第一幕 文明人のテーブルマナー Ⅱ

 委員会の先輩である的場佳奈子は三年生だ。俺と同じく駒場に住み、国立駒場高校に通っている。女子にしては長身で、俺より少し背が高い。

 流れるようにつややかな黒髪に、品のいい端正な顔立ち。ときおり覗かせる、どきりとするほど物憂げな表情。抜けるような白さの肌に、ぽつんと浮かぶ左目の泣きぼくろ。そんな彼女はいつだって俺の憧れで――俺は入学以来、密かな思いを抱き続けてきたのだ。

 だが委員会で一緒とは言っても、佳奈子先輩は去年の文化祭で『ミス駒場』グランプリを受賞したほどの器量よしだ。彼女の人気は高く、俺は二つ下のただの後輩に過ぎないはずだった。

 だからこそ、目が覚めたら彼女のベッドの中、というのは俺にとって驚天動地きょうてんどうちの衝撃だった。おまけに前触れもないキスだ。正直な話、いまだに何が何だか分からない。


 先輩はドレッサーの前で髪を手早く整えて簡単な化粧をすると、おろしたての黒いセーラーに袖を通して白いリボンタイを結んだ。俺は寝室の隅に畳まれていた俺の私服に着替え、先輩と一緒に一階の小食堂へと降りていった。

 戦前に建てられたという英国テューダー様式の的場邸は、何もかもが別世界だった。赤じゅうたんの敷き詰められた階段には、ステンドグラスを通した朝陽あさひが暖かく降り注いでいる。凝りに凝った唐草からくさ模様の手すりからして、既に俺のような庶民には全く縁のないものだった。

 二階に置かれた柱時計の音が、湾曲わんきょくする階段に響き渡っている。吹き抜けになっている階段の上の天井からは、いくらするのか分からないシャンデリアがぶらさがっていた。深窓の令嬢然とした優雅な物腰を崩さず、彼女は階段を下りながら口を開く。

「驚かせてしまったわね、潤。あなた、昨晩のことは何も覚えていないのかしら?」

 俺と先輩は階段を下り、左に曲がって小食堂へと向かう。この屋敷には大食堂もあるらしいが、二人暮らしなので今は使っていないそうだ。中庭を横目に歩きながら、俺は意を決して先輩に問いかけた。

「先輩。いったい昨晩、何があったんですか? 俺、何も覚えてなくて……」

 先輩はクスリと笑みをこぼして答える。

「無理もないわ、記憶が混乱しているのね。潤、あなたは昨夜、

「……え?」

 ――殺されかけた? 先輩は何を言っているんだ? だって俺は、こんなにピンピンしているじゃないか。呆然とする俺をよそに、先輩は食堂の扉をすっと開ける。そこには、湯気の立つ朝飯が既に用意されていた。

 流し読んでいた新聞を畳み、袴姿の的場先生がこちらに視線を向ける。俺はうながされるまま、先生の隣に着席した佳奈子先輩の向かいに座った。先生は音を立てて緑茶をすすると、コトリと湯飲みをテーブルに置く。

「牧原。食事の前に、我々を取り巻く状況を説明しておかねばならん。心して聞くように」

「は、はあ……」

「まず結論を先に述べよう。貴様は今日からしばらく、この屋敷で暮らせ」

「……いや、突然言われても困るんですが」

 冗談じゃない。先輩とだけなら大歓迎だが、この変人教師の気配が四六時中近くにあるというのは拷問に近い。それに、佳奈子先輩と一つ屋根の下なんてコトが『あの姉貴』に知られたら、どれだけ怒られるか分かったものじゃなかった。

「馬鹿者、今年の校外学習で貴様らのオイタを見逃してやったのは誰だと思っている? 言うことを聞かんと、オイタの内容をeポートフォリオに詳しく特記してやるぞ?」

「きょ、脅迫じゃないですかそれ……」

 こ……この卑怯者、それでも教育者かよ! 俺が心の底でいきどおっていると、見かねた先輩がやんわりと助け船を出してくれた。

「兄さん、大人げないわよ。わたしからショックの少ないように説明するから。あの仕様書をもらえるかしら?」

「む……お前がそう言うのなら、仕方ないな」

 言って、先生は何やら古ぼけた冊子を俺に渡してきた。シミやら日焼けやらで、お世辞にも綺麗なものとは言えない。

 表紙には、『人造戰鬼貳號計畫 設計圖面集成』という正字――つまり旧字体の文字。そしてその横には、『軍事機密』という赤いスタンプが押されていた。

 駒高では漢文の授業が旧字体で行われるので、かろうじて読むことはできた。『人造戦鬼弐号計画 設計図面集成』と書いてある。

「これは……ジンゾウセンキ、って読むんですか?」

 俺は、目の前に座る先輩を思わず見つめる。先輩は一つうなずくと、口を開いて話し始めた。

人造戦鬼じんぞうせんきというのは、関東軍かんとうぐんが戦時中にハルビンの研究組織で製造した不老の改造人間のことよ。あなたが手に取っているそれは、わたしが人造戦鬼に改造された時に書かれた仕様書ね」

