三、密教伝来説と稚児の発祥の原因
『児(ちご)灌頂式』あるいは『児灌頂次第』、『弘児聖教秘伝私』等の稚児に関する古文書は今東光が見つけた天台宗の各地の寺院にあるものが殆どの様だ。比叡山には天海蔵書とか真如蔵書がある。だが、『弘児』の「弘」は広めるという意味と「弘法大師」に引っ掛けているような気がする。「秘書」である秘伝を「弘める」とはとんだ冗談である。この一事は私にとって目の付け所となった。
辻氏の前出の二論文の結論は、『弘児聖教秘伝私 再考』(平成24年)の結びにある。この書は「他の児灌頂伝書本(ちごかんじょうでんしょほん)とは性格を異にし、児に関する諸説を雑纂(ざっさん)した資料であることを確認した次第である」とあり、私も大いに首肯するところである。私には「弘」の字が、僧侶の男色行為の責任を”あはれな”弘法大師になすり付けた証拠と思える。
(「梁塵秘抄」に”弥勒菩薩はあはれなり”、という今様一歌がある)
弘法大師は真言密教・高野山の開祖である。天台宗の開祖は最澄であり、この二人は興味深い関係にある。
先に遣唐使から帰ってきたエリート、最澄は朝廷に庇護され比叡山を開いたものの、後から膨大な経典とその解釋を持ち帰った天才、空海に灌頂を承けている。つまり年上の最澄は空海の弟子なのである。それが稚児発祥の何なのかと言われると、詰まってしまうが、空海は唐にいるとき、真言八祖の一人と言われる恵果(けいか)和尚に師事しており、この恵果和尚の肖像は常に「侍童」とともに描かれていた。
これをもって唐の恵果和尚に稚児の発祥を見るとは言えないが、もし空海が稚児を「観音」とする稚児灌頂の教義を教わったとするならば、恵果翁からと邪推する。
ということで真言宗と天台宗は稚児に関してはその発祥ということは概ね正しいのではないかと思う。
小児愛者や理性でその欲望を保っている性癖の人は現代と同じく、古代にもいたということは事実としてもいいだろうか。そういう輩が天台宗の僧にいて、この”稚児制度”も言えるものを観音信仰を盾にして強力に推進したとも考えられる。
空海も最澄も、また後世の名だたる僧たちは、記録では生まれは高貴なあるいは上流階級の出身である。そうでなくては簡単に仏門に入って修行三昧は出来ないだろう。発願(ほつがん)発起して仏道に入ったなどとあるが、一夜にしてそういう決心をしたとは考えにくい。仏寺で幼年の教育を受けていたと言うことは極言ではあるまい。なぜなら、寺は古代から学問の中枢であり、良家の親としては跡継ぎである子息を寺院で教育してもらうことは想像に難くない。しかし、仏の道を説く経文を読み解くには生半可な漢字の知識では不可能だ。時間をとって教導してくれる師も必要である。修行は漢字を読み解くだけでなく、そのまた古代インド、中国からの碩学の知恵の継承である。その修行と学習に耐えうる才能は子息たちの人生をふるいに掛け、大きく変えたであろう。
ここで稚児が「稚児」となれるであろう環境について論考をしておく。
古代、中世で神社仏閣は領地を持っていた。
荘園から始まり封建領主になった。領地を守るために武力を養った。中世の比叡山や高野山は一つの国であり自治体だったことは事実である。頂点は権威の象徴である皇室や公家の眷属であり、それを固めるのは利害関係と実力のある檀家出身の高僧であっただろう。
そしてそのピラミッドの下には武士、商人、百姓、奴隷と多くの人々がいた。比叡山や高野山に登ると多くの塔頭があり道場があり、食堂、浴場がある。ピラミッドの上の層たちが下働きをするはずはない。誰がやったか。奉公人、下人、奴隷達だ。そして階級の低い家から下働きに出ている小坊主もいただろう。
『秘伝私』を読み解いて辻氏が指摘する点は、「灌頂を受けた稚児は一人の上司の僧と通するのではなく、多くの僧達とも通じた」とある。ただ、これは「すべての」稚児がそうだったのかという問いには答えられていない。稚児灌頂を受けられる稚児にはそれなりの条件があったはずだ。その理由は、儀軌に従えば人手が要る、仏具荘厳、衣装、化粧などへの金が要る。親族からお布施を取る口実にもなっただろう。
そのような儀式をわざわざするにはやんごとなき条件があっただろう。西鶴の『男色大鑑』『中脇差は思いの焼け残り』の条に、高野山の坊主が形だけ稚児にしたてた少年を伴っていた、との描写がある。おそらく身の回りの世話や夜の伽に檀家から徴収した子供であろうが、彼が稚児灌頂を受ける階級とは思えない。
稚児灌頂に関する比叡山の蔵書は『児灌頂口決相承』などの儀礼の規範と『秘伝私』が合わさっている形で、『秘伝私』は後代に誰かによって付け加えられたのであろうということが辻氏だけでなく今東光によっても推測されている。
なぜなら、前者は真面目な(?)儀軌であり、後者は稚児のお尻の名称や指による「今日は良いよ」、などの「暗号」をごたいそうに書いたものであり、それは私にとっても明白である。
稚児と通ずる次第を弘法大師や恵心僧都源信のせいにして、事細かに勝手な指使いを書き上げてにんまりする脂ぎった偽善坊主を想像する。あるいは私と同じもの書きのはしくれかも知れない。
「稚児の発祥の原因」というと少し構えて論じることが必要だ。
ある人が言うように、稚児とは寺院にて僧たちの性処理を担う哀れな犠牲だったのだろうか。「健常」な少年にとっては耐え難い恥辱と苦痛であったかも知れない。だが稚児になる少年も色々な性格を持っていただろう。武芸を嗜む稚児の話も読んだことがある。また、『稚児草紙』という書物の稚児の絵を見たことがあるだろうか。『稚児草紙』に描かれている稚児はまるまると太り、相手をする僧侶よりも大きく描かれていることが多い。ここに描かれている稚児は「大勢の」僧を相手にする役割の稚児なのかも知れない。私はこれを「中稚児」と呼ぼう。高貴な生まれで正式な稚児灌頂を受けることができる稚児は「上稚児」と呼ぶ。
キリスト教寺院の天使像は、容姿、肉体が女性的である場合が多い。(どなたか異論のある方はいらっしゃるだろうか?)また仏像も腹の部分や腰つきが女性的であるものが多い。よく言われるのは、女犯を禁じられた僧侶の欲求が芸術家、仏師によりそう造形せしめたということである。日本、古代中国では慈童、稚児という形に発展したのかも知れない。最近の情報ではローマ法王庁の僧侶の多くがゲイであるとのアンケートがとれた、などということも言われ、教会が経営する孤児院で児童虐待が繰り返されていたという事実もあったようである。古今東西、人間の鬱屈した性欲が繁殖以外にも発揮されることは変わらないようだ。
ということで、稚児の誕生ということは、女犯を禁じられた成人した男の性欲求に応えるものだ、ということはかなり信憑性があるように思える。血気盛んな若い僧侶達の相手をしたのは、主に中または「下」があるならばそういう稚児ではなかろうか。
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