i なんでそんなこというの
師匠は地面を這いずり回る頭部を睥睨しながらこてんと首を傾げる。
「あなた、母親はいるのかな」
場違いに平和な仕草だった。
ワシダが目を見開いて、体を震わせる。
「は、母親ですか」
「違う? 年齢からしてそのくらいだと思ったんだけど。爪先にピンクのネイルをしていて、花柄のシャツと擦り切れたジーンズ。首を吊って自殺したみたいだけど」
「自殺……? そんな」
師匠のその声が聞こえているのか、女は蕩けた白目を限界まで見開いて口が裂けるほど嗤った。「ねぇ」と声が洩れる。動画に入っていたのと同じ声だ。ワシダには聞こえていない。
「ねぇ」
「こ、子どもの頃に母が……精神を病んで、首を吊ろうとしたことが」
「おかあさ」
「あります。俺の目の前で」
「にも」
「父と母は離婚して、俺は父についていきました、母は実家に戻って」
「うかいして」
「心の病院に入ったと……そんな、死んだなんて話……」
「ともだ」
真っ蒼になっているワシダの話に混じって足元の女が話しかけている。あまりにも惨い光景だった。彼女には執着だけがあった。息子に対する無垢な執着だけが、この惨憺とした絵面を生んでいる。
ねぇ。おかあさんにもしょうかいして、おともだち。
口元に手をやった綾人はそのまましゃがみこんだ。
「綾」と慌てたような千鳥の声が降ってきて、背中を撫でられる。その様子を目に留めた女の顔が今度はこちらを向いた。
「どう」
死んだ黒目の虚ろな光が近づいてくる。
ころ、ころ、と転がってきた彼女の頭は綾人のスニーカーの爪先にぶつかって止まった。濁った白目のなかに溶けつつある黒目、半開きの薄紫の唇、その隙間から覗く歯、舌、血の巡りのとうに絶えた肌、目元の皺のひとつひとつまで視認できるほどの、実体に近い、死んだ頭、
「したの」
「ぁ……」
師匠の右脚が振り下ろされる。
がん、と凄まじい音を立てて、頭は師匠の足の下にされた。「うぅ」「いたぃ」と呻き声が途切れ途切れに聞こえるが、師匠はそのたびに脚を振り下ろす。
「いたいよぉ」
「残念だけど生霊ではなさそうだ。まだ誰にも死体を見つけてもらえていないんじゃないかな。首だけが腐り落ちて、その状態のままあなたに憑いている。今ここに頭が転がってるんですけどね」
「師匠……」
「たすけ」
「この廃墟のなかを探検しながら、あなた、昔目の前で自殺を図った母親のことを思い出したんでしょう」
「ねぇ」
「そのうえで誰かいませんかと呼びかけた。だから見つかってしまったんですよ。あなたに異常に執着するあまり心を病んだ、お母さんにね」
「いたぃ」
「師匠もうやめてよっ!!」
着物の裾に縋りついて絶叫した。痛い、助けてと嘆く声が聞こえていないはずないのに、無慈悲に何度も何度も足蹴にする師匠のほうが怖かった。
綾人を冷ややかな目で見下ろした彼は、絶句したまま今までの光景を全て眺めていたワシダに訊ねる。
「助けないの、あなたは」
「…………」
「あなたの母親の首がここに転がっていて、秋津くんが怯えて邪魔なので踏んでいるんだけど。視えなくてもそれくらい解るよね」
ワシダは自分の右肩を見た。次に左肩。頭上にも視線を巡らせて、次に綾人と師匠の足元を注視する。中途半端な位置で何もない空間を踏み躙るような体勢の師匠と、その着物の裾を両手で掴んでいる綾人。
彼には何も視えていない。
「たすけ」
「視えてないならそう言ってくれるかな。この人はあなたに気づいてほしくてたまらないんだよ」
「……せん」
「聞こえないな」
「俺には母親なんていません」
「なんで」
「帰宅が遅れただけで狂ったように叩いて」
「なんでそんなこというの」
「殴って」
「ねぇ」
「俺を家に縛りつけた挙句、友だちと遊んで帰っただけで『お母さんのことが嫌いになったの』なんて泣き喚きながら俺の目の前で首を吊ったような女」
「ねぇ」
「母親じゃない……」
「ねぇぇぇぇ!!」
甲高い悲鳴のような女の声が耳を貫く。師匠のブーツの底で散らばる黒髪が激しく逆立つと、ワシダの頭上に力なく垂れ下がっていた肩から下が蠢いた。
脱力していた指先が、動く。
息子の姿を捜すように方々を彷徨った。足が、苦しげに空を掻く。悲鳴がどんどん大きくなる。子どもに拒絶されたその現実を嫌悪するように。
ついにその声が耳に届いたのか、ワシダが怯えたように肩を震わせると、それを掻き消す勢いで師匠が怒鳴りつけた。
「聞こえない!」
「消えろよ! 死んだならもう俺に付き纏うなッ!!」
雷に打たれたように、肢体がびくりと跳ねる。
一切の音が消えた。呻き声も悲鳴も絶える。ただ、ワシダのそばにぶら下がっていた体は、綱が切れたかのように地面に落ちた。
――どさり。
深い森のなか。
夥しい数の倒木、地面に覗く溶岩、辺り一面は青く苔生して深く静まり返っている。死の気配に似た静寂を掻き分けて、虫が地面を這う音や、かそけき羽音や、どこか遠くで草を踏み分ける足音が、誰に聴かせるためでもなくそっと響いて、響いて、消える。
そんな静寂のなか、死を択んだひとつの
ひとあし先に腐り落ちた頭部は體よりも少し離れたところに転がっている。濁った白目のなかに溶けつつある黒目、半開きの薄紫の唇、その隙間から覗く歯、舌、血の巡りのとうに絶えた肌、目元の皺のひとつひとつ……。
一瞬にも満たない間に視えた幻だった。
呼吸を思い出した瞬間、綾人たちは繁華街のど真ん中に戻ってきていた。地面にしゃがみ込んで師匠の脚に縋りついている綾人、その傍に寄り添っていた千鳥、それから静かに泣いているワシダ。
女は消えていた。
ただ黒い男の翳だけが、廃墟の屋上で揺れていた。
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