「……は、はい?」

 思わず、マヌケ顔で口をポカンと開けてしまった。

「わたしが人造戦鬼二号、そして兄さんが最後に作られた人造戦鬼三号よ。もっとも兄さんは、物資不足の戦争末期に作られた簡易版だけど」

 ……関東軍。かつて満州と呼ばれた中国東北部に駐屯していた旧日本軍の組織だ。独断専行で張作霖ちょうさくりん爆殺事件や満州事変を起こし、日本を十五年戦争に引きずり込んだ元凶だと歴史の教科書には書いてある。

 だが、あまりにも突飛すぎる衝撃のカミングアウトだ。とてもじゃないが信じる気にはなれない。正直に言うと俺はその時、先輩がどうにかなってしまったのだと思った。そんな俺に見せつけるように、先輩はどこからか硬貨を取り出した。

「論より証拠。潤――あなた、この十円玉をねじ切れるかしら?」

 先輩の白い指に挟まれた十円玉を、穴が開くほど見つめる。どう見ても本物の十円玉にしか見えなかった。……ならばそんなこと、できるわけがない。

「無理ですよ、そんなの」

 俺が黙って首を横に振ると、先輩は小さく笑みを浮かべる。そして次の瞬間、バキッという音とともに俺の目の前で十円玉が軽々とひねられ、みごと二つに分かれていた。

「な――」

 間違いない。まるでチューペットの口をねじ切るような気軽さで、先輩は平然とそれをやってのけたのだ。俺は驚きに震える手で、先輩から十円玉の残骸を受け取る。手の平の上で色々といじってみたが、やはり本物の十円玉だった。

「話くらいは、聞く気になったわね?」

 まさか、本当に二人は改造人間――先輩の言葉を借りるなら、『人造戦鬼』なのだろうか。この話と手元の仕様書が真実なら、二人は現代まで生きながらえた戦時中の『兵器』ということになる。

「これを見ろ、牧原。この手紙が全ての始まりだった」

 先輩の宛名が入った封筒を、先生から受け取る。消印は神奈川県の相模原さがみはらで押されたものだ。俺は先輩に視線で許可を求め、封筒の中身を改めた。差出人の名前は、『防衞装備廳技術研究本部 杉原たかね三等陸尉』となっている。


『前略 的場佳奈子殿

 十月三日〇二〇〇まるにーまるまる、駒場野公園にて君を待つ。身命しんめいを賭す得物えものたずさへ、我らの戰場におもむかれし。 かしこ 防衞装備廳技術研究本部・杉原たかね』


 中には達筆な女文字で書かれた便せんが入っていた。しかしこの異常なほど古くさい言葉は、いったい何のつもりなのだろうか。――思わず、時計に目をやる。午前二時〇二〇〇と言えば、五時間ほど前の話だった。

「これは……?」

「署名にある防衛装備庁技術研究本部ぎほんとは、防衛省の外局に当たる兵器開発部門だ。だがもう一つ、知られていない所掌事務しょしょうじむがあってな。それは、拡散した旧日本軍の特殊兵器を秘密裏に処理することだ。――そう、我々のような『戦争の落とし子』をな」

 先生の言葉を受けて、先輩が続けた。

「把握していなかったのか見逃していたのかは分からないけど、彼らはわたしたちに対して何の動きも見せてこなかったわ。それが最近になって、急にそんなものを送ってきたの」

「だが兵隊を投入して派手にコトを運ばないあたり、奴らも馬鹿じゃない。機械で厳重に警備されたこの屋敷を突破できる兵力を動かしたら、たちまち警察に嗅ぎつけられるだろうからな。それは彼らにとっても本意ではないだろう。それに、たとえ通常兵器を投入したとしても、個人携行の装備で我々を葬り去るのはごく一部の例外を除いて不可能だ」

「……どういうことですか?」

 知らず、先生の言葉に聞き入っている俺がそこにいた。疑いがなかったと言えば、嘘になる。だが手の平の中の小さな金属片が、否定しがたい説得力を俺に与えていた。

 先生はいつのまにか教師モードに入って、得意げに説明を続ける。

「人造戦鬼は、妖怪の体組織を人間と融合させた代物でな。例えば佳奈子に使われたのは茨木童子いばらきどうじという鬼の腕、私のは大嶽丸おおたけまるという鬼の首だ。そして人造戦鬼われわれの特質は、妖怪の強靱きょうじんな力に由来する優れた治癒能力と身体能力にある。生半可な兵力では、人造戦鬼一体たりとも倒せんよ」

