺の肩に手を回して立ち上がらせた。

っ……」

「ガマンしなさい、男の子でしょ」

 パトカーと消防車のサイレンが、遠くから聞こえてくる。だがこの道路の混み具合では、到着にきっと苦労することだろう。

 俺と先輩をフィアットの後部座席に乗せた先生は、帰り際に佐藤主任のそばに車を寄せた。腕を組んだ佐藤主任は、運転席の窓を開けた先生を一瞥いちべつした。

「――次はありませんよ、的場中尉。戒名を用意しておくことです」

「ははは! それはこっちのセリフだよ、この小娘!」

 言って、先生はフィアットを悠々と発進させ現場を後にした。クラッチを踏んでギアを入れ替えつつ、先生は呟いた。

「しかし、情報本部の佐藤さとう優理也ゆりや一等陸尉が今回の事件に絡んでいるとはな。面白くない奴を敵に回した」

 と、俺はさっきからの疑問を口にしてみた。

「先生。どうして先生が、外交官ナンバーの車を……」

「私と佳奈子は、ソ連崩壊までソ連軍で働いていてな。色々とロシア大使館にも顔が利く。何かの役に立つと思って今日借りてきたんだが、さっそく活躍してくれたな。――時に牧原、貴様には今日から佳奈子の部屋で寝泊まりしてもらうことに決めた」

「い、いや……俺も男なんで、できれば別の部屋が……」

「華麗に却下する。居候の分際で贅沢を言うな」

 いや、それはそうなんだが……あなた仮にも教師でしょう、先生……

「ところで潤、足の傷はどう?」

 先輩の言葉に、俺はももへと手をやる。信じがたいことに傷は既にふさがっていて、痛みもなかった。

「問題、ないみたいです」

「よかった。でもこれで昨日の傷の完治は長引いただろうから……ふふ、ことによると、二週間くらい下宿してもらうことになるかもしれないわ」

 まるで俺の不幸を喜ぶかの口調で、先輩は微笑む。だけどもその表情は、窓に流れる横浜の夜景より美しいと思った――

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