ありがたく思って感謝しろ(なんていうのは)

新暦〇〇二二年七月十八日。




『ちゃんとお父さんに愛されてる私が、お父さんに負けるような相手を選ぶ訳ない』


そう言ってもらえた時に、なんか納得できてしまった気がするよ。


そうだよな。人間の場合、本能的なこと以上に、感情によって相手を選ぶから、『現状、自分を愛し大切にしてくれてる実感がある相手がいる』のに、わざわざそうじゃない相手を選ぶ必要はないよな。


ただその場合、『実感がある』ってのが大事だと思うんだ。例えば、いくら『愛してる、大切にしてる』って親が言ってても、それがただの押し付けにしか思えなかったら、『愛されてる』って実感できるだろうか?


あからさまに、


『自分が愛してやってるんだから四の五の言わずにありがたがれ、感謝しろ、敬え』


なんていう態度が見え見えの相手を、たとえ親だからといって無条件にありがたく思えるだろうか?


『育ててもらってるんだから親を敬い尊ぶのは当たり前だ!』


という話もよく聞くが、俺は、それに対しては違和感しかなかった。


『頼んでもいないのに子供を作ったのは、お前達の方だろう?』


という実感しかないんだ。


特に、俺自身が親として、ひそかじんふくようといった、『人間じゃない相手をわざわざ選んで』ひかり達が生まれてきたのに、ひかり達と相談してそうした訳じゃなく、俺が勝手にそれを選んだことで彼女達が生まれてきたのに、それを『ありがたく思って感謝しろ、俺を敬え』なんて考えるのは傲慢に過ぎるんじゃないか?


だから俺は、ひかり達を生み出した者の責任として、ただあの子達を守りたい、『生まれてきてよかった』と思わせてあげたいと考えたんだ。


それで思えば、俺の両親は、かなりそうしてくれてたと思う。妹のこともあって、自分や妹が生まれてきたことを呪っていた時期もあったが、両親に愛されていた実感があったからこそ、本当にぎりぎりのところで耐えられたんじゃないかって気もするんだ。


もっとも、妹が亡くならずにさらにあの状態が続いてれば、もちこたえられていた自信はないけどな。


そんな俺が、ひかり達に対して傲慢に振る舞える訳がないとは思ってる。あの子達に対しては、俺の子供として生まれてきてくれたことに感謝こそすれ、


『生んでやったんだ。育ててやったんだ。感謝しろ』


とはとても言えないんだ。


俺がそういう<押し付け>をしないからこそ、ひかりは素直に俺のことを好きでいてくれてるんだと思う。


他でもない俺自身が、


『〇〇してやってるんだ。感謝しろ』


なんて言う奴のことは感謝も尊敬もできないからな。


自分が感謝も尊敬もできない人間になってるのに、『感謝しろ、尊敬しろ』なんてのは、いくらなんでも恥ずかしいと俺は思うんだ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る