月の光


「…もう帰るんですか?」


「ええ。まだ仕事が片付いてないの。」


そうありふれた言い訳をして

ベットの下に散らばっていたブラジャーを

拾いフックを止めながら彼のもとへと

視線を落とす。

彼を包むテーブルランプの光が

やけに艶かしい。


「待ってる人がいるんですよね。」


「―そうよ。」


ワイシャツに通していた手を一瞬止めるが

何事もなかったかのように腕を通し

ボタンを閉め彼の横へと座った。


「やっぱり私が既婚者だって知ってたのね」


「ええ。なんとなくですけど。」


「軽蔑した?」


「いえ。智子さんは魅力的な方ですから。

むしろ今こうしていることが夢みたいで。」


「私、正直あなたのこと全然タイプ

じゃなかったの。けど今は、」


―今は。

その刹那目が合い短くキスをした。

行動は言葉よりも雄弁だなんて

よく言ったものね。


そうしてだんだんとブラジャーのフックにのびる彼の手を静止して唇を離すと

子供みたいにぷくっと頬がふくらんでいる。


いくら大人びて見えてもやっぱりまだ子供なのね。



「智子さん。やっぱり今日

泊まっていきませんか?」


「ダメよ。今日は帰るわ。」

―じゃないと一生帰りたくなくなるから。

なんてとてもじゃないけど口では言えないから言葉の代わりに彼の額に再度口づけを落とすと身支度をととのえドアノブに手をかけた。


「智子さん。また。」


「ええ。また。」


バタンと音をたてて扉が閉まり廊下を歩く。

この廊下を歩くのも何回目だろうかと

おぼろげに考えていた。

大通りに出てタクシーを拾い

自宅までの道のりを伝えると

窓にもたれ掛かり流れ行く景色を眺めた。

昔の私が今の私を見たらどう思うの

だろう。

本気の恋はしないって決めていたのに

一回りも下の男に熱をあげているだなんて

知ったら私らしくないとあきれるかもしれない。

けれど本当は誰かに溺れるくらいの恋がしてみたいとずっとそう思っていた。

そう、身を焦がすほどの熱い…


ガチャリと鍵を開け冷たく暗い廊下を進むと

リビングの明かりがついていることに

気づき扉を開けた。


「まだ起きてたの?」


「あぁ。なかなか寝れなくてな。

お前は今日友達と会ってたんだろ?どうだった?」


「えぇ。楽しかったわ。久しぶりに会ったから話が絶えなくて…」


「そうか。楽しめたならなによりだ。

そのとやらとな。」


「―知ってたの?」


「俺が知らないとでも思ったか?」


「そう。じゃあこの際だからハッキリ

言うわ。私と別れてほしいの。」


「別れる?ただの間男にずいぶんと

入れ込んでいるんだな。」


「会社も辞めるしお金もいらない。

だから別れて。」


彼は椅子からおもむろに立ち上がると

私の髪を強く引っ張り見下ろした。

けれど私はそんな彼を鋭く睨み付けた。

私はこんな人に絶対に負けない。


「何にもできないお前をもらってやった上

親父に頼んで今の立場にさせてやったのに

この仕打ちか。」


「感謝はしてるつもりよ。

確かにあなたがいなかったら今の立場だってないし、こんな贅沢な暮らしだってできてない。だけど私は何も満たされなかった。

彼は私のことを一人の女性として見てくれる。

彼といると本当の自分でいれるのよ。」


すると彼は鼻でふんっと笑い手を離すと

腕を組みテーブルにもたれ掛かった。


「欲張りな女だ。地位も名誉も金も

すべて持ってるのにこれ以上まだ欲しいと?

