f あのね、綾ちゃんにあげるね

「山を越えて黒いものがやってくる夢を見るんだったね。その黒いもの、もし山を越えたとしても香波ちゃんのところまでは来ないから大丈夫だよ」

「……ほんとう?」

「本当。おじちゃんにも聞いてごらん。もし香波ちゃんの視ている山が鹿嶋市の八束山のことなら、市内を流れるひさお川よりこちら側には出られない。病院まで到達することはないし、香波ちゃんのおうちも問題ないよ」


 何もかも見透かしたような師匠の物言いに、香波の肩に入っていた力が抜けていく。

 いままで誰にも視えていなかった『おじちゃん』の存在を言い当て、夢の内容もやけに断定的に大丈夫だと言い切ってしまった。綾人には根拠が不明だが、師のなかには恐らくそれなりの図が描けているに違いない。


「やつかやまだって。おじちゃんが言ってた。黒くて、怖くて、おじちゃんにもどうにもできない、よくないものが流れてくるって……」

「そう。……怖かったね」


 師匠の声音は、背筋がそわそわするほど優しく、甘い。――そういえば彼にも年の離れた弟がいるのだったか。

 香波が一度、仰ぐような仕草で斜め上を見た。

 そこに『おじちゃん』が立っているのだろう。


「それともう一つ聞きたいんだけど、香波ちゃんに『波の塔』って伝えたのもおじちゃんだね?」


 こくんと小さな頭が縦に揺れた。


「何が視えたの?」


 香波がもう一度、おじちゃんのほうを仰ぎ見る。

 こんな仕草は見たことがなかった。おじちゃんは余程、香波が外でおかしく見られないように注意してやっていたらしい。


「森のなか。苔がたくさん生えてるの。おにいちゃんと綾ちゃんもいたよ」

「ぼくもいたんじゃないかな」

「いたと思う。あと、知らないおじさん」


 ワシダのことか。おじさんという年齢ではないけれど、綾人たちよりは年上だから香波にとってはそうなるかもしれない。

 師匠は、ワシダの母親の遺体も視たか、とは訊かなかった。


「そしたら、おじちゃんが『波の塔』だって」

「そっか。……それで、朝になったら家に秋津くんがいたから、こっそり教えてくれたんだね。『波の塔』だって」

「おじちゃんが、綾ちゃんはぜんにんだからいいって」


 千鳥がフフッと噴出してテーブルに突っ伏した。

 知らないおじちゃんにも善良認定されるほど平和な人間に見えているのか。嬉しいような、複雑なような。


 それはともかく、香波の言っていた『波の塔』がワシダの母親に関することだということは判った。青木ヶ原樹海の捜索をするように連絡した方がいいだろう。


「……怖い目に遭ったことはないかい」

「ないよ。おじちゃんがいるから」

「それはよかった」


 躊躇いなくうなずいた香波の表情を見て、師匠も目元を緩めた。

 ゆっくりと立ち上がると、「じゃあ帰ろうか」と綾人の首根っこを引っ掴む。


「えっ、師匠!?」

「聞いただろ。八束山でなにかが起きているんだよ。きみの任務は速やかに香波ちゃんの不安を排除することだ、違うかな」

「ちが……いませんけども」

「香波、にいちゃんは二人を下まで送ってくるから病室に戻ってろな。おじちゃんも一緒だから大丈夫だな?」


 千鳥はさすが兄だった。ずっと内緒にされていた『おじちゃん』の存在をすんなり受け入れているということを、香波にもおじちゃんにも伝わるようにしてしっかりと頭を撫でてやる。

 師匠に引きずられながら、綾人は香波と、その隣にいるはずのおじちゃんに手を振った。


「香波ちゃんまたね。おじちゃんにもよろしくー」

「綾ちゃんばいばい。おにいさんも」

「うん、さよなら。お大事にね」


 少女相手には愛想のいい師匠は、香波を振り返ってニコッと笑みを浮かべつつ、裏腹にだいぶぞんざいな手つきで綾人の襟をぐいぐい引っ張っていく。

 エレベーターホールに着いたところでようやく放してもらえたので、襟を直しつつ降下ボタンを押した。

 後ろから早歩きで追いかけてきた千鳥を振り返る。


「妹さん、ヒトじゃないものに対するアレルギー体質のようだね。成長するにつれてよくなるよ」

「アレルギー体質なんてあるんです?」

「あるよ。秋津くんだって少なからず視えたら『嫌だ』と思うだろう。鳥肌が立ったり、寒気を感じたり、巽もたまに吐き気がするって言うし。あれの少しひどい症状で、彼女の場合は熱が出る……」


 ――と、師匠がぴくりと反応して廊下のほうを見やった。

 ぱたぱたと足音を立てて、別れたばかりの香波が駆け寄ってくる。


「香波。病院の廊下は静かに歩く」

「ごめんなさい」


 素直に謝りながらも、香波は綾人の足にぴたりとひっついて、手のなかになにかを握らせてきた。

 開いてみると、キャンディが三つ。ぶどうとオレンジ、りんごの三種類で、それぞれ包装紙にポップなイラストが添えてある。普通の飴だ。

 普通に考えれば、お見舞いのお礼なのだろうが――


「あのね、綾ちゃんにあげるね」


 香波はそう言った。

 そして再び、ばいばい、と笑顔をみせて手を振る。エレベーターの扉が開いたので、綾人と師匠も手を振り返しながら乗り込んだ。

 手のなかの飴を見下ろして、綾人はそっとジーンズのポケットにそれを突っ込む。綾ちゃんにあげるね。千鳥と師匠に一つずつ渡すのではなく、綾人に三つ。

 あんな話のあとだからか、何かを暗示しているような気がしてならない。


「……それで師匠、香波ちゃんにはなにが憑いてたんですか?」


「うん、まぁ」師匠は若干言葉を濁し、珍しく苦笑のようなものを洩らした。「なかなかすごいもの憑けてるよ」


「すごいものって? 悪いものではないんですよね」

「かなり高位の、いわゆる守護霊というものだろうね。左腕のない和装の男性で、見た目だけでも迫力があるけど、相当力が強い。今までずっと、妹さんの周りに寄ってくるものを片っ端から殴り飛ばしてきていたんだろう。秋津くんが間宮家でホラーゲームをしても大丈夫なのは彼のおかげだったんじゃないかな」

「へえぇぇ、守護霊……」


 師匠は基本的に彼岸のものに対して臆さない人だった。

 心霊スポットに行ったら大体にやにやしているし、呪いのアイテムもウェルカム、たまにキレて怒鳴り散らかすときもあるが怯えるということはない。先日なんて転がる頭を足蹴にしたあげく何度も何度も踏みつけにするという、庇われたはずの綾人もドン引きな暴挙に出た。

 その師匠が、警戒されたようだという理由で接近を遠慮した。

 かなり高位というからには、彼にとっても敬意を払うべき相手だという判断があったのだろう。

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