第一幕 文明人のテーブルマナー Ⅵ

 俺が佳奈子先輩と手を繋いで駒場野公園を歩いていたという話は、瞬く間に学校中の噂になっていた。おかげで、各授業の間に十分ずつある休憩時間は質問攻めだった。

 十二時二十分――午前の授業が終わり昼休みに入った途端、俺は保健室前の藤棚に直行した。そこで先輩と昼食をとる約束をしていたからだ。卒業に必要な最低限の単位しか登録しておらず空きコマだらけの佳奈子先輩は、大手予備校から出ている京都大学の過去問あおほんを気だるげに読みながら俺のことを待っていた。

「先輩、お待たせしました」

「……ん」

「なにか、面白い問題でもありましたか?」

「潤にはまだ早いと思うけど……二〇一七年度の和文英訳。京大らしいシニカルでペダンティックな出題ね。見る?」

「拝見します」

 俺が青本を手に取ると、化石のような出題形式でド直球の英訳問題が載っていた。


Ⅲ 次の文章を英訳しなさい。


『生兵法は大怪我のもとというが、現代のように個人が簡単に発信できる時代には、特に注意しなければならない。聞きかじった知識を、さも自分で考えたかのように披露すると、後で必ず痛い目にあう。専門家とて油断は禁物、専門外では素人であることを忘れがちだ。さまざまな情報がすぐに手に入る世の中だからこそ、確かな知識を身に付けることの重要性を見直すことが大切である』


「ダメだ、お手上げです。こんな固い文章が出るとは……」

 目を通しただけで――なんというか、めまいがした。一流大学になると、こんな問題が出るのか。俺、大丈夫かな……。不安になってきたぞ。

「解き方、知りたい?」

「ぜひ、後学のために」

 佳奈子先輩はたおやかな笑みを浮かべると、朗々と解説を始めた。

「和文を外国語に訳するというのは単なる訳出の力だけじゃなくて、原文――つまり元の文の意味を読み解ける国語力も大切になってくるの。まずは自分が分かる簡単な日本語に置き換えて、それを簡単な英語に訳出する。基本はそれだけよ。『生兵法は大怪我のもと』は、"a little learning is a dangerous thing"。これは慣用句だから知らないと書きづらいけど、本当に分からなかったら『日本には「確かでない知識や技術は良くない結果を招く」という意味で、生兵法は大怪我のもとということわざがあるが……』って感じであえて訳さないのもありね。『「確かでない知識や技術は良くない結果を招く」と人は言うが……』でもほぼ同じ。減点はされるだろうけれど、文として成立はするから。一番いけないのは、背伸びした文法語法が破綻はたんしていたり最後まで書ききれないこと。これは大減点されても仕方がないわ」

「うお、的場先生より分かりやすいですね……」

 思わず担任をディスってしまったが、本当なんだから仕方がない。

「訳す――という次元よりレベルの低い、減点されないためのテクニックに過ぎないけれど、それが日本の中等教育で良いこととされているのは確かよ。さっきまで暇つぶしに解いていたから、これを見て。文脈から補った言葉にはカッコをつけてあるわ。文中に出てくるtheyやyouは総称用法よ。動詞を持つ英文には、必ず主語が要るから。それくらいは分かるわね?」

 言って、先輩はルーズリーフに書かれた日本語と英語の『答案』を俺に見せてきた。


 生兵法は大怪我のもとというが/、特に注意を払わなければならない/(言葉には)/とりわけ現代では/(どのような時代かと言うと)個人が簡単に(意見を)オープンにできる。/もし(他人に対して)『自分の』意見を示す際、確かなソースがなければ/そしてそれを、まるで自分で作り上げたかのようにすると/酷い経験をするだろう/結局は。/例外はない/たとえ専門家であっても。/専門家ではないことを忘れがちだ/自分の専門領域から外れた場合には。/確かな知識を得ることの重要性を見直すことは大切だ/なぜなら多くの種類の情報を得ることができるから/今の世の中では。


 Although they say that a little learning is a dangerous thing, you must pay attention to your words especially in our time in which every individual can let his or her opinions open. If you tell others "your" opinions without certain sources as if you made up them by yourself, you should have terrible experiences after all. There is no exception even for specialists. They tend to forget not being specialists when they are out of their majors. It is important that you review the importance of your getting certain knowledges because you can get many kinds of information in this present world.


 お、意外と単語自体は難しくない……というか、俺でも大雑把おおざっぱな意味は分かる。そうか、目的語や関係代名詞が原文に見当たらない場合は、自分で補う必要があるのか……。

「いや、勉強になりました」

「そう、ならよかった。あげるわ、それ。本当に手慰てなぐさみに書いただけだから」

「いいんですか? それじゃ遠慮なく。ありがとうございます」

 俺はルーズリーフをクリアファイルに挟むと、バッグの中に丁寧にしまいこんだ。

 駒高は現役・浪人あわせて学年の四分の三が東大や国公立医学部に行く超進学校だが、ガリ勉もいなければ殺伐とした空気もない。これは、地方から出てきた俺の予想を大きく裏切った点だった。

 一部の先生を除けば受験指導もなく、定期テストの順位が貼り出されることもない。というか、期末はあるが中間テストすらない。『特別考査』という三年生向け記述式校内模試も、結果は本人にだけ通知される。だからそもそも、『点数の競い合い』という概念が存在する余地がない。

