赤い約束

桜々中雪生

赤い約束

 毎年、彼岸花の咲く頃になると思い出す。ずきんずきんと鬱陶しい頭痛とともに。


 夏の終わり、息子が死んだ。近所の若い女性に殺されたのだ。ペドフィリアだったという彼女に、両の眼球と陰茎をがれた無残な姿になって、山の奥で発見された。小さな小さな村では、事件はあっという間に知れ渡った。「気の毒に……」そう言いながら野次馬の目で息子の墓前に手を合わせに来る老爺、「ほらあすこが例の……」「あぁ、あの事件の息子さんのお宅? 怖いわねえ」尾ひれはひれのついた噂だけを聞いて、コソコソと聞こえよがしに耳打ちをする中年の女たち、「あそこの家に近づくと、もがれるぞ!」巫山戯ふざけて家の前を駆け抜ける子どもたち……。


 あれから、俺の暮らしは、家族は、めちゃくちゃになった。何もかも歯車が狂い、崩壊の一途を辿った。妻は毎日泣き続けていたが、ひと月ほども経つと、号泣の合間に気が狂ったようにけたけた笑い出すようになった。あまりに悲痛な笑い声は家中に響き渡っていて、俺は我慢がきかなくなって、酷くなじってしまうこともあった。すると決まって妻はピタリと笑うのをやめ、すとんと表情の剥がれ落ちた能面になって、左右にぐらぐら揺れ始める。しばらくするとまた泣き始め、声を上げて笑い、泣き、笑い、泣き、笑い……。思い出しただけで怖気おぞけがする。はじめの頃は、毎日泣き濡れながらも俺が部屋に運んだ飯を食ってはいたが、その内、飯を食うことすらなくなり、息子が死んで三月みつき経った頃だろうか、あいつもぽっくり逝った。痩けて皮と骨だけになり、髪も脂にまみれてきしんでいた。親父も、もう歳ではあったが、息子が死んでからは目に見えて老衰していき、ある日、ふらりと家を出てから帰って来なくなった。だだっ広い一軒家に残されたのは俺ひとり。仏壇の前にだらりと座る。供えていた林檎が腐りかけている。潮時か、と思った。ここに俺がいる意味は、もうないのかもしれない。俺のたったひとつの宝はいなくなった。最愛の妻も、尊敬していた父親も。背中の力を抜いて重力のままに寝そべる。無邪気な遺影が、半月の目で俺を見下ろしていた。

「……俺もそっちへ連れて行ってくれよ」


 夢を見た。息子が真っ赤に群生した彼岸花に埋もれて微笑んでいる。息子にも散っている赤は、花の色なのか、血の色なのか。俺のいる位置からは判別できないが、少なくとも苦しそうではなく、穏やかな笑みだった。今は、楽になれたのだろうか。苦しみからは、解放されたのだろうか。痛かったろう、怖かったろう。せめて、そこで穏やかにいてくれればいい。いっぱいに開いた彼岸花が、血塗れの肋骨に見えた。ざあっと風が吹いて、花弁が舞った。ああ、突き刺さってしまう。俺に、あいつに、尖った骨が。焦燥に駆られて手を伸ばそうとする。手の届かない場所にいた息子と目が合った。そこには両の目が揃っていて、俺をしっかり見据えていた。

 ――おとうさん

 唇が動いた。声は聞こえないが、確かにそう言っていた。

「お父さん」

 今度ははっきり聞こえた。囁くような声なのに、はっきりと。

「こっちへ来ちゃだめだよ。まだ、来ちゃだめ」

 花弁を、髪を、巻き上げる風の中、やけに大きく聞こえた息子の声は、俺への拒絶を示していた。強い瞳は真っ赤な彼岸花を映して、燃えていた。視界が毒々しい赤に埋め尽くされて、息子の姿は消えた。


 現実離れしているのに妙に生々しかった夢から醒めた後、俺は、赤ん坊の頃から過ごした家を売り払って、遠くの町へ引っ越すことにした。住み慣れた家を捨てることに寂しさを感じないでもなかったが、あんな瞳で来てはいけないと息子に言われては、行くに行けない。向こうへ引きずられそうになるものは、すべて絶つことにした。大方のものは処分した。モノは必要ない。モノに浸った懐古は要らない。必要なのは、俺たちは確かに共に生きたのだと、覚えていることだけだ。空っぽになった家から身一つで出る。道中で、何本か花を手折った。



 墓前に供える花としては相応しくないかもしれないが、息子には一番よく似合うと思う。彼岸花をそっと手向けて、あいつに手を合わす。

「お前の言うように、もう少し頑張って生きてみようと思うよ。お前も、お前の母さんも、みんな死んじまったけど、みんなのことを覚えていたいんだ。お前らが生きてた証拠は、全部ここにあるんだから。俺が死ぬときは、思い出が全部なくなったときだ。だから、もう少しだけ、母さんたちと一緒に待っててくれ」

 俺は、息子の幼馴染の女の子の、中身の空っぽの墓にも彼岸花を手向けて手入れのされていないぼうぼうに雑草の生えた墓地を後にした。燦々と降る陽射しが、息子の笑顔に似ていた。

 さあ、故郷とはさようならだ。新しい地で生きていく。不要な思い出は捨てて、必要なものだけ胸に抱えて、俺の命が尽きるまでは。

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