c 『波の塔』

 香波といえば先日、不思議なことを言っていたのだった。


「師匠、『波の塔』って知ってますか?」

「……どこでそんな単語を仕入れたの」

「千鳥の妹が香波ちゃんっていうんですけど、ワシダさんの件の翌朝に耳打ちしてきたんです。“おじちゃんが『波の塔』だって言ってたよ”だったかな……」


 短くなった煙草を灰皿に放り込むと、師匠はおとがいを指で支えて黙り込む。

 その沈黙にどこか剣呑な空気を感じ取り、弟子は口を噤んで白い横顔を仰いだ。


「……『波の塔』。一九五九年から連載され、翌年に刊行された松本清張の小説だ」

「松本清張?……って、すいません俺読んだことないです」

「秋津くんでも聞いたことがありそうな作品だと『点と線』『ゼロの焦点』『砂の器』くらいかな。書斎に何冊かあるから気になれば読んでみるといいよ。問題の作品は人妻と青年検事の恋愛を描いた長編で、一九六〇年に映画化、その後テレビドラマ化も八度された」


 聞いたことがありそうな作品とやらにも聞き覚えがなかったが、白状したら莫迦にされそうなので綾人は黙って「へえぇ」と肯いておく。今度書斎で探すか、日本文学専攻の姉御に訊いてみよう。


「そして、青木ヶ原樹海を自殺の名所として有名にしてしまった作品でもあるね」

「…………」


 ――青木ヶ原樹海。

 一気に話の雲行きが怪しくなってきた。


 あの日視た、深い森のなかの光景が脳裡で明滅する。



 夥しい数の倒木、地面に覗く溶岩、辺り一面を覆う青い苔。

 死の気配に似た静寂、虫が地面を這い、かそけき羽音、草を踏み分ける足音……。



「物語のラストで人妻が樹海に消えていくんだ。そして一九七四年、この本を枕にした女性の白骨死体が発見された。樹海内での自殺はその後も相次ぎ、約十年後には再び新聞で『波の塔』と樹海の自殺を結びつけるような報道があったらしい。そのため自殺の名所としての青木ヶ原樹海とセットで語られるようになった」

「じゃあ、その小説がきっかけで自殺の名所になったってことですか?」

「そういう説もあるけど、実際のところどちらが先なのかは判らないね。卒業研究にでもしたらどうだい」

「……候補として覚えときます」


 そっとうなずくと、師匠は息を吐く。


「その香波ちゃんという子が一体何者だか知らないけど、あの一件の翌朝に恋愛小説としての『波の塔』をわざわざ秋津くんに教える必要はない。普通に考えれば、自殺の名所としての樹海を題材に択んだ作品という文脈だろう」

「……でも、千鳥が香波ちゃんにあそこで起きたことを教えるはずないです。千鳥だって混乱してよくわかっていなかったのに」

「そりゃそうだ。――そもそも小学生に『波の塔』なんてタイトルを教えた『おじちゃん』とは、誰だ?」


 綾人は答えられなかった。師匠も反応を期待していた様子ではない。

 長い睫毛をそっと伏せて思索に耽る彼の横で、綾人は寒くもないのに両腕をさすった。


 綾人が初めて会ったとき、香波はまだ小学生にもなっていなかった。

 広い世界などこれっぽっちも知らない無垢の塊。大人しく、少し恥ずかしがり屋で、間宮家に出入りする綾人のことを遠目から観察していた。最初の頃は全く喋ってくれなくて、嫌われてるなぁ、と苦笑いしたものだ。

 考えもしなかった。

 あの子が一体何者か、なんて。


 香波は千鳥の妹だ。体が弱く引っ込み思案なところもあるが、朗らかで真っ直ぐな女の子。

 それだけだったはずだ。


「その香波ちゃんに会ってみたい」

「師匠……」

「変なものが憑いているならとっととどうにかした方がいい。入院ももしかしたらそのせいかもしれないよ」


 はっと顔を上げる。その可能性は考えていなかった。


「何も憑いていないとしたら、……香波ちゃんはぼくらと似た体質なのかも」

「見鬼ってことですか?」

「どうだろうねぇ。世のなか、色んな人がいるからね」


 まるで道徳の授業のまとめみたいなことをつぶやいて師匠は立ち上がる。

 秋風が校舎と校舎のあいだを吹き抜けて、白衣の裾がばたばたと揺れた。風に煽られて持ち上がった前髪の下で右目に剣呑な光が宿る。片手に持ったままだったスマホを白衣のポケットに滑り込ませて、きびすを返すと裏口の階段に足をかけた。


「チドリくんにお願いしておいて。家族以外の面会も可能なんだろう?」

「はい、多分。長引くようなら会いにきてくれ、って言われたから」

「面会の結果如何によってはにも連絡を取ったほうがいいね。まああの人のことだから、とっくに樹海の探索に向かっているかもしれないけれど」


 確かに、心霊スポットに詳しいワシダなら、あの森の光景を視ていの一番に青木ヶ原へ向かいそうだ。

 三十一号館のなかに戻っていく白衣の後ろ姿を見送ってから、綾人も駐輪場へ向かった。

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