遅咲き鬱金香の花咲く日

 うららかな春の日。

 麓乎とのディト。

 新しい黄緑のすかーとに、貰った紅いりぼんをきちんとつけて、金香は向かった。

 今日の麓乎は和洋折衷だった。薄水色の着物の中に、黒いシャツを着ているが初めて見る服であった。真新しいのがわかる。

「きみが以前、『先生は和服も洋服も似合いますね』と褒めてくれたことがあったろう。だから今日は、そうしておこうと思ってね。両方を取ってみたよ」

「はい。とても素敵です」

「有難う」

 そのようなやりとりのあとに、「私らしい格好でいたかったから」と付け加えられて、金香はなにか不思議に感じた。

 確かにすーつよりもこちらのほうが麓乎らしいけれど。

 そして当たり前のように金香の服も褒めてくれた。「新しい洋服だね。とても似合っている」と。

 言われてぱっと金香の顔が輝く。

 麓乎が褒めてくれるのはわかっていた。

 なにしろ珠子が見立ててくれたのだ。似合っていないはずがない。

 自分でも『似合う』と思えたのだし。しかし一番褒めてほしいひとの声で言われれば、一番幸せである。

「ありがとうございます!」

 「では行こうか」と手を差し出されて金香はその手を取った。手を引かれて道をゆく。

「今日はどちらに行くのですか」

 歩きながら金香は尋ねた。

 今日はどこへ行くよ、ともなにも言われていない。

 しかしそれは教えてくれなかった。秘密だと笑って麓乎は言う。「お楽しみだよ」などと言って。

「……では、楽しみにしております」

「ああ、期待しておくれ」

 今日の麓乎はなにか、風呂敷包みを抱えていた。金香の手を握っているのとは逆の手、腕に。

 入っているものはなんだろう、やわらかそうに見えたがなんなのかはわからない。

 あれも今日のお出かけに使うのかしら。

 金香は思ったが、あとでわかるだろう。それきり気に留めなくなってしまった。

 しかし、連れていかれて着いたところでは仰天した。

 立派な車が停まっている。

 町中で時折見たことはあったが、「これに乗っていくよ」などと言われたものだから。

 車など乗ったことがない。

 焦げ茶色の外観をしたそれは、お金持ちしか使えないもの。自分に縁があるとは思わなかった。

「お、お車で」

「そうだ。歩いていくには少し遠いから」

 初めての乗り物に戸惑ったものの、先に乗り込んだ麓乎に手を引かれて、段に足をかけてのぼって、中に入った。

 中には長椅子がある。それも紅い天鵞絨(びろうど)のような、立派な布がかかったものだ。ここに座って乗って行くのだろう。

 準備ができて、麓乎が声をかけて車は動き出した。するすると進んでいく。馬車に乗ったことはあるが、それとはまるで違っていた。

 ついている小さな窓からは、町の人たちがこちらを見ているのが見えた。

 車は珍しいのだ、当然だろう。

 普段だって自分も車がそばを通ればそうして見てしまう。

 しかし今はそれに乗っているのだ。

 車はすぐに町を抜けて外へ出た。驚くほど速い。

「便利なものだね」

「は、はい」

「そのうちこういうものも普及していくのだろう」

「そうですよね。珠子さんも『これからは洋式になるのよ』とおっしゃっていました」

 しばらくは身を固くしていたが、徐々に緊張も解けていって、麓乎とそんな会話を交わす。

 乗っていたのはそれほど長い時間ではなかった。

 が、随分遠くまできてしまったようだ。

 知らない場所。

 町を抜け、自分の家も寺子屋も通り過ぎた、もっともっと先だ。

 辿り着いたそこには一面の花畑が広がっていた。



「では、一時間後に」

 車を降りた麓乎は封筒……料金だろう……を車夫に渡して、そう言った。一時間後にまた迎えに来てくれるということらしい。

 その間にも、金香は目を奪われていた。

 とてもうつくしい。

 いろんな花が咲いているようだったが、特に目についたのはチューリップだった。

 たくさん植わっている、色とりどりのチューリップ。

 すっかり春だ。チューリップの花たちは春の訪れを喜んでいるかのように、良く開いて陽のひかりを浴びていた。

「綺麗だろう。今が見ごろだ」

「……とても美しいです」

 やはり手を引かれて花の間の道をゆく。

 ほかにひとはいなかった。町から少し離れているためだろうか。

 二人で花の咲き誇る中をゆくうちに、思い出した。

 初めて寺子屋で麓乎を見たとき。

 花のようなひとだと思った。

 派手に咲く花ではない。野にたおやかに咲く一輪のようだと。

 まるでその一輪がたくさん咲き誇り、包まれているようだと感じてしまった。

 歩くうちに麓乎が言った。金香の思っていた、出逢ったときのことを。

「初めて逢ったとき、文を書いたろう」

「……はい。そうでした」

 麓乎に言われたのだ。

 「きみもなにか書いてみるかい」と。

 初めて交わした言葉。

「あのとき男の子が『大切なひとは、お母さん』と書いて、きみは『寺子屋の皆が大切』と書いたけれど」

