その十、山を降りる黒い靄

a 首吊り女の一件から二週間

「アラ」


 隣に座っていた友人のほうを向くと、千鳥はスマホの画面を見下ろして目を丸くしていた。

 昼食のマヨから弁当を食べながら、綾人はこてりと首を傾げる。


「どうした?」

「ワシダさん、しばらく実況活動を休止するってさ」


 ワシダの首吊り女の一件から二週間経ち、暦は十月を迎えた。

 朝夕にようやく秋めいた風が吹くようになり、大学構内を歩く学生の服装も夏を脱しつつある。綾人も例に洩れず秋冬ものに袖を通し始めていた。


 向けられたスマホの画面を覗き込むと、千鳥とワシダのラインが表示されている。

 綾人も一応連絡先を交換していたが、騒動のあとで二言三言あいさつしただけだ。千鳥は元々絡みがあったため頻繁に連絡をとりあっているらしい。


 曰く――

『しばらく実況肝試しはやめようかと思うんだよね』。

『別に通報されたとかこの間の件で嫌になったとかじゃないんだけど』

『ちょっとの間、活動休止して、仕事も休んで、旅に出ようかと』

『母を捜しに行こうと思ってるんだ』


 ざっと目を通したところでスマホを返すと、千鳥はへの字口になって返信に悩み始めた。


「あの時はあんまり詳しく聞かなかったけどさ、ワシダさんのお母さんってけっこう精神的に不安定な人だったんだって」


 そこまで普通に喋っていたが、突然声を潜める。

 昼休みの講義室には学生が屯してそこらじゅうでお喋りをしているので、綾人は体を傾けて千鳥のほうに耳を寄せた。


「過保護というか、執着みたいなものがあって……子どもの頃は虐待みたいな目に遭ってたみたい。そんでワシダさんの目の前で自殺未遂しちゃって、離婚して入院」

「そうなんだ。……ワシダさんはお父さんに引き取られたって言ってたっけ」

「そう。お父さんとは仲がよくて、それからは何も問題なかったらしいんだ。でもこの間のことがあったからお母さんの実家に連絡を取ってみたら、一年前から行方不明になってたんだってさ。お父さんは連絡を受けていたけど、ワシダさんには伏せてた」


 綾人は箸を止めた。

 死してなお息子に執着した母。母なんていない、とはっきりとワシダが叫んで否定したことで、恐らく彼女は息子のもとを離れて自らの骸に戻った。

 死の静寂に満ちた深い森のなか、孤独に死したひとりの女性の遺体を、確かに綾人は視た。


 あの光景を思い出しても平気で唐揚げを食べられる程度には図太くなったようだ。


「だから『母を捜しに』か……」

「うん。おれ、あの晩は意味がわからなくて混乱してたけど、一瞬だけ森のなかを見た気がするんだよな。ワシダさんもそうなんだって。だから、どこかの森にいるはずのお母さんを捜しに行くってさ」

「……そうだな。師匠も、まだ誰にも見つけてもらえてない、って言ってたし」


 図らずもワシダのなかの傷跡を抉るようなかたちになってしまったが、彼がそうやって前に進もうとしているのであれば、よかったのかなと思う。

 ぽちぽちと返事を打ち始めた千鳥を横目に最後の唐揚げを口に放り込んだ。ぼんやりと咀嚼しながらフと教室の隅に目をやって、ぎゅっと眉間に皺を寄せる。


 黒い靄が、天井の辺りでふよふよと浮いていた。


 経験上、ああいうぼんやりとしたものには二種類ある。

 一つは、あまり良くない性質のもので、相性が悪いためにぼんやりとしか視えないモノ。この場合、綾人には太刀打ちできないので早急に離れる必要がある。

 もう一つは、人間の負の感情が凝り固まって靄となった形ないモノ。これは大した害がないけれど、人にくっつくとなんとなく気分が沈みがちになったりイライラしたりする。ぱぱっと手で払ってしまえば問題ない。

 どちらかというと今日のあれは後者らしい。

 風のない日の雲のように揺蕩い、たまに気まぐれで端っこのほうが分離して、近くにいた学生にくっつく。放っておいてもそのうち消えるような類いのものなので綾人も特に反応せず動きを目で追った。


 千鳥の肩にもぴとっとくっつく。

 綾人は無言でその肩を引っ叩いた。ぱぁん、と小気味よい音がする。


「イッテ、なんだよ?」

「虫がついてた」

「虫ぃ? いるわけないだろ講義室だぞ。なんか憑いてたのか?」


 千鳥が気安くこんな質問をしてくるようになったのは変な気分だが、以前のように得意でない嘘で誤魔化さなくてよくなったのは気が楽だ。


「黒い靄みたいなの。別につけてても問題ないけど、視覚的にヤじゃん。俺が」

「ハイハイ綾がね。おれには視えないから虫以下デスヨ。叩くなら事前に言えよな、変なとこで送信しちゃったじゃんか」


 それは申し訳ないことをした。

 ぶつくさ言いながらもワシダへの返信を終えた千鳥は、広げていた弁当箱をぱぱっと片づける。今日の午後も講義はあるのだが、千鳥は休むことになっていた。


「香波ちゃん、熱どう?」

「まだ原因不明。血液検査は問題なかったから、精神的なものかもしれないんだって。昼間は元気なんだけど、夕方から朝にかけてがちょっと良くなくてなぁ」


 香波はいま、府内の病院に入院している。

 一週間ほど前の深夜に紀伊水道付近を震源とした最大震度四の地震があり、間宮家の近辺も震度三を記録した。驚いて飛び起きた香波が千鳥の部屋に駆け込み、二人で一緒に寝たのだが、その翌朝から香波が体調を崩したという。

 熱が上がったり下がったりを繰り返して回復せず、ついに三日前、入院が決まった。

 小学校に上がる前は入院も珍しくなかったというから千鳥は落ち着いたものだったが、それでも両親や祖父母と交代で毎日顔を見に行っている。


「そっかぁ……」

「長引いたら綾も顔見に来てやって。喜ぶと思うし」

「わかった。土日のバイト帰りとか暇だし行く」


 講義室を出て千鳥を見送ると、綾人は三限目の講義がある四階に上った。

 綾人自身はこれまで幸いなことに大病をしたことがなく、入院の経験もない。ホラー的観念からしても夜の病院なんて極力滞在したくないものだ。香波が入院に慣れているといったって、心細い部分はあるはず。

 何か手土産になるようなぬいぐるみでも買うかなぁ、などと考えながら廊下を歩いていると、見慣れた金髪頭が前にいるのに気がついた。

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