一、男色文化の潜伏の理由

 明治維新から公けに「男色(だんしょく)」のラベルが貼られたものは文化の底に潜ってしまった。

 男の同性愛が盛んだったと言われる薩摩藩が政府中央に進出しても、その習風は表立たなかった。男色が文化の底辺に潜伏してしまった理由を考えておくことは、これからの論考への心の備えに良いことだろうと思える。読者からも意見を伺えればうれしい。理由として思い浮かぶのは、例えば、


 一、富国強兵策に繁殖がない同性愛は忌避された。

 一、当時の来訪した欧米の高官は婦人同伴で社交界を形成し、欧米の文化を追う政府の役人たちは男色の匂いを消さざるを得なかった。

 一、武人の同性愛は愛というより戦いに赴く時の連携の絆であり、生まれついての武家の間でのことであった。明治以降、武人は兵士と置き換わり、出自に関係なくなり、駆り出された農民などは女色を好んだ。

 一、井原西鶴の「好色一代男」の例を持ち出すと、世之介の体験した女色と男色の比率は七対一ぐらいと書いてある。西鶴の勘所の数字で、西鶴と同じ町人人口の感覚であろう。それに対する百姓の古話には、祭りの夜、暗闇の中で無差別な男女の交合があったということが多々ある。これは豊作の時は働き手としての子沢山を意図しているのかも知れない。詳しい情報は他に任せるが、百姓と町民の人口比率を考えてみる必要がある。

 一、高級な遊びを行える郭においては女郎を作るより男娼を作るほうが難しかっただろう。なぜなら女性の脂肪に富み、柔らかな肉體は「作らなくて」すむからである。また性格的に男娼に適した男性は女性よりも遥かに少なかっただろう。

 一、上の続きであるが、江戸、明治初期の町人が男色・女色のどちらも選べるバイセクシュアルとしても、表向きは嫁を取り、子をなすことが普通だった。


 などなど。


 だが、明治以降の同性愛、男色の記録は多く、知的レベルが高い小説家、歴史家(特に中世以前の研究をした例えば折口信夫など)、学者(例をひくまでもないが南方熊楠など)等により静かに残されていた。岩田準一などのように在野で男色文献の蒐集に一生を捧げた人間もいるがその拠点が三重の鳥羽ということもあり、かつ研究発表がしづらい時代環境などで目立たなかった。

 そしてそれを出版し読んで大切にしてきた人たちも忘れてはならない。


 タブー視されてもなおその血脈は絶たれず、その蓄積の結果、我々は明治以降の文人達の性癖を知ることが出来る。

 海外の文学に目を移しても古今の文学の天才達に同性愛者あるいは疑われる作家が多いのは事実だ。さらにこの文章を読むような人は興味を持ってそういう文化を水面下で楽しんでいる人に違いない。

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