b 日本の国土に占める森林率は約七割
巽だ。
その隣の茶髪頭はニシノである。
ニシノの肩にも、先程千鳥にひっついたものと同じような靄が揺らめいているのが視えた。声をかけようと綾人が小走りになった瞬間、巽もそれに気づく。
高校時代ケンカ負けなしスーパーヤンキーの、ケンカで鍛えられた腕が振り下ろされた。
「いぃぃってぇ! なに!? なんなの巽!」
「蜘蛛の巣がかかっとる。じっとしてろ」
「マジでぇ!? 取って取って、俺蜘蛛無理なんだよ!」
綾人よりも数倍容赦なく、念入りに、巽はバシバシとニシノの肩を叩きまくる。傍から見ていても痛そうだし、下手をすると暴力を振るっているように見えなくもないので、すれ違う学部生たちが振り返って二度見していた。
……すごく痛そう。
黒い靄が霧散してからも三度ほど叩いて、ようやく巽は満足したらしい。
「よー、おはよ」
「おう、秋津じゃんお疲れ!」
心なしか草臥れた様子のニシノの肩にぽんと手をやり、叩かれて痛そうな辺りをさすってやった。
巽は力加減が絶妙に下手くそだ。本人が「つい」とか「ちょっと」とか主張するパワーは大抵の凡人にとっては「痛い」「強い」なのである。綾人は小突かれることが多いのでよく知っている。
それにしても、と綾人は廊下の隅に溜まっている靄に目をやった。
「増えたなぁ……」
「ああ。増えたな」
巽も顎を引く。
意味のわからないニシノだけは「え、何が? 蜘蛛が?」と嫌そうな顔になった。
その日の講義を終えて駐輪場へ向かう途中、手前にある三十一号館の喫煙所に珍しい人の姿を見かけた。
洋服姿に白衣を引っ掛けた師匠である。
「ししょー!」
「げ」
「げって何ですか、げって」
世間の嫌煙の流れに逆らわず、幸丸大学においても喫煙スペースは縮小傾向にある。
理工学部・薬学部の研究室や、全学部生が自由にパソコンを利用できる情報処理演習室をもつこの三十一号館も例外ではなく、裏口の横に追いやられるようにして灰皿が設置されていた。
師匠は三段ほど高いところに設えてある花壇に腰掛けて、片手にスマホ、片手に煙草を持っている。
「師匠、煙草吸うんですね。なんか意外だ」
「たまにね」
応えつつ口の端に煙草を挟んだ師匠は、髪型はいつも通りに右目を隠していたが、服装は普段の和装とはがらっと違う。グレーのパーカーに黒いスキニーパンツ、そして白衣。大学で和服はさすがに目立ちすぎるし実験時に袖が邪魔になるとかで、姉御が適当に選んでくれたものだそうだ。
面倒くさそうな顔しつつもメンズの店を連れ回される師匠。想像に難くない。
「そういえばワシダさん、実況活動を休止してお母さんを捜しに行くそうです」
「へぇ」
「見つかりますかね」
「さあね」ふ、と吐き出した紫煙が風に流れていく。副流煙の残滓は、綾人が嗅いだことのない甘い匂いをしていた。
煙をかぶった綾人に気づいてか、師匠は煙草を指に挟んで灰を落とすと風上のほうを顎で示す。指示通りそちら側に移動して、彼の隣に腰掛けた。
「日本の国土に占める森林率は約七割。あてもなく捜せる規模の話じゃぁない」
「そんなにあるんですね」
「日本は世界有数の森林大国だよ。先進国のなかじゃ二位だか三位だか……。外国産の安い木材が手に入りやすくなったことや林業の後継者不足もあって、国産材の利用率が落ちているらしいね」
前から思っていたのだけれど、師匠はそういう知識をどこから仕入れてくるのだろう。
確かにあの屋敷で過ごしている間、暇があれば書斎の本を開いているが、それだけでこんなにも情報が出てくるものなのだろうか。頭のつくりが基本的に平凡な綾人には理解できない。
「……ま、好きにさせればいいよ。そういうのは理屈じゃない。気の済むまでやらないとさ」
「そうですね。……見つかるといいですねぇ」
見つかるとか、見つからないとか、確か以前にもこんな話を師匠としたことがある気がする。
綾人は顔を上げてぼんやりと空を眺めた。
夏の頃に比べるといささか薄い色の秋空に、羽のような雲が途切れ途切れに浮いている。日中の気温はそれなりに上がるが蝉の大合唱を聴いていた夏休みほどの強烈さはない。早く涼しくなれと心待ちにしていたはずが、不思議と過ぎた夏も懐かしく思えてくる。
「巽は?」
「五限があるんですよ。俺は今日、一限からフルなんでもう取りませんでした」
「一回生のうちに多めに取っとかないと後々きついよ」
「大丈夫ですよう、そこまで手抜きしてませんって」
こうしてお化け屋敷でない場所で、師匠と並んで、オカルトに全く関係ない話をしている。
なんだか物凄く違和感はあるけれど、彼の隣にいるとなんだか落ち着いた。
「じゃあ、チドリクンは?」
「千鳥は今日、入院してる妹のお見舞いです。……そういえば師匠、最近小学生の女の子に人気のぬいぐるみとかキャラクターとかって何か知りませんか?」
「言うのも莫迦らしいんだけどさ、それ訊く相手を致命的に間違えてると思わないかい」
――思いました。
己の思慮の浅さにがくっと項垂れると、師匠は鼻で笑う。
「流行りは知らないけど、毛足の長いものと大きいものは避けること。退院時に持って帰らないといけないんだから、あまり荷物にならないようにね」
「ハイ……」
香波が日曜朝の女児向けアニメを観ていることは知っているが、関連商品で何かあるだろうか。主人公たちに魔法の力を与えるマスコット的な……と先日の様子を思い出したところで、綾人は「あ」と声を洩らした。
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