春間近

 寒さも徐々にぬるんできた。まだまだ寒い折だが、確かに春が近づきつつある。

 庭の梅の花のつぼみもほんのり色づいてきて、もう少し経てば開くだろう。ここしばらくの金香の楽しみはそれであった。毎朝外へ出て、少しずつ膨れていくそれを見る。

 梅は好きだった。

 紅い梅、白い梅。

 どちらも味わい深い。

 花を見ると、秋に麓乎と『ディト』をしたことを思い出す。

 あのとき見たのも紅い花だった。薔薇と、そして椿。

 そして、麓乎から貰ったのも紅。

 紅のりぼん。

 角度を変えればきらきらと控えめに光る、美しいりぼんだ。

 今でも大切に、鏡台の中にしまってある。

 あれから二度ほどつけた。勿論麓乎と出かけるときにである。

 そのたびに麓乎はりぼんを見て、「やはり似合うね」と目を細めてくれるのであった。

 今度はいつお出かけができるかしら。そのくらい麓乎と出かけたり、また『ディト』に行くことも頻繁になっていた。

 しかし遊んでばかりいたわけではない。

 毎日のように麓乎、師(せんせい)としての存在から課題を出されていたし、それも一段上がっていた。

 一週間かけて、ひとつの話を書くように言われている。

 課されたものは、半紙に二十枚。先生であれば一日で書き上げてしまうような量であるが、そのような領域は当たり前のように遠かった。

 三日目に、その時点での進捗を提出する。

 先生にアドバイスをいただいたり、直していただく。

 そして一週間後に完成品を出す。添削していただく。

 二段階の課題であった。

 一日に一時間で書くものよりそれは難しい。

 なにしろ半紙に二十枚だ。一日に一時間であれば、半紙に五枚いけば良いほう。

 それを四倍にも膨らませる。表現を引き延ばして誤魔化すなどできない長さ。

 きちんと話を組み立てて、脈絡の通るようにしなければいけない。

 おまけに二十枚を越しても駄目だと言われている。

 短すぎても駄目。長すぎても駄目。

 毎日金香は頭をひねりながら、下書きの半紙と向き合うのだった。

 そんな修行の日々ではあったが、良い知らせもあった。

 秋に出した冬季賞の結果が出た。

 新人賞のときのように皆で先生のもとへ集まり、賞などの発表をされた。

 今回やはり賞は貰えなかったが選評は貰うことができた。

 一度目が幸運だったのかもしれないが、一度選評に入ってしまった以上、あのときより悪い評価、つまり完全なる落選になってしまっては情けない。

 よって圧を感じていたのだが、発表の頁を見て、ほっとした。

 おまけに前回より選評は長かった。やはり何回も読み直してしまって、そしてやはり先生は褒めてくれた。先生としての顔で。

 そのあと麓乎としての顔で。

 そのとき、この先の話が少し出た。

「名前はどうしようか。今ならまだ変えられるだろう」

 確かに初めて賞に応募するとき、ペンネームというものを使うかという話をした。

「このままで良いです」

 すぐに答えた金香になにも言い返すことなく、先生は頷いた。

「そうかい。ではそうしよう」

 そのあとは先生ではなく麓乎という恋人という存在に変わって、二人でお茶を飲んだ。

 話題はそのまま名前だったけれど。機嫌よさげに麓乎は言った。

「私はきみの名が好きだからね。良い意味があるだろう」

 名前を褒められればやはり嬉しい。金香がお礼を言う声も明るくなった。

「『巴』は、繋がりを示す意味だね。円を描くだの色々とあるけれど……『ひととの繋がり』を表している解釈が私は好きかな」

 金香は背筋を伸ばして言う。

「はい。……もう、独りではありませんから」

 「おや、随分自信がついたね」と麓乎はくすくすと笑った。

 自己評価の低いところがある、と言われたり。

 はたまた、父親に新しい伴侶ができて不安になったり。

 そのような、通ってきた道のりを思えば当然だろう。しかし誇らしいことだ。

「『金香』も良い名前だ。響きが良いし、『金』も『香』も美しさを表す字だね」

「ありがとうございます」

 名前も褒められた。

 自分でも好きな名前なのだ。女性らしい響きを帯びていると思う。

 ほかに同じ名の女性に出会ったことがないことも『自分』という『個』を感じられるのだ。

「それに、『金』と『香』が繋がるのも良いところだ」

 しかし次に言われたその言葉に、金香はきょとんとしてしまう。

 確かに良い字であるものの、麓乎の物言いは、『繋がることでなにか意味がある』という様子だったので。

 金香がわかっていない、と見てとったのだろう。おや、という顔をした。

「知らないのかい?」

「……なにかあるのでしょうか」

「いや、……『良い』とだけ知っていれば良いよ」

 ちょっと黙って。

 しかしそれに続く言葉はなかった。

 あったのだが、多分それは、麓乎の意図とは違ったものであっただろう。

「なにしろ特別だからね。最初から名前で呼びたいと思っていた」

「……ありがとうございます」

 はぐらかされた。

 思ったものの、金香は追及しなかった。麓乎が『良い意味がある』と評してくれたことだけでも単純に嬉しかったので。

