モニカとハートマン編 本質部分

よくよく考えてみたら分かると思うんだが、赤ん坊が親をはじめとした周囲の人間から学び取るものは、<言葉>だけじゃないはずなんだ。<表情>、<態度>、<仕草>、<振る舞い>、<言葉遣い>、<価値観>、<概念>、そういう諸々も同時に学び取ってると考えた方が自然だと思う。


いや、むしろ『そうじゃない』と考える方が不自然じゃないか? なんで、


『<言葉>だけ』


って考えられるんだ? 同時に他のものも学び取ってると考えない理由はなんだ?


『考えたくない』


『認めたくない』


からか?


確かに、俺の子供達でも、ひかりあかり以外は、人間(地球人)としての振る舞いはほとんど身に付いてないのは事実だ。しかしそれについては、同時に<言葉>も身に付いてない。つまり、<獣人としての形質>が強く出ている子供達については、脳の構造そのものが、本来の種族としての生き方に特化していて、人間(地球人)としてのそれじゃないということなんだろう。


しかし同時に、ほまれそうかいを見ていても感じるが、<他者との接し方>なんかについては、本来の種族のそれとは微妙に違ってるのも事実だと思うんだ。


明らかに俺の影響が出てると考える方が自然だと感じる。


ほまれに比べると、とどろきすばるの方が確実に他者に対して冷淡だ。でもまあ、とどろきすばるについても、あくまで『ほまれに比べれば』というだけで、逆に他の純粋なパパニアンと比べると情に厚い部分もあると思う。この辺りは、ほまれの群れに加わってから変わっていった印象だから、ほまれの影響を受けてるんだろうな。


こういう風に、後々の出逢いなどによっても変化する可能性はあるものの、それでも根っ子の部分については大きくは変わらないんじゃないかな。


でなければ、犯罪者などに対して、


『どうせ人間は変わらないんだから、二度と社会に出すな!』


的な発言がされるはずがないと思うんだ。結局、子供の頃に決まった当人の本質は、生涯、変わることはない。というのを、『どうせ人間は変わらないんだから』という言葉は表してるんじゃないのか?


つまり、


『親や身近な人間の影響によって決まった本質部分が、その人間の<柱>となる』


ということじゃないのか?


『どうせ人間は変わらないんだから』と言うのなら、赤ん坊の頃からの接し方を疎かにはできないはずだよな。


逆に、


『親や家族などごく身近な人間の影響だけで決まるわけじゃない。後からいくらでも変われる』


というのなら、『どうせ人間は変わらないんだから』なんてのは成立しない。


この矛盾を無視して、その都度その都度、都合よくそれぞれを使い分ける人間もいるが、『どっちなんだよ!?』って思うよな。


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