第一幕 文明人のテーブルマナー Ⅰ

東京都目黒区駒場四丁目 的場邸

令和五年十月三日(火)午前六時半


 まぶたを刺す鮮やかな朝焼けに、身をよじる。外には野鳥のさえずりが流れていた。

 開け放たれた窓から、秋の涼しい風が忍び込む。俺はその冷たさを避けようと身を丸め、布団の中に頭を隠した。目の前には、ネグリジェに包まれた豊かな胸がある。――いい加減、俺にも専用の部屋が欲しい。俺達がいつまでも一つのベッドで一緒に寝なければならないのも、東京の家賃が高すぎるからだ。

「姉貴、朝」

 すうすうと、細い寝息が掛け布団の外から聞こえる。仕方がない。俺は姉貴のくびれた腰に手をやり、揺さぶりながら声をかけた。

「姉貴。姉貴ったら」

 うーん、と寝返りを打つ姉貴。無意識にだろうか、俺の体に手足を絡みつかせてくる。息苦しくなった俺は、布団の外に顔を出すことにした。


 ――そこで不意打ちを食らった俺の心臓が、一瞬で反転した。

 なぜなら、寝ぼけまなこで俺を抱きしめていたのが姉貴ではなく……駒高SCC委員会委員長の、的場佳奈子先輩だったからだ。その異常な事態に気付き、俺の鼓動はドラムのように高鳴っていく。先輩は気だるげな仕草で、ゆっくりと目を開いた。

「ん――おはよう、じゅん。昨日はよく眠れたかしら?」

 甘く湿った先輩の吐息が、俺の鼻先をくすぐる。

「な、な、な、なんで――!」

 鼓動を感じ合うほどの距離で、俺と先輩は互いを見つめていた。枕の上にさらりと広がった先輩の長い黒髪が、いい香りをほのかに散らしている。

 少しだけ空気が肌寒い。冷静に考えれば、寝る前に窓を開けていた記憶はない。いや、そもそも俺は昨夜、いつ寝たのか。昨夜の記憶がぽっかりと抜け落ちていた。混乱した頭で首を巡らせ、先輩の部屋とおぼしき空間を見回す。二十畳以上はゆうにあるだろうか、上品な調度類が部屋のあちこちに見受けられる。床に敷かれているのは緑色の花柄カーペット。壁には大理石のマントルピースだ。ということは、ここは佳奈子先輩の住む的場邸ということだろうか。

 俺は絡みつく先輩から慌てて体を離した。それと時を同じくして、なんの前触れもなくはかま姿の男が入室してきた。思わず、ベッドの上で身を起こす。

「おはよう、二人とも。新しい希望の朝が来たぞ!」

「……ま、的場先生……?」

 男は、佳奈子先輩の実兄にして我がSCC委員会の顧問――駒高英語科の的場まとば幹一郎かんいちろう先生だった。常に和装を崩さない丸眼鏡の英語教師で、俺が属する一年二組のクラス担任でもある。兄妹とは言うものの、先輩と三十代の的場先生は一回り以上も年が離れていた。

 的場先生は朝食の料理中だったのか、長物の上にたすきを掛けている。

「もってけ、セーラー服だ。新品だぞ、佳奈子?」

 先生は先輩に真新しい冬物のセーラー服を手渡すと、俺に向き直ってきた。

「ところで牧原。佳奈子の『具合』はどうだったかな?」

「ぐ……具合、ですか……?」

「ああ、喜びたまえ。この私が直々に、『家に来て妹をファックしていい』と許可したのだ。ありがたく思うのだな」

 いつもの平常運転だが、とても教育者とは思えない冒涜ぼうとく的なセリフ回しだった。

「仕度を終えたら、下の小食堂に降りてくるがいい。今日の献立は焼き鮭だ」

「先生。俺はいったい、どうしてここに……」

「なに、焦ることはない。その話は、朝食の前にゆっくり聞かせてやろう」

 先生はそう言って戸を閉め、寝室を出て行った。俺は見知らぬ模様のパジャマを着たまま、起き出してきた先輩と顔を見合わせたが――、

 一拍の呼吸を置いて、先輩の白くすべやかな指が不意打ちのように俺の頬に伸びてきた。人形のように整った顔立ちが、段々と俺の顔へと近づいてくる。

「ちょ……ちょっと先輩っ……寝ぼけて……!」

「ふふ、学ランを脱いでいると女の子みたいね、潤。そんな顔を見ていると、イタズラしたくなってしまうじゃないの」

 彼女は柔らかに微笑むと、俺の両目を片手で覆い隠し、そっと唇を触れあわせてきた。

「ん……っ」

 一方的でアンバランスなキス。俺の口内を知ろうとするかのように、唇と歯茎の間の溝を、先輩のとろけた舌が丹念になぞっていく。意識がぼうと霞み、体の力がだらしなく抜け落ちていくのを感じる。先輩は唇を離して、熱い吐息を継いだ。

「潤。わたしの言うことをちゃんと聞けば、もっと気持ちいいことを教えてあげる。分かるわね、この意味?」

 この上なく妖艶ようえんな物言いに、ぞくりと背筋が揺れる。俺はわけが分からぬまま、考える間もなく黙ってうなずきを返した。

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