その男だってお前の金が目当てに決まっている。」


「それでもいいわ。貴方とこのまま

一緒にいるくらいなら騙されてても

彼と一緒にいたいの。」


左手の薬指から指輪を抜き取りガンっと

乱暴にテーブルに置くと

身も心も自由になれた気がして

妙に清々しい気持ちになった。

しかし後ろを振り向いた瞬間

右手を強く掴まれると乱暴に床に投げ飛ばされ全身に痛みが走る。


「いたっ…。」


「ここまで馬鹿な女だったなんてな。

どこまで俺を侮辱すれば気がすむんだ!」


彼の瞳が揺れた後馬乗りになり手首を頭上に

固定され無理やりキスをされ舌を入れられた後引きちぎるように襟元をつかみ

ワイシャツのボタンを引きちぎられ

首もとに噛みつくようにキスをされた。

それはもはや飢えた獣のような行為だ。


「嫌!!!お願いやめて!」


反抗しようと力で押し返そうとしても

やはりびくともしない。

そうしている間にも彼は性急にカチャカチャと音をたてベルトを外しズボンと下着を

脱ぎ捨てた。


「お前は昔からそうだ。

俺はすべて持っているのに

どうしてお前は手に入らないんだ。

どうして…。」


彼はまるで子供のようにすがり付き胸に顔を埋めている。


あぁ。男の人ってどこまでも子供なのね。


そうこれがこの人でなければそう思うのだろうがこの人は策士なのだ。


こうして甘えることで私が情に絆されてくれると本気でそう思っているのだ。

この人はいままでこういうずる賢い手を使い

成功してきたのだ。

けれど残念なことに私はそんなに簡単な女じゃない。


私はふっと軽く笑い彼を抱き締め

そうしてハッキリとした口調でこういった。


「あなたは何も持っていない。

これまでもそしてこれからもね。」


その瞬間彼はガバッと顔をあげると

目を丸くしそして唇を噛み締めている。

そんな彼の様子を

私はしたり顔で見つめていた。


「黙れ。黙れ。黙れ!」


彼は乱雑にスカートを捲し上げ

下着を放り投げると

ゴムもせず濡れてもいない秘所に

ただその熱い塊を入れ激しく奥へと突いた


そしてその衝撃に下腹部が強く痛みに思わず声にならない悲鳴をあげた。


いつもそうだ。


会社に就職したときも私の方が

その辺の男より実力があるのに

君が上にたつと他の男性社員がやる気をなくすからというくだらない理由で昇進できなかった。


そして彼と結婚することになった時も

色目を使ったとか、体を売ったとかいうあられもない噂をたてられ会社で孤立した。

あぁ、女というのはどうしてこう無力なのだろう。


そう、今の私にはこの現状をどうにかする

力すらないのだ。

結局力でも地位でもなにもかも男には

敵わないのだ。

そうして完全に抵抗する気力を失い

ただ彼から出させるものを受けいれた。

そして彼は行為が終わると扉を勢いよく閉めすぐにバスルームに向かった。

私は起き上がる力さえなくただただぼうっと

白い天井を見つめている。

部屋にはただシャワーの音だけが虚しく響いていた。


「智子さん?どうしたんですか?」


「ん?ううん何でもないの。ごめん。

今脱ぐから…。」


いつものようにワンピースのファスナーに手を伸ばし脱ごうとした瞬間

彼は私の手を止めにっこりと笑った。


「今日はただしゃべりませんか?」


それから彼の膝の間に座って

他愛のない話をした。

今日食べたお昼ご飯が美味しかった。

この間見たTVが面白かった。

そんな下らない話がやけに楽しく感じた。


「あー、久しぶりにこんなに笑った。」


「僕もです。

ずっとこんな時間が続けばいいのに。」


その言葉に私は針で刺されたようにチクリと

胸がいたんだ。

(そうね。本当にそう思うわ。)


私はそんな自分の気持ちに目をそらし、

ねぇ。どうしてピアニストになろうと思ったの?とずっと聞いてみたかった質問を彼に投げ掛けた。


「僕両親が離婚してて

父親に引き取られたんですけど

幼い頃母に教えてもらったんです。それが母との唯一の思い出で。」


「…そう。」

(だからあんなに美しくて繊細な音なのね。)


