h 理解の遅い弟子で悪かったな
巽は翌朝からバイトのシフトが入っているというので、運転手を高倉から師匠に替えた四人で向かうことになった。
大通りに面したパーキングにマークXを滑り込ませると、師匠は地図も見ないでどんどん進む。きっと彼自身は訪れたことがあるのだろう。もしかしたらいずれ弟子二人を突撃させる予定でもあったのかもしれない。
ワシダの動画で映っていた商店街は、まだ灯かりのついている店が多かった。
時刻は日付が替わったばかり。
まだ飲み屋は開いているし、人の気配も感じられる。
「今から行く場所は――」
迷いなく歩いていく師匠は、唐突に商店街から道を一本外れた。
途端に街灯や店の灯かりが遠ざかり、大通りのほうから聴こえていた雑音も一枚紗を被ったように小さくなる。
「『首くくり廃墟』と呼ばれる市内屈指の心霊スポット。元は雑居ビルだったそうだが火事で全焼し、権利関係の複雑さから半ば放置されてきたうえ、今ではオーナーが誰なのかもよくわからなくなっている。幽霊が出るとか何かが起きるとかいうよりは、実際にあそこで首を吊って亡くなった人が何人かいるため、首くくり廃墟と呼ばれている感じだね」
「こんな繁華街のど真ん中にあるんですね」と千鳥。
「そう。アクセスがやたらといいし少し走れば人通りのあるところに戻れるということで、肝試しに来易いところでもある。はっきり言って治安は悪いからむしろ『来ないほうがいい』場所に入るんだけどね」
ぴたりと足を止めた師匠の背中にぶつかった。
ワシダが荷物のなかからLED懐中電灯を取り出し、「ここだよ」と綾人たちにも見えるよう照らしてくれる。
明るい商店街から一本外れた路地のなか、雑居ビルの立ち並ぶせせこましい通りに聳える一軒の廃墟があった。
他のビルには怪しいながらもスナックや事務所の看板が上がっているが、この崩れかけの建物には何もない。全体的に煤けていて一部壁や床が抜けているところもあるし、屋上あたりなどは鉄骨が剥き出しになっている。確かに火事で焼けたような痕だ。
ワシダの動画に人影が映っていたのは屋上。
鉄骨にロープを引っ掛けて、首を吊っていたように、綾人には視えた。
「一般に『幽霊』というとなぜか女性の目撃情報が多い。白いワンピースを着た若い女性なんてのは全国各地に何十人もいるみたいだ。背後に立っていたり鏡に映ったり夜道でタクシーをつかまえたり、ずぶ濡れになったり動画に映り込んだり山道に突っ立っていたりと実に忙しい。実際に無地の真っ白いワンピースを持っている女の子なんて、そういるものじゃないのにね」
社会的罪悪感が人に幽霊を見せる。以前にも聞いた師匠の持説だ。
……確かに、妹の紗彩が無地の白ワンピを着ているところなんて見たことがない。千鳥のほうを向くと、確かに香波も持ってない、という風にうなずいた。
「白というのは純潔や無垢の色だ。そういう強いイメージや先入観がある。それと同時に、夜の闇の中でものを見ようとする時は、黒より白のほうが見えやすい」
「……あれですか? 夜道を歩く時はドライバーに視認されやすいように、明るい色の服を着ましょうってやつ」
「そうそう、そういうやつ。間宮くんは理解が早いナァ」
理解の遅い弟子で悪かったな。
「だから世間には『白い服を着た』『女子どもの幽霊』が多いんだよね」
ワシダの懐中電灯が照らす屋上を見上げていた綾人は、そこに人影が揺れているのを見つけた。
「おかしいと思ったんだよなぁ。ぼくはこの廃墟で女性が首を吊ったなんて話は聞いたことがない。以前に来た時も首吊りの女なんていなかった。それなのに動画には女の声が入っていて、あなたの隣には女が憑いている」
――あれ? と、首を傾げる。
確かここに来る前の話では、ワシダはこの廃墟の屋上に人影を映してしまい、それで連れて帰ってきてしまったということではなかったか。
屋上の人影は黒っぽい服を着ていて、顔の部分だけ異様に白く浮いている。動画に映っていたのと同じ影だ。
実物を視てみるとよく解る。
あれは、女性じゃない。
「……なんで……?」
「綾? どうした」
屋上にはきちんと首を吊った人影が視える。千鳥とワシダには視えていないようだから、本物の死体が揺れているというわけではない。師匠の反応からしても明らかだった。あれが動画に映っていた影の正体なのだ。
風もないのに揺れる影。
さわさわとそそけた黒い粒子が、霧のように周囲を纏っている。
放つ気配も、触れたわけでもないのに判る手触りも、女性のものではない。少なくとも十年は時間が経った男性の残滓だ。あるいは、記憶。この場所で首を吊ったという強烈な最期が灼きついた、記録のようなもの。きっと意思もないだろう。
ならワシダについているあの女は?
ばっと両腕に鳥肌が立った。
隣にいた千鳥の腕を引っ張ってワシダから距離を取る。
「綾くん?」
突然の動きに驚いているワシダの隣になおも揺れるピンクのペディキュアの爪先。花柄のシャツを着てジーンズを履いた、首から上のない女。
ごとん、と鈍い音が響く。
ワシダの足元に頭が落ちた。
蟲のような動きでうぞうぞと顔の向きを変える。嫌悪感が湧くほど緩慢な動作でワシダを見上げ、目玉だけを動かして、こちらを向く。
千鳥を見ている。
「――こっち見んなよっ!!」
「あ、綾、なに急にキレてんの?」
こんなものが千鳥に視えなくて本当によかった。
だけど視えない千鳥には綾人が何の脈絡もなくワシダを拒絶したようにしか見えない。綾人の肩を掴むその目は明らかに困惑していた。
師匠は地面を這いずり回る頭部を睥睨しながらこてんと首を傾げる。
「あなた――」
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