明編 理不尽さ

新暦〇〇二八年十月十日。




人間はえてして自分達の感覚を人間以外の動物にも当てはめてしまうことが多いんだが、これはとんでもない誤解の素だとここで暮らしてて実感した。人間の感覚も常識も、彼らにはほとんど当てはまらない。


人間である俺と一緒に暮らしてたらまだ多少影響も受けるだろうが、その経験が全くないのにはそれこそ通じない。


めいうららを結果として助けたのも、彼女があくまで俺の娘としてここで暮らしてた経験があればこそであって、遭遇したのがかくだったら、いや、さくであってもうららはその場で食われていただろう。


実際、うららと変わらない年頃の子がマンティアンに食われる映像もドローンは捉えている。俺が詳しく触れてこなかっただけだ。


そんなことを詳細に知りたい人間もそう多くはないだろうし。


だから、敢えて触れてはいないものの、人間の感覚からすればえげつないことは、日常茶飯事で起こってるんだよ。


さくのこととか今回のうららのこととかをことさら取り上げるから、なんかちぐはぐになるだけで。


でも、こういう部分も、人間である以上は避けられない一面もあるのかなって気はするよ。


だからって、


『人間なんてのは偽善者のクソだ』


みたいに、人間そのものを貶めるってのも違うんだろうなとは思う。ましてや、


『野生動物の方が純粋で素晴らしい』


などと言いだすのも違和感しかない。それ、都合のいい部分しか見てないだろ? っていう印象しかないんだ。


こういうのは結局、主観の問題なんだろうなあ。


という訳で、エゴだ偽善だと言われようと、俺はうららが助かったことは、めいが彼女を助けてくれたことは、単純に喜びたい。


たまたま生き延びられたんだから、それでよかったじゃないか。


死が当たり前に転がっているからこそ、生きていられることに感謝したいんだ。


それは、めい自身にも当てはまる。


彼女が生き延びられているのも、俺の娘だからっていうのは決して無視できない理由だ。彼女やじょうえい以外のマンティアンついては現に見捨ててきている。


そしてこれからもそれは変わらない。


エゴとか偽善とか、そんなものも所詮は人間が作り出した、人間にとってしか意味のない、まやかしのような概念だ。


自分と自分に連なるものだけを守り、他は見殺しにするというのも、生きている限りはついて回る現実だ。


それを毎日毎日思い知らされる。


こうやって何度も何度も言葉にするのも、そうすることでその事実と向き合うようにしてるだけだ。


でなければ、生きるということ自体の理不尽さに押し潰されそうになるんだ。


かといって自分で死を選ぶなんてのも、酷い矛盾であり逃げだとしか思えないんだよな。


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