二、稚児という曖昧な記憶への憧憬

二、稚児という曖昧な記憶への憧憬


 最も有名で、江戸時代以前の歴史に埋もれた記憶を呼び起こせしめた文献に、今東光の小説『稚児』がある。彼は『稚児灌頂』という儀軌と稚児の扱いと閨房での作法が書いてある『秘伝私』(秘伝を書き出した私的メモという意味か)を比叡山で発見した。

 それまで稚児の存在を伝える資料は古今の著聞、つまり文学にあるだけで、実際に行われた仏閣からのものは長く人目に触れなかった。それが今東光の『稚児』という小説で文壇から世上へ突然、現れたというわけだ。



 『稚児』は戦前戦後の出版事情から数種の版があることは、次に挙げる当時、奈良女子大の辻晶子氏の論文にあるが、完全補遺版『稚児』の冒頭に『弘児聖教秘伝』の伝書、写書の解説がある。今東光という一文学者によってかなり総体的にまとめられているのは驚嘆すべきである。出家して比叡山で遊学したと自分で言っているが、間近にある蔵書と潤沢な時間、漢文、くずし字の古文書を読めるという学識がこの偉業を成させたと言える。




 この論考を行うに当たって非常に参考になったのは、無論、今の原著である、


 +『今東光代表作選集』所収『稚児』


と、辻昌子氏の論文、


 +「今東光『稚児』と『弘児聖教秘伝私』」(CiNii(NII学術情報ナビゲータ[サイニィ]収録)

と、

 +「『弘児聖教秘伝私』再考」(同上)


である。論文では今東光が稚児灌頂の実態を誤認していたと説く。辻氏の二つの論文は資料がよくまとめられていて、素人が各地に出歩いて読めない古文書にあたらなくとも概要が理解できる。インターネットで読めるので一読をお勧めする。

 『弘児聖教秘伝私(以下、『秘伝私』)』は天台宗(比叡山、開祖・最澄)の蔵書文献だが、俗に稚児灌頂を始めたのは弘法大師(真言宗・高野山の開祖)と言われる。



 今東光は『稚児』の中で、小説と「稚児灌頂」についての自分の発見を並行して書いている。戦前に発表された時は出版社の自己検閲で『秘伝私』からの引用は削除されたのだが、稚児を描いた小説は出版された。この小説は明らかに『古今著聞集』の一話からの焼き直しではあるが、脚本的には著聞集(事実からの取材か)より劣っている様だ。それでも今がこの作品の完全出版に拘ったのは、『秘伝私』からの写本がより重要と考えたからに違いない。『秘伝私』からの引用を削除されたことを知った時、今は嘆いたという。また三島由紀夫が小説『禁色(きんじき)』で『秘伝私』の引用を行ったときには、三島が比叡山で禁書である『秘伝私』を読めるはずがないので勝手に俺の本を引用した、と攻撃している。


 今の小説化が原作の『著聞集』より劣っていると言ったが、読んだ人によっては意見の分かれるところであろう。勿論、今東光ほどの文筆家の文章は私などおよびもつかぬが、この小説については私は『著聞集』より勝れているとは言えない。というのは、和歌の配置に違和感があるしその出来もどうか、と思う。また蓮秀法師が新参の阿字丸を宴会の半ばで閨に連れ去ったと描いているが、灌頂を承けた稚児が「新参」でありうるのか、『秘伝私』には灌頂前の稚児と交わるのは禁止とある。『著聞集』のような古文学にはそもそも「稚児灌頂」という儀礼の臭いはしない。『著聞集』の作者がそのような儀礼を知らずに描いたのかは曖昧のままである。今東光の脚色はそれを狙った脚本とは思うが、今自身、小説としての出来より『秘伝私』の内容を公開することのほうが優先だったのではないか。


 さて、このようにすでに現代においては実態のない「稚児」という概念を説明するのに、今東光以前にも「慈童説話」や天皇即位儀礼などの研究者が解析を進めていたのであろうが、その稚児の実情はどうだったのだろうか?と言う問いに答えてくれるものはないように思える。


 例えば100年ほど前までは確かに存在した武士という人々の話は色々小説、舞台などになっているが、では彼らの肉体的、精神的な真実はどうだったと考えると、当人に聞くわけにも行かず、映画などで見る侍姿が我々の歴史感として無意識に浮かんでくるのではないか?それは間違った姿であるかも知れないのだ。

 武士については、興味があれば、現在まで残っている古武道の身繕い、身のこなし、修行の有様が多少でも残っているのでそこから追求していくことはまだ可能であろう。宮本武蔵『五輪書』にはかなりの情報が含まれている。また武士社会の経済、家のあり方も研究によって正しい見方をすれば分かると思う。


 だがここで論じている「稚児」の情報はかなりの時間の間(はざま)に失われており、稚児灌頂を受けた、授けたという宗教家も存在してはいないであろう。江戸時代まで行われたのかも定かではない。


 ただ、日本人という民族の特徴であるが、古いものをそのまま継承する素敵な癖がある。古代の名残は各地の古い神社仏閣に残っている。祭りの時に、周りに住む家々から着飾った稚児姿の子供を行列など出す。観光の目的もあるだろう。今は女の子も参加している。


 春日大社の「春日若宮おん祭(おんまつり)」には神聖な影向(ようごう)の松の木の下を稚児が馬で通り退出する儀式も残っている。その様子をWikipediaから引用してみよう。



「この松の下を通りお旅所へ参入すると、十列児(とおつらのちご)は馬より降り、装束の長い裾を曳きつつ馬を曳き芝舞台を三度廻り、馬長児(ばちょうのちご)は馬上のまま三度舞台を廻って退出する。この時、ひで笠に付けた小さな五色の紙垂を、大童子(だいどうじ)が神前へ投ずる」(春日大社公式サイト 春日若宮おん祭 松の下式 より)


 ここで注目していただきたいのは、十列児と馬長児という稚児の身分差である。前者は馬を降り、後者は降りないというのは身分の差であるように思える。歳の違いとも考えられるが、貴族、武家の出自が人生を決める中世ではどうであろうか?身分の低いものが歳が長けているということで馬上におれるだろうか?

 これは後で私の論考の中心となる。


 全国のこのような儀典をまとめて研究したら面白い。


 我々は、「稚児という生き物」が男色の対象であったとか、高貴な恋愛をしていたとか、僧たちの慰みものであったとか、色々想像たくましくすることが楽しく、反面、その被搾取の哀れさや児童虐待の是非などにも言及されるのだが、果たしてどの認識が正しいのか間違っているのかは論じるのは難しいように思える。『秘伝私』や『児灌頂』の古文書を読んでも分からない。


 性的虐待、児童虐待かと言われるとそうかとも思い、茶花、和歌、文学などの知識を持った文化の担い手候補だったとも言われるとそうかと思う。これらの書物で記録されるのは、稚児が成長して僧になるか、あるいは還俗して生きるかなどの数10年の詳細ではなく、ある人生の軌道の切片であるということを考えると、人が考え得ることはすべからくある時は真実なのだろうと思えるのだ。

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