第四の議題 『死は生の一部である』について。

 今回は筆者の死生観丸出しの話です。ユーモアは無いかもしれませんが、どうぞ宜しく。


 先ず、死への恐れは必然ではあるが、当然ではないと考えます。今現在。死は特別視される存在となり、日常的なものではなくなりました――“ました“と謂うのには理由が在ります。


これは記憶した話でありますが、以前の日本での葬式は坊さんを呼ぶ事も無く。非常にあっさりとした土葬だったそうで、尚且つ以前の日本の近所仲から葬式の参加者も多かった――今の形式とは真逆の物だったらしいのです。


つまり、何が言いたいのかというと「特別化された“死“によって人は死を恐れるのではないか?」という事です。


昔の日本では、死は日常の一部であり特別視されてはいませんでした。しかし、時代が流れ次第に葬式の形式すらも変わり、特別視された“死“は――つまり、日常的なものではなくなってしまったのです。


それ故に人は“死“を恐れる様になりました。


 しかし、元を考えて下さい。“生きる“という事は“いつか死ぬ“という事です。人は生き、世代交代し、死ぬ。だからこそ人は進化し、だからこそ“生態進化発生学エボデボ“が在るのです。


だからこそ、筆者は思うのです。

――「死への恐怖は、つまり進化を恐怖するのだ。」


日常的に死は存在します。

不治の病に侵される。殺害される。事故に遭う。隕石が落ちて、地球が滅びる――可能性はゼロじゃない。


この世に絶対は時間と空間だけです。しかし、空間は――少なくとも、時間よりは変えられる可能性があるでしょう。


つまり“死“という時間は“絶対“なのです――死は絶対的なものなのです。少なくとも、進化過程の今はそうです。


哲学でよくある『どう生きるかが重要』という思考には――筆者の考えですが――死ぬ事を前提としていると考えます。


――当然?


そうです。人はその“当然“を恐れるのです――必然。今現在の社会構造では必然です。


ですが当然ではありません。筆者がその必然に疑問を抱いた様に、当然を恐れない人は居るでしょう――いえ、死を受け入れるだけであり、自殺志望はありません。


先述の通り『どう生きるかが重要』なのです。


 必然的な恐怖を匂わせる死は、日常的に存在する。しかし、目を背けているだけなのです。故に、死を受け入れる為には“死が何時来ても良い様に、人生を送る“必要が在ると筆者は考えます。


命は一つ。後悔の無い様に生きるのが良い、しかし何時かは後悔することもあるでしょう。


故に、生の一部である死を――当然を。

受け入れ、人生を――どう生きるかが重要だと筆者は思うのです。


恐れてもいい。受容こそが生の本質なのです。

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日常の中で思索・考察をする人。 空御津 邃 @Kougousei3591

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