明けの朝
安心はしたものの、麓乎の部屋を出てから金香は大変に動揺することになる。
自室に戻る前、廊下で志樹と鉢合わせてしまった。
「ああ、おはよう」
「おはようございます」
一緒に住んでいるのだ、朝の支度をする前に出くわしてしまったことならこれまでに何度かある。
向こうは男性、しかも麓乎とは違って恋仲でもないために、朝の支度のできる前の女性と顔を合わせるのは理想的でない関係だ。
金香とて、寝起きのみっともない姿を見せるのは抵抗がある。
ゆえに、出くわしてしまえば挨拶だけしてお互い、すぐにするりと去ってしまうのだが。
今朝の志樹は、金香とすれ違って、いつもするように挨拶だけして歩いていくかと思われたのだが。
視線を向けられた。不審そうな顔をされる。
「……? なにか……」
その表情の意味がわからずに訊いてしまった金香であったが、それを見て志樹はちょっと顔をしかめた。
その表情には幾つもの感情が詰まっている気がする。釣り目気味の志樹がそのような顔をすると、ちょっと怖いのだけど。
最近はもう感じなくなっていたのに、金香はちょっとそう思ってしまった。
「……麓乎が、なにか、した?」
躊躇いながら言われたこと。
唐突に出てきた名前に、金香はぎくりとした。ここでやっと、動揺を感じたのだ。
実はお部屋から出てきたところを見られていたとか。
朝から逢っていたかと思われたとか。
どちらにせよ、朝からお部屋に訪ねていたと思われたのであれば気まずい。
そう思った金香だったが、志樹に疑われたのはそんなかわいらしいことではない、もっと過激な出来事であった。
「いえ、……別になにも」
実際、なにもされていない。
抱き込まれて眠っただけだ。
『抱かれて眠った』というのは、『なにかした』に入るのかしら。
思った金香は随分呑気だったのだ。
「いや、……香の香りがするから」
大変気まずそうに言われたそのひとことは、たったそれだけで金香に理解を与え、一気に頬を熱くさせた。
もっともだ。
しっかり香を焚きしめた衣類をいつも身にまとっている麓乎に一晩抱かれていたのだから。
香りが移らないほうがおかしい。
つまり、志樹の尋ねた『なにかした?』という言葉が示していたのは、麓乎が金香に手を出し、……その先は考えられなかった。
確かに、そういうことになるのだろうか、とびくびくしながら昨夜、お部屋を訪ねた。
その気持ちや疑いをすっかり忘れてしまった自分を、馬鹿なことだと思う。
疑われて当然ではないか。
朝、恋人の香りなどを身にくっつけていたら。
「ち、違います! そういうわけでは」
疑われたままでは困る。
顔を真っ赤にしていただろうが、あわあわと手を振り、金香はどもりつつであったが説明した。
昨日、実家に戻ったこと。
父親に新しい奥様ができることになったということ。
それを大変ショックに感じてしまったこと。
そして、そこから抱いた不安を解消してくれるべく、一晩傍に居てくださったのだと。
すべてを聞き、「なんだ……」と志樹は『安心した』という様子で肩の力を抜いた。
そして助言してくれる。
「服を洗って、湯あみをしたほうがいい。それでは下女やなんかに誤解されるから」
「は、はい……すみません」
「いや、僕こそ悪かったね。良くない勘繰りをした」
「いえ、……ありがとうございます」
俯いたまま、金香は感謝の言葉を述べるしかない。
志樹に指摘されなければ、言われたとおり、下女や下男にあらぬ誤解を招いただろう。
ひとの口に戸は立てられない。いくら良いひとたちだとはいっても、こういうたぐいのことである。誤解され、噂され、言いふらされでもしたらたまらない。
たとえ以前、珠子に言われたように、内弟子として同じ家屋で過ごすことになった時点で、そういう心づもりなのだと思われていたとしても。
「ただ、麓乎のことは叱っておくよ。聞く限り、そもそもあいつのせいのようだからね」
「そんなことは、……ないのですけど」
「まぁそこは、気遣いの問題だから。あいつはそういう無頓着なところがある……」
そのあと志樹はぶつぶつと小さく文句を言い「では朝食の時間にね」と行ってしまった。
ぺこりとお辞儀をして後ろ姿を見守った、のは一瞬だった。金香は一目散に自室を目指す。
自分のこと以上に麓乎が結縁もせぬ女子に手を出したなど、誤解されることは耐え難かった。慕う師を、そして想うひとをそのように思われるなど。
最初に出会ったのが志樹だったのは幸いだったかもしれない、と思って、この事態もまだ救われそうだと思った。
普段は朝食のあとに洗濯をするのだけど、今朝ばかりは朝食に出るまでにこの浴衣を洗ってしまわなければ、と思う。
しかしそこで、せっかくついた想い人の香りを落としてしまうなど少々勿体ない、などと思ってしまい、また金香は自分の思考に恥じ入るのだった。
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