 あまりに突飛な話を聞いてあっけに取られた俺を尻目に、先生はふところをガサゴソとまさぐり始める。出てきたのは、駅前にもある大手コンビニチェーンの袋だった。地面に落ちていたのだろうか、ところどころ土のようなものがついている。

「牧原。貴様、この袋を見た記憶はないか?」

 言われてみれば……俺はその袋に、どことなく見覚えがあった。

「あ……そうだ、俺……。夜中に小腹がすいたから駅前でアイス買って……って、あれ?」

 妙だ。午前二時ごろにアイスを買ったのまでは思い出した。だけど駒場野公園を突っ切ってアパートに帰ろうとしたところで、記憶が完全に途切れている。

「今回は関東軍の技術力に助けられたな。貴様は昨夜、佳奈子と杉原三尉の戦いの巻き添えを食って死にかけたのだが、そのとき貴様が体に負った致命傷は跡形も無くなっている。貴様を助けたのは、佳奈子の特殊能力だ」

「……特殊能力?」

 俺が発した疑問を受け、先輩が説明を始めた。

「『遠隔衛生えんかくえいせい』。元々は傷付いた兵士を戦場で治療するために作られた力で、わたしの血を体内に取り込むと、わたしの持つ人造戦鬼の治癒能力を借りることができるの。これを使えば、大抵の傷は治すことができるわ。だけど……今回の場合、少し問題があるのよね」

「な……何ですか、その問題って……?」

 恐る恐る先輩に訊いてみる。先輩はふう、とため息をつきながら哀れむような視線で俺を見た。

「あなたの傷は深かったから、わたしの力で仮にふさがっているに過ぎないわ。わたしの治癒能力は今も潤に流れ続けていて、わたしも少しだけど潤の生命力を対価として受け取っているの。もしあなたが……そうね、大体100メートル以上離れたり、命を落としたりしてその流れが断ち切られたら……わたしは戦うための鬼の力を使えなくなって、ただの女子高生になってしまうの」

「使えなくなる……? 意味がよく分からないんですが」

「水の循環ポンプのようなものだと思ってくれればいいわ。距離が離れると、あなたに流さなければならない治癒能力ちからは強い圧力を必要とするの。でも、あなたから流れてくる生命力は距離に反比例して弱くなっていく――。だから力の帳尻が合わなくなって、鬼の力を発現するための力が足りなくなるのよ」

「じゃあもし、そのとき敵に襲われたら……?」

「間違いなく一巻の終わりよ。だから傷が完全に癒えるまで、潤にはわたしと行動を共にしてもらう必要があるの。一週間もあれば、あなたの傷も完治すると思うわ。だからそれまでは、運命共同体よ」

 ――なるほど、そういった事情で、俺は先輩の部屋で朝チュン……もとい、朝を迎えたというわけだ。

「……では最後に、逆のパターンについて補足しておこう」

 突然、授業のような口調で先生が口を挟んできた。

「貴様の傷が治りきっていない状態で、佳奈子が万が一にも命を落としたとしよう。その場合、貴様もその時点で運命を共にすることになる。覚えておけ」

「う、運命を共にする、って、つまり――」

「飲み込みが悪いな、貴様は。死ぬ、と言ったのだ。およそ死というものは、誰に対しても権利を持つ」

 ――死ぬ。佳奈子先輩が死ねば、俺も死ぬ。今の俺にとって、それは何よりも重い響きを持った言葉だった。

「大まかな説明はこれで終わりだ。何か質問はあるか?」

 ここまで話を聞いて、俺は既に疑問を感じなくなっていた。いや、そうでなければ筋が通らないことが多すぎるのだ。ならば俺は、大切なことを忘れていたことになる。俺は姿勢を正し、相対あいたいする二人に顔を向けた。

「先生、先輩」

「……ん?」

「どうしたの、潤」

「お……俺を助けてくれて、ありがとうございました……!」

 頭を下げてから顔を上げると、なぜか二人はきょとんという顔をしていた。

「我々は、貴様の担任と先輩だからな。当然のことをしたに過ぎん」

「どうして、潤がお礼を言うの?」

「いや、だって……」

 なおも礼を口にしようとする俺を、先生は手に取った箸で押し止めた。

「何も言うな。飯が不味くなる。さあ、時間を予想外に消費してしまった。さっさと食って学校へ行くとしよう」

「いただきます」

「うむ」

 何事も無かったかのように、二人は食事に手をつけ始める。

 俺はしばし言葉を失った後、気を取り直して『いただきます』と手を合わせた。

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