第一幕 文明人のテーブルマナー Ⅳ

 俺はつくづく運のない奴だと思う。よりにもよって先輩と手を繋いでアパートの門をくぐった時、ちょうど『あの姉貴』とはち合わせしてしまったのだから。

 手入れをする時間がなかったのか、姉貴のショートカットの髪はいつもの精彩せいさいを欠いていた。

「あちゃー……」

 出勤したころを見計らって黙って荷物を持ち出そうと思ったのだが、どうやら姉貴はギリギリまで俺の帰りを待っていたらしい。

 よく考えたら、外泊について姉貴に連絡を入れていない。当然と言うべきかなんと言うべきか……姉貴は青筋の浮き出そうな表情を隠さず、ゴゴゴゴゴとかドドドドドとか音が出そうな威圧感で俺達のほうに向かってきた。

 姉貴――牧原まきはら美咲みさきの厳格な教育姿勢は、校内で知らない者がいないほど有名だ。彼女は的場先生と同じく英語教師をしており、新卒の教員として今年の四月から駒高に勤め始めたばかりだ。彼女は駒高六十七期のOGでもあり、七十四期の俺とは七つ年が違う。俺は姉貴が駒高に勤め始めるのに合わせ、札幌の公立中から駒高に補欠合格で滑り込んで今に至るというわけだ。つまり、姉貴は母親代わりのお目付役ということになる。

 ざん、と効果音が立つほどの勢いで、姉貴が俺達の前に立ちふさがる。スーツの上着は相変わらず、あふれ出しそうなFカップの胸でパッツンパッツンだ。

 姉貴は腕を組みながらゆっくりと口を開き、底冷えのする第一声を発した。

「おはよう、二人とも。朝帰りのうえ高校生の分際で同伴登校とは、いい根性してるじゃない。――潤、弁解はある? なければ今週末は自宅での謹慎を命じます」

「あ……姉貴、これはその……」

 俺が弁解しようとしたとたん、姉貴の強烈な往復ビンタが飛んだ。俺は赤くなっただろう頬もかえりみず、キッと姉貴を見返す。

「……な、なにしやがるこのバカ姉貴!」

「黙りなさい! お母様から潤の生活監督を任されている以上、私の言葉はお母様の言葉と同義です。あなたはまだムコ入り前で、清らかに貞操ていそうを保つべきだと教えたでしょう? 高一で朝帰りなんて、フシダラにもほどがあります」

 色気のない黒縁メガネをくい、と直しながら姉貴が言う。その姿は、仕事のできる女教師そのものという感じだった。

 その時、佳奈子先輩が後ろから口を挟んできた。

「牧原先生。あの――」

「……なに? 的場さん」

「ナマって……やっぱり危ないですよね?」

 な……! 佳奈子先輩、いったい何を……!

 ぴきり、と音を立てて場の空気が凍る。姉貴はショックでわなわなと握り拳を震わせながら、先輩に問いかける。

「……ま、ま、的場さん。うちの潤と、一体どんなピンク行事を開催したというの? 成人させるまでにいくらかかるか、分かってるわよね?」

「ぷっ。先生、何かカン違いなさってません? 夏のカキの話ですよ?」

 口を手で押さえて、わざとらしく吹き出す佳奈子先輩。

「ま、的場さんっ、あなたっっ!」

 コケにされた怒りに、姉貴の顔色が真っ赤になっていく。姉貴も姉貴だが、先輩も先輩だ。このままでは、駒場を舞台に仁義なき戦いが勃発してしまう。慌てた俺は何とか二人をなだめようと、必死で脳みそを回転させ始めたが――、


「そのくらいにしておけ、佳奈子」


「に……兄さん?」「ま、的場先生……」

「うちの愚妹ぐまいが無礼な口を利いたようですな、牧原先生。どうか私に免じて、許してやっては貰えませんか?」

 振り返るとアパートの入口には、教材入りの風呂敷包みを手にした袴姿の的場先生が立っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る