「実は、志樹がきみを、私より先に名前で呼んだことに嫉妬したのだよ」

 ふっと笑って打ち明けられた。たまに見せる、子供のような眼をして。

 金香は驚いてしまった。

 確かに初めてこの屋敷にきた日。

 麓乎の兄であり、弟弟子である志樹を紹介されて、他人ではないのだから名前で呼んでいいかと訊かれて、そして名前で呼び、呼ばれることに決まった。

 そのとき、麓乎は「私は仲間外れかい」と言ったのだ。

 あれが嫉妬だった、なんて。

 確かにあのとき既に、それを子供のような言い方だと思ったけれど。

 しかし、単にそういうことを気にするだけだと、そのときは思っていた。

 それが嫉妬という感情だったと言われて驚いた。

 このひとはそんなこと、思わないと思っていた。金香より随分年上で、立派な大人で、堂々としていながら穏やかなひとで。

 ああ、でも完全な存在ではない。苦手なものだってある。

 たとえば、犬。

 ほんの小さな子犬にも遭遇したくないと思ってしまい、道を変えたいなどと言い出すような、確かにここに生きている人間なのだ。

 そう、金香と並んで歩いてくれる、確かにここに居るひと。

「そのくらいには、はじめからきみを想っていた」

 そっと手を伸ばして触れられて。

 包み込まれた金香の手は、それだけであたたかくなる。

 何度もこの手に触れられた。

 いつだって金香の手を引き、共に歩いてくれるひと。



「とてもかわいらしいわ」

「ありがとうございます」

 金香の前で珠子は手を合わせて喜んでくれて、金香もお礼を言う。鏡の前でくるりと回ると、すかーとがふわりと広がった。

 すっかり春になったので、珠子が新しい洋服を仕立ててくれる、という話になったのだ。

 今度のすかーとは黄緑色だった。若草のような、春を表している色。

 冬のものとは違って膝くらいの丈が良いと、はじめ珠子に提案されたときは躊躇った。

 脚を出すのは慣れていない。膝より上はもってのほかだが、膝が見えるのもちょっと恥ずかしい。

 が、珠子は譲らなかった。

「短い丈のスカートは若いうちが一番似合うのよ。今のうちにたくさん着ておかないと」

 そしてまんまと押し切られてしまった。

 けれど実際に着てみれば、珠子の言う通り、そう悪いものでもなかった。

 靴下という、和装でいう足袋のようなものを履くことで、脚も思ったより晒されない。

 鏡に映った新しい服の自分を金香は気に入った。

 上は冬と同じぶらうすだが、冬着たものよりかわいらしかった。丸い襟にレェスとりぼんがついている。

 冬に何度か桃色のすかーとの洋装を着たおかげで、着るのに困ることは無かった。

 「これからは洋装の世になるのよ」と珠子はいつも自信ありげに言っていたし、実際に町中でもちらほらと見られるようになっている。浮くことなどない。

「今度のディトで先生にお見せするのよね」

「はい」

 もう珠子にそう言われても恥じらうことは無かった。むしろ嬉しくて金香は笑って頷く。

 麓乎にこの姿を早く見せたかった。きっと褒めてくれるだろう。それが極上の評価である。

「そういえば、珠子さん。来週はもう、雑誌の発売ですね」

 思いついて金香は言った。

 秋の新人賞の雑誌だ。奨励賞を取った珠子は雑誌に作品の掲載が決まっていた。

 下の賞であったので、大賞から順繰りに載っていく以上、掲載が遅くなり春になってしまったのだ。それでもおめでたいことに変わりはない。

「そうね。とても楽しみで、今から眠れなさそうよ」

 珠子はすぐに顔を輝かせた。当たり前だ、賞を取ったとき以上に嬉しいだろう。

「なにを書いたかなんてわかっているのに、まるで初めて読むような気持ちになると思うわ」

「きっとそうなると思います。私も拝読するのが楽しみです」

 金香の言葉に珠子は嬉しそうに「ありがとう」と言った。

「金香さんも着実に成果をあげているじゃない。きっとすぐに賞も取れるわ」

 それは冬季賞でも選評をいただけたことを示していた。実際に受賞している珠子にそう言われればきっとそう出来る気がして、金香は「頑張ります」と答える。

「むしろ私より先に賞を取られたら、やっかんでしまったかも」

 からかうように言われて二人でくすくすと笑い合った。

 そのあと、ふと珠子が言った。

「このお洋服には、先生から贈られた紅いりぼんをつけるのよね」

「はい。……似合いませんか?」

 質問の意味がよくわからずに、金香は首をかしげた。

 似合わないだろうか。自分では違和感がないので、せっかく麓乎に貰ったものなのだからそのままつけようと思っていたのだが。

 珠子もそのとおりのことを言う。先程、確認するように訊いてきたというのに。

「いえ、むしろぴったりだと思うわ。絶対につけていってね。忘れては駄目よ」

 珠子の言葉がなにを意味しているのかは聞けないまま。

 「では金香さんのディトのあと、また逢いましょう」と珠子の屋敷でお別れとなってしまったのだった。

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