「はい」

 会話の途中だったがひらけた場所へたどり着いた。広場のようになっている場所だ。

 小さな広場はチューリップに囲まれていた。

 本当に花に包まれてしまった、と思ったのだが。

 立ち止まった麓乎は金香の手を離して、抱えていた風呂敷包みの結び目をほどいた。

 出てきたものに金香の息が止まる。

 それは桃色の薄紙の上から透明な紙に包まれ束ね、根元を紅いりぼんでくくられた桃色のチューリップの花束だった。何本あるかもわからない。

「私はきみに、大切だと思える家族をあげたい」

 なにも言えずに花束を見つめてしまった。

 家族。

 それは金香にとって、特別な言葉だった。

 父親に新しい伴侶ができて、独りぼっちになった気持ちになって、泣いた日。

 あの夜、麓乎は一晩中、傍に居てくれた。

 それだけでじゅうぶんだと思っていたのにそれ以上だ。

 視線をあげると、焦げ茶の瞳と視線が合った。

 やさしい色。

 ここに生きるたくさんのチューリップを育んでいるような、大地の色だ。

「ピンクのチューリップは『誠実な愛』。私はそんなきみに誠実な愛を誓うよ」

 出逢ったときから惹かれていた、低音ながらやわらかくて優しい声で言われて、金香は理解した。

 一生のことだ。このひとが傍に居てくれるのは。

 あの夜言ってくださった、「私はきみを独りになどしない」。

 その気持ちを形にして、今ここで贈られようとしているのだ。

「そんな、私は、……麓乎さんになにもあげられていないのに」

 やっと口に出した声はかすれてしまった。金香のその言葉はやわらかく否定される。

「そんなことはない。私はたくさんのものをいただいているよ」

 小さく首を振り、花束を撫でる。

「きみという愛するひとの存在自体もそうだし、愛する人を想える幸せも、きみに触れる権利も、なによりきみの真摯な想いを。それでも『なにもあげられていない』と?」

 返す言葉もなかった。

 そんな些細なことだというのに、と思って金香はすぐにその思考を否定した。

 きっとそれは『些細』などではない。なにより大きく、大切なことだ。

 金香の気持ちをすべてわかった、という声で願われる。

「きみも、私の家族になってくれるかい」

 ぐっと喉元まで涙がこみあげた。

 しかし今度のものは、悲しみやさみしさ、恐怖からではない。

 有り余る、幸福感からのもの。

 しかし泣くよりも金香は微笑(わら)った。

 答えなど決まっているのだから。

「私で良ければ、よろこんで」



 渡されたチューリップはしっかりとした存在感を持っていた。

 そのチューリップごと金香を抱きしめ、麓乎はやっと教えてくれる。

「チューリップを、和語でどう書くか知っているかい」

 金香は知らなかった。

 『チューリップ』とは外国の花であり、『チューリップ』という名前しかついていないと思っていたので。

「存知ないです」

「そうか。やはり知らなかったのだね」

 ごく近くで麓乎の声が聞こえる。

 心地良かった。

 触れた体のあたたかさも、香りも声も。

「チューリップの和名は『鬱金香 (うっこんこう)』。漢字だと三文字で書く」

 今は書くものがないからだろう、麓乎は口頭で説明してくれた。

「はじめの字は、『憂鬱』の『鬱』だね。これはあまり良い意味ではないかもしれない」

「……そうですね」

 確かに『憂鬱』は、良い感情ではない。

 が、その続きに金香は仰天した。

「それに続くのは、きみの名前なのだよ。黄金(こがね)の『金』に、香りの『香』だ」

 一瞬で悟った。

 少し前に名前の話をした。

 そのとき麓乎が「それに、『金』と『香』が繋がるのも良いところだ」と言ったこと。

 その本当の理由に。

「お父上か、お母上か。それを知ってきみにこの名をつけたのかはわからないけれど。私はきみと初めて逢ったときに思った。『鬱金香』の、つまり『チューリップ』の全般を表す花言葉のように、思いやりに溢れた人だと」

 今度こそ、涙がこみ上げて零れた。

 あのときから既に自分は独りではなかったのだ。

 知れたことが幸せだと思う。

 教えてくれたのは麓乎だ。

 そしてこれから傍に居てくれるのも。

「そんなきみと共に在(あ)れるのであれば、私も独りではないのだから」

「……はい。独りになどしません」

 涙は麓乎の胸元に吸い込まれていく。

 これから泣くことがあっても、独りで零すことなどないのだ。

 鬱金香を咲かせる大地のように、包み込んでくれるひとが居るのだから。


 (完)

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遅咲き鬱金香(チューリップ)の花咲く日 白妙 スイ@書籍&電子書籍発刊! @shirotae_sui

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