私は彼の頬を両手で包みこみ唇に慈しむような優しいキスをした。


「別れてほしいの。」


「何かありました?」


「ただ貴方に飽きただけよ。

知ってるでしょ?私は本気の恋なんてしないの。」


「もうこうやって会うこともないわ。」


そうして立ち上がろうとすると

彼に手を強くひかれそして後ろから力強く

抱き締められた。


「離して。」


「…一度でいい。嘘でもいいから

僕のことが好きだとそう言ってください。」


すがり付くような彼の声に

「ごめんなさい。私嘘はつけないわ。」と

答えると彼の手は徐々に力をなくし

そして完全にぶら下がった。

彼の顔は見えない。


さよなら


扉を閉めるとその場からすぐ離れたくて

できるだけ早く歩いた。


今立ち止まってしまうと

きっと彼のところへ戻ってしまうから。

弱い私に戻ってしまうから。

だから遠くへ。

もっともっと遠くへ行きたい。


そうしばらく歩いた後突然吐き気が襲い

トイレに駆け込んだ。


そういえば最近月のものがきていない気がする。


まさか…


私は自分のお腹をさすると

地面にへたりこみしばらく動けなかった。


数年後。

私は旦那との子供を妊娠しそして出産した

旦那以外の男と

数えきれないほどセックスしてきたのに

あの夜のあの一回で妊娠してしまったの

だから神様というのは本当に意地悪だ。

けれど私は子供をおろさない代わりに

彼とある約束を交わした。

そして彼はその約束を今も守り続け

人が変わったように優しくなった。

家事も手伝うようになり週末は

子供と一緒に遊んでくれている。

そうしてそんな彼を見た人はきっとこういうだろう。

いい旦那さんねと。



「ママー!」

愛しいその声に

洗い物をやめ我が子を抱き上げるとほほに

口づけをひとつ落とした。

あんな人の子供でもやはり自分の子供というのはかわいいものだとつくづく思う。



「今日のゲストは

天才ピアニストとして話題の

羽賀拓馬さんにお越しいただきました!」


「よろしくお願いします。」


ふと彼の名前が聞こえてきて

テレビを見るとそこには天然パーマに眼鏡ではなく今どきの爽やかな好青年が

映っていた。


「最近ますます色気がすごいと世間で話題ですかもしかして恋人とかいるんじゃないですか?」


「…恋人ですか。そうですね。

いたらいいんですけど。

僕にはずっと忘れられない人がいるので

無理だと思います。」


「えぇ!?どんな方なんですか?」


「その人は嘘が嫌いで思ったことをハッキリと言える人なんですけど

彼女はたった一度だけ僕に嘘をつきました。

けれど最近気づいたんです。

その嘘は僕のためについた嘘だと。

今僕がピアニストとしての現在があるのも

彼女のおかげです。

今から演奏する曲はその彼女に捧げます。」


(馬鹿ね。ほんとに。)


私は子供の背中をポンポンとたたきながら

ソファに座り目を閉じあの日のことを

思い出していた。



「子供ができたわ。」

「本当か!?そしたらすぐにでも

びょうい…」

「その前に約束してほしいの。」

「あぁ。あいつのことか。」

「えぇ。あなたなら彼へ経済的援助をすることくらい簡単でしょ?」

「あいつがそんなに好きか。」

「出来ないならこの子はあなたに渡さない。

けど約束してくれるのなら一生あなたと暮らしていくと誓うわ。

聡明なあなたなら迷う必要ないでしょ?」


彼の細くしなやかな指が鍵盤に触れその曲が流れると私は初めて涙を流した。

あの夜も彼と別れた日も泣くことはなかったのに彼の美しい音を聞くとやはり私の選択肢は間違ってなかったとそう思えた。

彼は若く才能がある。

そして…未來がある。

これからもっと自由に羽ばたいていける。

そう私とは違って。


私はテレビをぷつりと消すと再び我が子に向かってにこりと笑いかけ呟いた。


「好きよ。ずっと愛してる。」



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月の光 石田夏目 @beerbeer

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