明編 生き方の明確さ

新暦〇〇二八年十月十二日。




自分で死を選ぶことは<逃げ>だと今では思ってるが、だからといって自ら死を選ぶ人間を馬鹿にしたいわけでもない。それを選ばずにいられない状況があるというのは、俺にも覚えがあるしな。


妹のことで追い詰められていた頃は、いつ死のうか、そんなことばかり考えていた時期もある。


俺の場合は、妹を残して死ぬわけにはいかないというのが辛うじて支えになった上、たまたま実際にそれを行動に移すきっかけがなかっただけで、俺が強かったとかそういうのじゃまったくないんだ。


だがそれでもなお<逃げ>だとは思う。それだけの話だ。


今となってはそれこそ逃げるわけにもいかないし。


エゴだの偽善だの、そんなことで追い詰められている暇もない。


と、自分に言い聞かせてるってことだな。


それに、めい達はそもそもそんなことは気にしない。彼女達は彼女達の感覚に従ってただ生きてるだけだ。自分が死を迎える最後の瞬間まであきらめることなく、な。


そんな彼女達を見倣いたいとも思う。


人間はとにかく考えすぎなんだろう。ただ、余計なことを考えられるようになったが故に、我欲も肥大化したことで、それを制御するためにはまた頭を使わなきゃいけないというのも事実だと思う。


いやはや、これもまた酷い矛盾だ。


だがまあ、それを嘆いていても始まらない。この辺も彼女達を見倣いたい点だな。


しかし、こうして改めて見ると、マンティアンの日常というのは本当に淡々としてて変化に乏しいなあ。


ほまれ達のような騒動も起きない。ただただ起きて狩りをして寝て起きて狩りをして寝てって言うのを繰り返すだけだ。


もちろん、それ自体が濃密な命のやり取りなのは間違いないものの、やっぱり淡々としてて、そういうところが昆虫っぽくもある。


感情の起伏があまり見られないというのも、そう見える原因の一つかな。


まあ、実際に、パパニアンあたりと比べれば感情豊かではないのも事実なんだが。


そういう意味では、マンティアンの日常というのは<平穏>と言うか<平坦>だよな。


人によっては<退屈>と感じたりもするだろう。


俺自身、自分の娘だからこうやって見守っていられるだけで、正直、彼女やじょう以外についてはずっと見ていたいとは思わない。かくについてはほまれ達を狙わないかという意味で監視しているだけだし、さくのこともずっと見ていた訳じゃないし。


ただ、間違いなくすごい生物だとは思う。人によってはそのシンプルさ、生き方の明確さを『美しい』と感じるのもいるかもしれない。


俺も、彼女達のことを、生物として美しいと思う。


それも、まぎれもない正直な気持ちではある。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る