 むしろ駒高にあるのは、『教えあい』の文化だ。駒高では生徒であっても各教科のスペシャリストがいるため、仲間同士での教えあいが成立する。それは必ずしも一方的なものではなく、自分が得意科目を人に教えれば巡り巡って自分が教わることもあると経験則から誰もが知っている。佳奈子先輩が俺に答案を惜しげもなくくれたのは、駒高では珍しくもなんともない風景だ。そうやって生徒間でリレーのようにつむがれる『知の連鎖』が、この学校を超進学校たらしめている『文化』なのだと俺は思う。

 そんな駒高の文化を体現するようなたたずまいの先輩は俺が返した青本をパタンと閉じ、こちらに目を向ける。俺が来るのを待っていたのか、藤棚の下にある石造りのテーブルの上には手つかずの弁当箱が広げられていた。

 学校中の誰もが、佳奈子先輩の弁当は先輩のお手製だと思っている。だが実はその弁当も、あの的場先生の力作だったという衝撃の事実を俺は今朝になって知った。

無聊ぶりょうが過ぎたわ。せっかくのお昼なのに、いささか無粋な話を聞かせてしまったわね。お食事にしましょう、潤?」

「先輩、委員会本部で食べるのはどうですか?」

「……潤。わたしとお昼を食べるのが、そんなに恥ずかしいの?」

「いや、その……この藤棚、目立ちますし」

「ふふ。あなたのそういう慎み深いところ、嫌いじゃないわ」

 見透かすような眼差しでテーブルに肘をつき、俺を流し見る先輩。俺は顔を火照らせながら、うつむいて先輩の隣に腰を下ろした。

「ほら、いただきましょう潤。ぐずぐずしていると、時間がなくなってしまうわ」

 言って、弁当の箸を手にする先輩。どうやら、何が何でもここで食べるつもりらしい。俺は諦めて腹をくくり、さらし者になりながら昼食を食べることにした――


「ほら、潤。タレがお口に付いているわ。いいこと、動いたらダメよ……」

「ちょ、せんぱ……」

 俺の制止を最後まで聞き遂げることなく、先輩は俺の口の横に舌先を伸ばした。

「ん、美味しいわ」

「ば……ばかっぷる、はんたい……です……」

 俺は弱々しく抗議の言葉を吐いたが、先輩は聞き入れる素振りを見せなかった。そのまま先輩は、俺が強く抵抗しないのをいいことに唇をはむはむとしゃぶり始める。とろけるような甘い香りが、俺の意識をしびれさせた。

 駒高という学校は信じられないほど校則が緩いところで、校内でのキスくらいでは誰も何も言ってこない。良く言えば自由闊達じゆうかったつ、悪く言えば放置プレイの学校と言えるのだが――

「こら、佳奈子。いくらなんでも公衆の面前でそれはないだろう」

 すぱん、と小気味よい音を立て、出席簿が先輩の頭を直撃する。思わず振り向くと、背後には袴姿の的場先生が立っていた。

 先生はあたりに人気がないことを確認し、小さな声で先輩に話を振った。

「食事中にすまんが、訊き忘れたことがあった。私が取り逃がした昨晩の自衛官の件だ。奴の刀のに、間違いはないんだな?」

「ええ。『髭切ひげきり』と言って、茨木童子わたしのオリジナルを斬ったと伝えられる名刀よ。――それがどうしたの?」

「調べてみたのだが、その髭切とやらは神祇院じんぎいんの管理下にあるらしい。つまり――」

「……! 兄さん、まさか」

「ああ、神祇院が防衛省に協力している可能性がある。覚えておいてくれ。……ああ、それから牧原」

「な、なんですか?」

「朝も話したことだが、佳奈子から100メートル以上離れるなよ。もし離れてしまったら、佳奈子はただの女子高生になるからな。命を救われた恩は、耳を揃えて返せ。それが人の道だ」

 先生は俺の肩をポンと叩くと、定例の月曜に続いて臨時に行われる生徒集会のために校舎へと戻っていった。

「まさか……神祇院が動いているなんて……」

 隣の声に目をやると、先輩が緩く曲げた指を下唇に添えながら、けわしい目つきでブツブツと独り言を漏らしていた。

「先輩……あの、神祇院って……?」

「――ああ、潤は知らなくて当然ね。旧内務省の外局として戦前に設置され、戦後にGHQの命令で国から分離した宗教法人よ」

「ということは、もともとは国の役所だったんですね?」

「ええ。全国の神社を管理するのが本来の役割なのだけど、『調整課』という対人外戦闘機関も持っているわ。わたしや兄さんのような人造戦鬼にとっては、防衛省の次に敵に回したくない相手ね」

「な……でも、そいつらの敵は、悪い妖怪じゃないんですか。先輩や先生は――」

「同じことよ。人造戦鬼の人格は宿主となった人間のものだけど、オリジナルの妖怪はたいてい悪い妖怪だから。神祇院の人たちには、区別なんてつかないのよ」

 そこまで言って、先輩は腕時計の文字盤をちらりと見た。

「そろそろ集会よ、潤。ランチタイムはおしまいにしましょう」

「は……はい」

 けむに巻かれた形になった俺は仕方なく、話がよく見えないまま弁当の片付けを始めることにした。

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