明編 行きつく先

新暦〇〇二九年七月十三日。


相変わらず淡々と日々は過ぎていくな。




人間はついつい、


<自分の生まれてきた意味>


ってものを求めてしまいがちな生き物だ。となると、


『生まれてきて良かった』


と思えるというのは、それ自体が強烈な自己肯定なんだと思う。


対して、


『生まれてくるんじゃなかった』


というのはこれまた強烈な自己否定だろう。結局、幸せってのは、いかに、


『生まれてきて良かった』


って思えるかってことなんだろうなって気がする。


少なくとも俺自身はそうだ。人間はそうあるべきだなんて別に言うつもりもないが、俺としてはそう考えるのが一番納得できる。


それで納得できない奴はどうしたらいいんだって?


申し訳ないが俺は自分と関係ない他人に対してまでそこまで責任は持てないな。だって俺が生みだしたわけじゃないから。この世に送りだしたわけじゃないから。


そういうのはやっぱり、当人をこの世に送り出した人間が負うべき責任じゃないのか? 他人にその責任を押し付けるような人間では、俺はいたくないな。


自分が勝手にこの世に送り出した子供に対して責任を負えないような親でいたくない。


だからって、自分が勝手にこの世に送り出しておいて自分の手に負えないからって勝手に殺すような親にもなりたくない。


何と言うか、どうにも手に負えない手前勝手な人間に子供が育ったんだとしたら、自分の勝手でこの世に送り出しておいて手に負えないから殺すなんていう手前勝手な本性そのままじゃないのか? そのまま受け継いでるんじゃないのか?


俺が結局、妹を手に掛けることができなかったのも、最後のきっかけが得られなかったことに加え、自分が楽になるために安易に誰かの命を終わらせるなんていう手前勝手な判断ができなかったこともあるのかもしれない。


それは、両親が俺をそういう人間に育ててくれたからなんだろうな。と言うか、両親の本質がそうだったのを、俺は見倣ってたんだろう。


だがそれでも、危うい状態だったのは間違いない。何か最後にきっかけになることがあれば、俺はあの子を殺してしまっていただろうなと今でも思う。


人間は人間を殺せてしまう。


『人間を殺してはいけない』という思い込みを上回る<理由>さえあれば。


俺はその<理由>を作りたくない。


その為にも、子供達に、


『生まれてきて良かった』


と思わせてあげたいというのもある。


子供達のために生きることの何が悪い? 自分の勝手でこの世に送り出してしまったんだから、その為に生きることのどこに不合理さがある? 自分がやったことのケツを拭こうとしてるだけじゃないか。


同じことを何度も言ってるとは自分でも思うが、しかしそれ以外の何ものでもないから結局はそこに行きつくんだよ。


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