d 山を越えて黒いものがくる
その週末、綾人は師匠の運転するマークXに乗って香波の入院する総合病院を訪れた。
香波との面会を師匠が希望していることを千鳥に話すには、まず彼女の不思議な言動から説明しなければならない。もしかしたら香波に変なものが憑いているかも、なんて突拍子もない話を――と少々躊躇う綾人を救ったのは、当の千鳥だった。
香波と師匠を会わせたいと、彼から打診してきたのだ。
ハンドルを握る師匠の横で、お見舞いの入った紙袋を膝に抱いた綾人は流れてゆく鹿嶋市の景色をぼんやりと目で追った。
「間宮家は鷹月市だったね。秋津くんの実家とはずいぶん離れているけど、どこで知り合ったわけ」
「普通に高校ですよ。俺が家から一時間半かけて通ってただけです」
「また遠いところを択んだねぇ」
「地元に居辛かったんで。あと、弟とあんま顔合わせないように」
師匠はちらとこちらを一瞥する。
綾人には三つ年下の妹と弟がいて、二人は双子だ。妹のほうは、綾人の弟子入りのきっかけを作ることになった事件を起こした関係で師匠とも面識がある。
「弟もいたんだね」
「紗彩の双子の兄貴です。俺がまだあんまり視分けがついていなかった頃に一悶着あって、ここ数年は口もきいてませんけど」
「へぇ。なんだか意外だな」
小さく零した彼の横顔を見てみると、師匠は薄く微笑んでいた。
「秋津くんは誰からも好かれる才能があるから。誰かと仲違いするようなこともあるんだなと思って」
「なんですか、その夢みたいな才能は。んなもん持ってたら苦労しませんよ」
「そうみたいだね」
師匠と二人きりで長い時間を過ごすのは、これが初めてだった。
あの洋館にいる間は大抵巽がいて、姉御も顔を出して、高倉が帰ってきてからは彼がずっと屋敷にいたから。
普段心霊スポットに連れて行かれるマークXで、普通に昼間の病院を目指しているというのも不思議な感じだ。――用件は全然普通じゃないのだが。
広い駐車場の片隅に車を停めて、やや歩いたところに聳える病棟を見上げる。初めて訪れる病院だったが、イメージしていたよりも建物は新しい。
基本的に病とは無縁の生活を送ってきた綾人はこうした大きな病院に馴染みがなかった。父方の祖母と、母方の曽祖父と、あとは先程話題に上った弟の見舞いに行ったことがある程度で、回数も指折り数えることができるほどだ。
向かい合って建つ二棟の間に館内案内図があった。向かって左側は外来と一般入院病棟が同じになった本館で、小児病棟があるのはその向かい、右手側に位置する南館だ。
おっかなびっくり南館に入るとロビーで千鳥が待っていた。
「こんにちは、師匠さん。お忙しいとこすみません」
「いいよ。秋津くんの話を聞いて、こっちも会ってみたいと思っていたところだから」
ちなみに今日の師匠は洋服をお召しである。小児病棟に和装はさすがにパンチが強いと判断したらしい。
「『波の塔』ですよね。……うちには松本清張の本は置いてないし、『おじちゃん』とやらにも心当たりはないんですけど」
困ったように頭を掻いた千鳥はすぐに病室に向かおうとはせず、ロビーに設置してある飲食スペースの椅子を引いた。
南館の一階は受付と購買、レストランが設けられており、病室があるのは二階より上らしい。購買の隣にはテーブルとイスが並び、綾人たち以外にも何人かお見舞いの家族が腰かけていた。なかには入院着の患者の姿もある。
三人で額を寄せ合うと、千鳥は眉を寄せた。
「師匠さんに来てもらったのは、もちろん香波のことで相談があって」
「うん。どうぞ」
「……夢を見るそうなんです。入院した日から、ずっと」
夢というと、以前、踏切の少年に呼ばれるという相談を持ってきた理工学部の安田たちが思い浮かぶ。
師匠はひとつうなずいて続きを促した。
「どうも毎晩同じ夢みたいなんです。そもそも熱を出したのは地震の翌日だから、今の香波の状態に関係あるのかもわからないし、妹もあんまり詳しいことを話したがらないんですけど。少し気になることを言っていたので……」
千鳥はそこで、口にすることを恐れるように言葉を濁した。
それでも話さなければ先に進まない。眉を顰めて、声を潜めて、周囲を憚りながら吐息交じりに洩らした。
「『山を越えて黒いものがくる』、と」
「山……」
師匠は柳眉を顰めて剣呑な表情になる。山というと、この近辺ではやはり
「それで――香波の病室が、八束山の真正面なんです」
うわ、と綾人は思わず口の端を引き攣らせた。
どうやら千鳥のなかではそれが決定打となったらしい。
八束山は鹿嶋市東部と奈良県を隔てる山林で、市内屈指の心霊スポットたる八束トンネルを有する山だ。先日会ったワシダも八束トンネルでの撮影を計画していた。
綾人はスマホを取りだして地図アプリを開いた。
現在地を中心に周辺地図が読み込まれていく。病院の前の大通りで方角を合わせると、地図を広域に広げて鹿嶋市と八束山まで表示させた。病院の真東の方角に鹿嶋市があり、ひさお川が鹿嶋市を縦断、さらに奥に八束山。
「香波の病室からこれが見えるんだ。赤い観覧車」
「ああ、ビルの屋上にあるやつ?」
「そう。それがここ」
と、千鳥が病院から少し離れたところを指さす。師匠もアプリを覗きこんで「成る程ね」と相槌を打った。
「……まあ、本人に会ってみないことにはなんとも。体調はいいのかい?」
「昼間は元気ですよ。行きましょう」
千鳥の先導で一行はエレベーターに乗り込んだ。
最近建て直されたばかりらしく、南館はきれいで明るい。綾人には病院というと薄暗く白い印象があったが、ここは薄いピンクを中心にした落ち着いた内装で、総合病院というよりは最近の歯医者や眼科に近い雰囲気がある。
「妹さんは普段からそういう発言がある子?」
エレベーターのなかで師匠は千鳥を見た。
階数表示のボタンをじっと見つめたまま、千鳥は僅かに顎を引く。
「そうです」
「エッ」
「綾に秘密にしてることの一つや二つあるって言ったろ」
師匠がしらーっとした顔で綾人を振り向いた。無言だが、「おまえ知らなかったの?」とばっちり書いてある。
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